子ども手当て554人分でビックリするな
子ども手当て554人分が申請されたニュースだが驚くことはない。
鳩山首相はひとりで1153人分の子ども手当てをもらってたんだから。
鳩山兄弟ならさらに倍!
しかも申請男性の書類は一応整っていたんだから鳩山親子より立派。
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子ども手当て554人分が申請されたニュースだが驚くことはない。
鳩山首相はひとりで1153人分の子ども手当てをもらってたんだから。
鳩山兄弟ならさらに倍!
しかも申請男性の書類は一応整っていたんだから鳩山親子より立派。
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いやはや、希和子(檀れい)が捕まる瞬間までのドキドキ感はたまらない時間だったなぁ。ドラマを見ていてこんなにハラハラしたのは久しぶりかも!原作小説を読んでなお、いやドラマの途中で読んだからこそのドキドキ感かな。
とうとう薫との別れのときが来てしまいました...。来る来ると思いながらの第5話だったわけですが、本当に来てしまうんですねぇ()。
でも久美(坂井真紀)との再会と別れがあったのはよかったぁ。これはドラマ脚本のオリジナル。原作では久美とはあと一歩で会えなかったから、小豆島で久美に会えたパラレルワールドはよかったなぁ。
脚本の浅野妙子さんはこのあたりの取捨選択をどのようにされてたのか興味あるなぁ。DVD化のときはそういうコメンタリーが欲しいなぁ。そしたら買う。録画してるけど買う。
パラレルワールドという意味じゃ、文治さん(岸谷五朗)と希和子とのつかの間の出会いと別れも良かった。数少ない男性陣のなかで大活躍の岸谷五朗。朴訥な島男役は見ごたえあったなぁ。
この小豆島で希和子がずっと守られて逃げおおせるパラレルワールドすら見たくなった。久美の母(吉行和子)や文治さんだったら、ずっとかくまってくれそうじゃないか。まぁそんな人々との別れがあるからドラマになるわけだけど。
最終回はどうなるのだろう。とうとう逮捕された希和子。薫と引き離されたとき、最後に希和子が叫んだ言葉が謎のまま最終回へ持ち越された。小説では大人になった薫がふと思い出すあの言葉。おそらくドラマでも重要なところで登場するんじゃないかと思う。
第1話で「子どもを生めないガランドウ」と罵られ誘拐犯となった希和子が、最後に叫ぶ言葉はこれしかないと思うから。ここは外せないと思うんだ。シチュエーションは違うかもしれないけど。
小説ではニヒルな大人の薫がその言葉を思い出し、そこに「母性」の存在を知る。ドラマだともっとエモーショナルな演出になるのではないかと思ったりする。違ったらめんごでやんす。そうやってアレコレ考えるのが楽しいんで。
そして久美と再会できたように、大人になった薫と出所した希和子がドラマでは出会えるのか出会わないのか。出会って欲しいような欲しくないような...。出会うとしてもニアミスなのか、しっかり自覚できるのか
くそーっ一週間が長すぎる!早く解放してくれ!みんな幸せになってくれ!
実は昨日韓国映画「母なる証明」のブルーレイを観てるのよ。「八日目の蝉」と「母なる証明」にどっぷりつかってる今週なのです。
ドラマ「八日目の蝉」の最初の感想を書いたとき、ジャスティスとジャッジメントというキーワードを提示してみました。「母なる証明」も「八日目の蝉」も、まさに正義と審判を迫る2つの物語!この連荘は正直きっついぜよ。でもこのきつさがたまらなく幸せなのであった!
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前はいつ何行編を書いたかとカテゴリを見たら、五ヶ月前に「た行編」までやってた。久々のネタぎれってことか(笑)。確かに昨年12月から3月まではキムヨナ一色といっても過言じゃない日々だったからなぁ。ここらでちょうどいいアクセントとしてネタぎれ企画脳内曲名で頭をリフレッシュさせよう。
た行の次だから、な行でもよかったのだがあえて「だ行」に挑戦!たぶん毎日イムニダ、スムニダって言ってるから「だ行」への抵抗感も少なかったのだ。曲名となると話が違うなんてちっとも考えなかった。だが、その本能の趣くままというのが脳内曲名の奥義イムニダ!
ではさっそく行きます。行きますの韓国語カムニダの「ダ行編」
だ:ダンチョネ節
でぃ:ディスコユニオン
どぅ:ドゥーユーリメンバーミー
で:電気ビリビリ
ど:土用波
だ行は「だぢづでど」ではないかとの声もありましょうが、「ぢづ」は「じず」ということで、ここでは韓国語風に「でぃどぅ」を採用してみました。
「だ」は最初「DA・DI・DA」にしてたのです。ユーミンのアルバムタイトル曲、だと思っていたら曲名としてはないことが判明。このアルバムの1曲目「もう愛は始まらない」のリフレインをアルバムタイトルにしていたのでした。このアルバムは好きだったのに記憶があいまいになっていてちょっとショック...。ということで、外れ1位的に思い出したのが「ダンチョネ節」でした。こっちは八代亜紀の舟歌のフレーズの元ネタで神奈川県の民謡です。最近だったら舟歌はパクリだなんて言い出す輩がいるかもね。なんでもパクリ疑惑って言われる時代ですから。わかっちゃないよな。
「でぃ」は電気グルーブの「ディスコユニオン」です。アルバム「ビタミン」に入ってる名曲。1990年代当時、テクノ野郎だったボクは電グルのこの曲と、「電気グルーブのテクノ専門学校第1号」に入ってるヴァージョンのRISING HIGH COLLECTIVE Fever Called Love (Hardfloor Mix) がめっちゃお気に入りでした。延々聴いてたな。双璧!
ドゥーユーリメンバーミーは安井かずみと加藤和彦という名コンビによる楽曲。岡崎友紀のヒットチューンです。岡崎友紀好きだったなぁ。ドラマ「奥さまは18歳」ですよ。オリンピックのときのキムヨナより若い(笑)。マチャーキと「紅白歌のベストテン」で司会をやっていたイメージが一番強いです。キタキマユがカヴァしたヴァージョンも良かった。深津つぁんのドラマ「カバチタレ」の主題歌でしたよね。
電気ビリビリも電気グルーブです。「だ行」はどうしてもダンスとかディスコとかそういう脳内になっちゃう!電気ビリビリはハードフロアっていうんでしょうか?インディーズ時代の楽曲ですけど電グルの原点でしょうね。歌えといわれても歌えないです(笑)。
土用波は中島みゆきのアルバム「中島みゆき」に収録されている楽曲。ディスコチューンじゃない曲で締めたいという強い意志がこの楽曲を脳内にひらめかせたのか?1988年という年に新生中島みゆきとして出した傑作アルバムだった。15枚目のオリジナルアルバムに「中島みゆき」とタイトルをつけたことの意味はなんだったのか。
土用波のあたまの 昔の歌を聴きたくはない という歌詞は、この時代の(そしていまに通じる)中島みゆき自身の本心のように思う。それは昨年ボクも参加したBS熱中夜話で許諾のおりた(=おりなかった)楽曲を見ても確信した(そんな話は出来ないわけだけど)。そして「いまのきもち」にもやはり土用波が収録されていたわけだ。謎解きめいて恐縮だが、この曲で締めくくられた「いまのきもち」には過去との訣別が明確に現れている。それは過去の楽曲を愛で続ける私にも
流れてゆけ立ち停まる者たちよ と、突きつけられた刃のような意志なのだった。
というわけで最後はちょっと熱くなりましたが、ユーミンとみゆきのニアミス感も含みつつ(笑)、「だ行編」は終わりです。終わりエヨ。ではまたいつか、「脳内曲名 ●行編」でお会いしましょう。
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前はいつ名刺を作ったかなとブログ検索したら、2008年6月に名刺リニューアルのことを書いていた。ほぼ2年ぶりのデザイン変更です。前の名刺も結構残ってるけど...。まさかこんなに早くPHSから携帯電話に乗り換えるなんて考えてもいなかったので。まぁ前の名刺も併用しつつ徐々に使っていこう。
できたてホヤホヤの新しい名刺はこんな感じ。欲しい人はどっかで会いましょう(>なんで上から目線やねん!)。
基本デザインは2008年と変わってない。元データが残ってたから()。変わったのは、まず名前にハングルを追加しました。一応ハングルフォントも厳選し(フリーフォントだけど)、気に入ったタイプのものに出来ました。韓国で名刺交換するときもこれでOKじゃん
でも一箇所間違いがある。これじゃタジリワダルイムニダ()。ワタルのタは激音にしなきゃいけなかった。作り直そう...。とりあえずいま気付いてよかった
気を取り直して。Twitterも細々と始めたので、ポップンポールロゴの横にツイッター用のアイコンを並べてみました。その下に小さくTwitterのURLも印字。実はmixiでもこのお子ちゃまポップンポール画像を使ってます(最近mixiはあまりチェック出来ていないけど)。これ正真正銘私の子ども時代の画像です(笑)。
その横にはhahajima waveのジャケットイメージも。なんか□や○のアイコンがたくさん並んでるのってカッコいいじゃん(笑)。でも活動休止中のサンタ苦労ズは入れなかった...。
というわけで、ハングルとTwitterとで2010年らしさをちょっと演出してみました。当分メールアドレスも変わらない予定だけど作り過ぎないようにしよう。QRコードはごちゃごちゃうるさい感じになるのと、スケルトン名刺なので認識精度の問題もあって入れませんでした。今日現在「ひとくちメモ」をグーグルで検索すれば939,000件中のトップで検索できちゃいますし
そんなグーグルはいいんだけど、Yahooには一言いいたい。ポップンポールと入れたときに「ポップンロールではありませんか?」と聞き返すの、そろそろやめてくんないかな()話のネタとしてはオモロイんだけども。
さて、2008年当時はこういう名刺を「ブログカード」と呼んで有料の作成サービスなどもありました。いま見たら昨年でサービス終了になってます。ココログだけじゃなくアメブロも同じシステム使ってて終了になってたから、トライ&エラーの結果エラーだったアイデアってことでしょうかねぇ。
まぁカードは個人で作れちゃいますからねぇ。そのほうが自由度高いし。事業化はムリだったってことかもね。でもクラウドが発達してくると、自由度がもっと高くて個人の嗜好を完璧に表現できるアイテムの製造が小ロットかつ短納期で出来るようになるかもしれないなぁ。メモリアル市場ってのはあるからねぇ。ニーズの掘り起こしのほうがキモって意味じゃ今も昔も変わらないんだろうなぁ。
あと、ひとくちメモといえばポップンポールの似顔絵だと相場は決まっているのに、この似顔絵が似ていないなどとぬかす先輩が出現
まぁ確かに。十数年前に描いたさらに若い頃の顔なので仕方がない。だけどかつては似てるという評価もいただいてますからっ。某オフ会で初対面なのに「この似顔絵のおかげでわかった」と言われたこともあるのデス!そこんとこヨロシク。
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先週全6話中の4話目が放送されたドラマ「八日目の蝉」。その放送が待てずハードカヴァの小説も購入して、先週末一気に読んだ。オビにも書いてあったが、確かにページを繰る手が止まらない!
あまりハードカヴァの小説を買わなくなって久しい。ましてやドラマや映画の原作はほとんど買わない。基本的に映像作品が好きで原作に戻ると、どうしても映像のイメージが崩れてしまいがちだから(逆もまた然り)。でもそれは食わず嫌いなのかもしれないと今回思った。
「八日目の蝉」は小説とドラマとで手法が異なり、その技巧的な部分の面白さみたいな面にも興味を惹かれた。
小説の第1章は主人公希和子目線。小見出しがすべて日付になっていて、希和子の逃亡の軌跡が時系列に展開する。一九八五年二月三日から一九八八年九月十九日まで。3年7箇月と16日。それがこの偽装親子の親子関係のすべて。
第2章は成長した薫(本名・恵理菜)目線。記憶の断片でしかない当時の生活、雑誌記事でしか知らない誘拐犯との生活。そしていまその誘拐犯と同じように不倫をし子どもを身ごもってしまった薫(恵理菜)の現在。
このように、第0章(プロローグ)、第1章、第2章(+エピローグ的な最後)の構成は、全体を通しての「起承転結」にはなっていない。主人公の起承転結の物語は第1章で完結しており、第2章はその行動を(読者が)考えるためのナビゲーターとして薫が薫の現在の目線で検証しているかのようだ。まるでスジナシのような構成なのだ。
ドラマではこの構成を大胆に「起承転結」のドラマにして描いている。獄中にいる希和子(檀れい)が回想するかのような導入部。その語り口も盗んで育てた薫への手紙といった趣きで、“幸せな”逃亡生活の映像へと導く。ディテールは小説と異なるが、そのドラマ仕立ての脱構築が小気味いい。
現在の薫(北乃きい)も毎回少しずつ登場し、逃亡生活当時と現在とがクロスオーバーする。小説の第2章を少しずつ織り込みながら第1章の物語が進んでいくわけだ。ひと気のなくなった「エンゼルさんの家」が痛々しい。
なるほど全6話というのはこういうつくりなんだなぁ。プロローグ+起承転結+エピローグ。まさに全6話だ。小豆島行きそのものが「転」だったのか、次回(第5話)予告にあった希和子逮捕こそが「転」なのか、そこは視聴者各位で好きに捉えればいい。
こんな構造(手法)の違いを語りたがるのは、おそらく女性読者や視聴者よりも男性的特性からなんじゃないだろうか。「八日目の蝉」の物語は、女性の女性による女性のための物語という感じが強いのだけど、女性だけのものじゃない、ドラマ好きがはまれる要素がこんなとこにもあるってことを書いてみたかった。
あとついでにこれも男性目線ですけど、檀れいって不倫が超似合うよね。前回エンゼルさんの家の役者さんがすばらしすぎるキャスティングだったことを書いたけど、檀れいと不倫の相性もバッチリだ!明らかに不倫顔だな。
女優には正妻が似合う人と愛人や不倫が似合う人がいる。そのなかにも幸せな正妻、不幸な正妻、幸せな愛人(これはシチュエーションそのものがあまりないが)、不幸な愛人などいくつものカテゴリに分かれている(笑)。いま檀れいは不倫させたい女優のトップグループだ(何の話やねん!)。
思いついたときだけ「ひとくちメモ」に登場する(頭おかしい)ボクのスキスキ女優アワード2010では、幸せな正妻で賞が該当者なし(幸せな正妻なんてドラマ見たくない )、不幸な正妻で賞は木村多江と奥貫薫がダブル受賞、幸せな愛人で賞は三浦理恵子、そして不幸な愛人で賞が檀れいだ!(もちろん実生活は知りません!)
ちなみに「八日目の蝉」でもいい演技を見せてくれた坂井真紀は不幸な独り者がよく似合う(笑)。本日14:00からのNHK土曜スタジオパークにご出演されます。番組サイトに坂井さんに番組内でやってほしいことのアンケートがあったので、コマ回しに一票投じました(笑)。ドラマでコマ回してたシーンがうまかったので。特撮じゃないよねってアンケートに答えてみました。やってくれるかな?
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坂本冬美のシングル「また君に恋してる」とアルバム「Love songs」とが19日付オリコンチャートで同時にトップ10入りを果たしたそうだ。演歌歌手としては美空ひばり以来20年7ヶ月ぶりの快挙だという報道を見た。坂本冬美と美空ひばりという2大スターの名前が並んで報道されちゃぁポップンポールたるもの、なにか感想を書いておかねばなるまい
6年前のひとくちメモにこの2大スターの名前を並べた瞬間があった(笑)。NHKの面接でそんな話をしたというエピソードだったが、まさか21世紀にこのようなかたちで坂本冬美が美空ひばりと肩を並べる日がこようとは正直思っていなかった。しかし現実となってみると納得のトップ10入りではないだろうか。
しかしこのお二人を“演歌歌手としては”という括りにしてしまうマスコミの古さには苦笑いだ()。そういうカテゴライズを超えた位置にいるからこそ支持されているわけで。
坂本冬美さんの場合、デビューした頃から演歌だけでなく歌謡曲やポップスも歌ってきた。ボクは坂本さんの師匠・猪俣公章氏が音楽監督を務めた1989年の「いい女になりたいコンサート」というライブアルバムを持っているのだけど、そのラインナップもかなりバラエティに富んでいた。猪俣公章をして坂本冬美のレンジの広さを見抜いていたんじゃないか?
このライブアルバムですでに長渕剛の「乾杯」や井上陽水の「夢の中へ」を披露している。個人的にはケイ・ウンスクの「すずめの涙」やペギー葉山の「南国土佐を後にして」などの歌謡曲の歌唱も大好きだ。
その後、1991年ごろのプロジェクト「HIS」は坂本冬美とポップスの親和性を語る上で外せない。避けて通れないという言い方もあろうか()。
細野晴臣と忌野清志郎と坂本冬美のユニット。もうこの名前だけで買いだ。日本のポップス、ロック、ブルース、はらいそ、テクノ、それらを創造してきたハリーとキヨシローが坂本冬美を誘ってアルバムを作ってしまったという快挙。
そのとき坂本さんはセーラー服を着せられて結構はずかしそうだった。そのためかHISのラジオプロモーションには男子2人だけという寂しい(?)こともあったりした。二人の男子がその状況をグチりながらプロモしてるという笑えるシチュエーションで細野さんが「冬美ちゃん怒っちゃったかなぁ」みたいなこと言っていた。でもおそらく坂本さんも楽しくやっていたと思う。
個人的には1999年に坂本冬美さんの勤めていた和歌山県の梅干工場も訪問した(笑)。まぁ、このときは和歌山ラーメンブームだったので青春18キップでラーメンを食べに行ったときにたまたまその情報を知り訪問しただけだが。
そんな思い出の数々が走馬灯のように蘇ってきた今回の快挙。歌唱力にもますます磨きがかかり、それでいて肩の力を抜いて歌っている「また君に恋してる」は曲も歌詞も歌唱もいいというすばらしいパフォーマンスだ。
ビリーバンバンのいいちこのCMは名曲ぞろいでアルバムも出てる。「時は今、君の中」や「今は このまま」も名曲だ。左のCDはいいちこCMのDVDもついててお買い得。まさにいいちこのプロモーションビデオだ。
ビリーバンバンの歌唱はものすごく透明感のあるソフトボイスで独特の世界観がある。それに対して坂本冬美の声はすんなり流れていかない声だ。シンセサイザーに例えると、ビリーバンバンが三角波だとすると、坂本冬美の声はパルス波やノコギリ波を増幅したようなタイプの声質だ。
それまでのいいちこCMでビリーバンバンの透明感に包まれていた世界に、いきなり鋭いスリットを挿入したかのようなインパクトがあった。男声から女声に変わっただけじゃなく波長の違いから来る異質な感覚だった。
しかしそれが多くの視聴者の耳に止まったはずだ。楽曲はまさにビリーバンバンなのにまったく真逆な声で歌われた。しかもうまい!そこから先は口コミで広まり、マスコミに採り上げられ、今回の大ヒットにつながったように思う。
ライブはCDだけで、生で見たことがない。ライブに行く機会があればいいなと思っている。
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「魚食難民」と書いてから二ヶ月ちょっと経過した。なんだかんだいいながら明らかに魚介を食べることが多くなった。やれば出来るもんだね。飽食の時代に感謝。
肉食から魚食へ
野獣から野菜へ
けだものからくだものへ
まさに魚食系男子に華麗なる転身!以前が何系だったかは想像にお任せしますが(笑)。
時代はいま肉食系でも草食系でもない。第3の道は魚食系(うおしょくけい)だ。そもそも昔の日本男児はほとんど魚食系だったのだ。島国日本は海洋民国家なのである。もっと魚を食べよう。
最近では徐々に魚介系惣菜も増加しているような気がする。うまい魚介類はニーズがあることに目ざとい小売業界は気付き始めているぞ!惣菜は鮮魚ほど素材に頼らなくて済むアイデア勝負の分野だ。“なんでも揚げ物”な店はソッポ向かれるぞ。多少高くても美味い魚介惣菜なら買う。どんどん開発せよ!
ホタテのソテーくらいならウチのフライパンで焼ける。下味ついてるし。買ってから15年以上一度も使っていないグリルで焼き魚をしてみたい衝動にも駆られる。しかしそのグリルの掃除はめんどくさい。せめぎあいが続いているが、ゴールデンウィークに時間を持て余したら焼いてみるか。簡単に洗えるグリルも開発せよ!
不飽和脂肪酸の威力を日々感じている。魚と野菜で腹いっぱいになれることを、不肖ポップンポール初めて知りました()
魚と野菜とくだものの組み合わせだと、少々食いすぎても翌日体重が増えてない。普通の量なら減っている。肉食じゃありえない現実を目の当たりにしてる。成果が目に見えるのはすごい。当分はあえて運動することもなく魚食比率アップだけでデータを取っていく予定。
くだものも大切だ。最近はデコポンが欠かせない。腹持ちがよくうまい。できるだけいびつなけだもの系デコポンを選ぶ(笑)。そのほうが皮がむきやすいから。
ただし食費はかかる。魚も野菜もくだものも高い。肉食のほうが安上がりという倒錯したこの世界...。魚食系男子は少々金のかかる生活なのだ。国民を健康にしたいならこれらの価格をナントカしろ!この国の豊かさがいかにうわべだけのハリボテかがわかってしまう魚食系男子なのであった。
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日曜にNHK教育で「ハーバード白熱授業」を見て、火曜にはNHK総合でドラマ「八日目の蝉」を見る。個人的にいまもっとも熱いテレビ番組はこの2つだ。どちらにも共通するテーマはジャスティスとジャッジメント。つまり正義と審判ではないだろうか。白熱授業は全12回なのでまだ余裕があるが、八日目の蝉は全6回の半分が終わってしまったので、今回はドラマについて書いておきたいと思った。
そのストーリーも設定もキャスティングもセリフもあらゆる要素(=ドラマツルギー)に引き込まれた。不条理の連続のなかで視聴者は何が正義であり、なにをどう判断すれば良いのかを問われる。
客観的に見れば主人公は誘拐犯で逃亡生活を送る犯罪者だ。しかしこれは犯罪ドラマじゃない。安易なお涙ちょうだいドラマでもない。ヘタに触れると火傷しそうな人間ドラマだ。ベタな言い方で恐縮だが...。
妻と別れると言っていた不倫相手に子どもが出来たと報せると一転中絶させられ、その結果子どもを生めなくなり、さらに不倫相手の妻が子どもを産み、その妻に「子どもをおろしたからっぽのガランドウ」とまで罵られる。その結果、不倫相手の赤ん坊を盗んで逃亡してしまう主人公。
初回からこの「からっぽ」というセリフは強烈だった。不倫相手の妻の側の目線に立てば感想もまた違うのだろうが、主人公に感情移入するにはこのくらい貶められなければ難しいことも確かだ。誘拐犯なわけだから。
さらにこの不倫相手の夫婦とだけでなく、永遠に理解しあうことのない様々な断絶の形がいくつも登場する。「エンゼルさんの家」という新興宗教チックな共同体や、そこにしか居場所のなくなった女たちの過去。そして誘拐された子の現在...。
視聴者はその都度、いったいどこに正義があり、どちらの側に立って感情移入していくのかを迫られるのだ。完全な正義などどこにもない不条理なこの世界とどう折り合いをつけて生きていくのかを考えさせられる。裁判員制度の予習してる気分ともいえそう(?)。
不条理に明確な克服方法はない。不条理といえばカミュだが、カミュのように不条理をあえて不条理のまま受容するという、ある種の達観だけがあるようにも思える。それは矛盾を矛盾として受け入れる、無意味を無意味なものとして生きる。そんな人生そのものに直接突き刺さってくるテーマなわけだ。この受容のうえに寛容さや謙虚さが宿り、人は人として成長し判断できるようになる。
おそらくこのドラマに明確な回答はないだろう。どうすることが正しかったのか、正しければ正解なのか、そもそも正解でなきゃならない人生などあるのか。全6回ではあるけれども、その後も尾を引きそうなテーマだ。終わりが始まり。それが名作の秘訣かもしれない。
キャスティングについては、「エンゼルさんの家」はみごととしか言いようがない!やさしいおばさんかつ共同体のトップリーダーに藤田弓子、二番手で冷徹な教育係に高畑淳子。この対比のみごとさ。まさにこの手の共同体に「ある!ある!」という構図だ。
そして何と言っても坂井真紀!どこまで向上するんだろう彼女の演技力は。「実録・連合赤軍」のときも迫真だったが、今回も全身全霊といいたくなる演技だった。
欲を言えば宮澤美保をもっと見たかった。最初の映画版「桜の園」以来、結構好きなんで。
さて、逃亡生活後半の舞台は小豆島からはじまる。5年前に私も行きましたがいいところでございます。新たな展開をとにかく早く観たいドラマなのです。
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「キムヨナへの道 序章」の最後にご紹介していた韓国の書籍「キム・ヨナのように 世界を胸に抱えた子供たちの夢」(全文韓国語です)が届きました。これは以前購入したキムヨナ自伝を韓国の小学生向けに再構成した書籍です。
サイズは日本ではあまり見かけない気がする180×235mm。単行本よりちょっとワイド版な感じで、B5判よりやや小さめ。3月30日に初版初刷が発行されているが、ウチに届いたのは4月3日の初版5刷だった。飛ぶように売れているのか?
また今回も付録付きで、キムヨナのトレカが12枚付いていた。コーティングなしの簡単なものだがうれしい。カードの裏にはキムヨナの演技に出てくるワザの名称がハングルで書かれている。しかし外来語なのでだいたい読めるのがさらにうれしい(笑)。
右写真で裏にしているカードは上が「イナバウアー」、下が「レイバックスピン」だ。こうカタカナにするのに抵抗感があるくらいにはハングルに親しめてきた今日この頃。
小学生向けとはいえ、まだまだ私が読めるはずもない。文法も時制も一通り終えてからでないと厳しいと思うけど、助詞と単語だけでも意味は取れるかなと思いつつ、1冊はリーディング教材として既に書き込みを始めた。紙の質感が良くて鉛筆がなじむ。
もう1冊保存用に購入しているので、そっちは封も切らずに保存しておくのだ。
2010/04/11追記)-----
とりあえずタイトル(김연아처럼)と、扉の次のページの「ヨナの手紙(엔아의 펜지)」と「この本を読む子どもたちに(이 책을 읽는 어린이들에게)」という2行を訳した(笑)。先は長い
これ朗読CD出してくれないかな(낭독CD를 시판해 주십시오!)。本文はアナウンサーとか俳優が朗読して、手紙の部分はキムヨナとヨナの母本人だったりするとプレミア感ありなんだけど。
●ハングル入力にも徐々になれていかねば!
ハングルのキーボード入力って結構簡単だね。左手のQWERTキーにはパジャダガサとその濃音、中段ASDFGキーにはマナアラハ(濃音なしの子音)、下段ZXCVキーに激音カッタッチャッパッが配置されてる。
右手は母音で、中段を基準に覚えるとわかりやすい。中段HJKLキーは単母音4つ(ㅗㅓㅏㅣ)。下段にはユとウ(ㅠㅜㅡ)。下にヒゲが伸びる母音だ。最後に上段YUIOPキーで、それ以外の重母音の3つ(ㅛㅕㅑ)とごちゃごちゃ系(ㅐㅒㅔㅖ)。重母音3つと単母音3つは形と並び順が対応してるし、ごちゃごちゃは左上隅にまとめてる。慣れると手書きより早く打てそう。
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最近の教育テレビが面白すぎる。昨年まで教育テレビ欄がなかったテレビ情報誌にも教育テレビの列が設けられたりして、ある種の教養情報バラエティ番組枠として無視できない存在となってきたようだ。
民放のゴールデンタイムには相変わらず小学生レベルのクイズ番組や笑えないバラエティ番組が多くて辟易している。たまに見るには面白いのかもしれないが、これだけ似たようなカラーの番組ばかりになるとテレビをつけているだけで疲れる。ついついケーブルテレビやBSに換えてしまう。
そんな状況のなかで一際目立つのがNHK教育だ。ETV特集系は昔からあったが、通常番組で特筆すべきものが次から次へと出現してくる。いやはや驚きの企画力と実行力だ。何年もまえから教育テレビが変わる芽のようなものはあったと思うのだが、その芽が育ってきたということなのだろうか。人材的にも実権を握ったみたいな。
教育テレビ50周年の記念番組はある種のリサーチだったのかもしれない。例えばそこで人気投票上位に来ていたYMO出演の「YOU」とか、オフコースのドキュメンタリー「若い広場」などを通じて、制作者は“宝の山”を発見したのかもしれない。
佐野元春の「ザ・ソングライターズ」のあと、井上陽水の「LIFE」や「こだわり人物伝」の高田渡等、ミュージシャンを採り上げることも増えた。そして先日始まった坂本龍一の「schola」に至っては真打登場って気分だ。いつか中島みゆきさんにも教育テレビにご登場願いたいと密かに期待してもいる。
また「教育テレビ」という既成概念を逆手にとって差別化できるという面もありそうだ。例えば「グラン・ジュテ~私が跳んだ日~」でモデルSHIHOの回を思わず録画した。遠藤憲一のナレーションもGoo!しかしこれは「情熱大陸」とか「波乱万丈」とかのジャンルであって、いわゆるかつての教育テレビ的ではない。
だが教育テレビで流れることによって、視聴者側にある種の能動的モチベーションを発揮させる装置になっているともいえる。娯楽番組なのか教養番組なのかは視聴者側の意識の問題だ。それを喚起しやすいのが教育テレビという“場”かもしれない。
何からでも学ぶことは出来る。民放の小学生クイズから学ぶ事だってあるだろう。民放が教養番組に近づき、教育テレビは娯楽番組に近づく。しかしチャンネルを合わせる視聴者にとって「教育テレビ」という行儀の良い場所は、まだなんとなく姿勢を正して観たい枠で、そこで放送されている内容への信頼感や安心感は高そうだ。
そうやって教育テレビの敷居を下げておいて、テレビ欄で無視できない存在にしておいて、硬派な番組を流されると眠っていた知的好奇心が呼び覚まされる(笑)。例えば日曜の新番組「ハーバード白熱教室」なんて究極の教育テレビだ
こういう番組を待ってたんだよ。哲学とか道徳、あるいは正義についての講義をこれほど面白く教えられるサンデル教授の存在そのものが興味を駆り立てる。人間の生死がかかった場面での究極の選択をとっかかりに、倫理とはなにか、正義とはなにかについて討議する。こうして文字にするとこの番組の面白さは伝わらないが...。ハーバード流真剣10代しゃべり場(笑)。全部観たい。
アニメでも「スターウォーズ・クローンウォーズ」なんてやってて、これも見逃せない。何の教育なんだ?CG技術か?ストーリーテリングか?なんだっていいけど!
いまの教育テレビはある意味ゆとり教育を実践しているのかもしれない。本来のゆとり教育の「ゆとり」とは、学校教育からこぼれてしまった大切な学びを体験する時間だった。それが単なるスカスカ授業に読み替えられ、ゆとりは休みとか昼寝と同義になってしまった。
サンデル教授のような授業は日本の画一的学校教育では出来ない。言い方をかえれば、そんな授業をするゆとりが学校にない。詰め込み教育の復活でさらにゆとりはなくなる。もっともスカスカ授業よりはマシかもしれない。
経験的には学校で学ぶから嫌いになる場合が圧倒的に多い。これも言いかえれば、学校教育からはみ出したところで学べれば好きになる。青年は反抗的な生き物なのだ。
そのとっかかりとして教育テレビには可能性がある。昔ながらの教育番組は学校教育の補完的なものだったが、その枠を取り払い「学びとは能動的なもの」という本来の姿を取り戻させてくれるかもしれない。むかしフジテレビが「楽しくなければテレビじゃない!」と言っていたが、時代はいま「楽しくなければ学べない!」ということだ。
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NHK古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」(前編)を見た。いやーいいっすね。歴史秘話ヒストリア「大仏ってなんで大きいの?」も見て準備した甲斐があった。ドラマ後編をはやく見たいって人には本日16:30からBS-hiで先行放送される(5.1サラウンド)。最近BSで先行放送ってパターンが多いな。ありがたいけど。ヒストリアもまだ再放送があるからオススメ。
どーでもいいけど大仏ってチョビ髭があったのか。復元作業でチョビ髭描いたら落書きだと思われそうだな。現代日本人の価値観とはずいぶんちがう。瞳もないほうが仏様にはありがたみを感じる。ウルトラマン世代だからか?
古(いにしえ)のロマンは、まさに“古さ”そのものが価値なので、古さをいかに残しつつどこまで復元するかだな。だからといってジオラマ風に汚す必要もないわけだが。ほんとにどーでもいい話だったな()。
さて石原さとみだ。これまで一度も石原さとみについては書いたことがなかったはず。あえて書かなかった。嫌いだからじゃない。あるいは竹内結子さんのときのように好きすぎてユッコ断ちしていたみたいなこともない。
単純にご縁がなかった。石原さとみの出演ドラマと私の嗜好とがすれ違っていたともいえる。テレ朝の「パズル」(2008年)はちょっと食指が動いたがブロックノイズのせいで見るのをやめてしまった。
CMには結構好きなシーンがある。2009年のサントリーストロングゼロの「リングで説教編」の「強いだけじゃ」って言い回しとその表情。とくに口元。石原さとみを見るとどうしても口元に目が行ってしまう。
2年前に芝居を指導したつかこうへいの石原さとみ評は「淫乱な顔つき」だったが、これは完璧な褒め言葉だったと思う。この口元が醸し出すエロスは天性のものだ。誰にもマネできない個性だと思う。
韓国語の母音の「一(ウ)」の発音をするときのように口を横に開くときがいい(ピンポイントやなぁ)。ヘタするとだらしなさそうに見えるギリギリのところ。そこに石原さとみらしさをもっとも感じる。それが清純派な容姿のなかにあるからこそ魔性のポイントなのではないか(日曜の朝から何書いてるんだオレは)。
若いだけじゃ生き残れないこの世界で、21歳にしてつかこうへいにそのエロスを見初められた石原さとみ。私にはそうインプットされたわけだが、どういうわけか目に止まるドラマがなかった。これは使う側の問題で石原さとみの問題ではないわけだが。
今回「大仏開眼」でようやく石原さとみについて書く機会が持ててよかった。もっとこういう文化の香りのするドラマや硬派なドラマで起用されてもいいと思う。今回の阿部内親王という役、気は強いが素直な娘という点ではまり役だ。古代の装束も良く似合う。
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昨日たまたまNHK BS-hiにチャンネルを合わせたら、萩本欽一の特集番組をやっていた。先行放送された番組「ザ・スター」の第一回放送だった。本放送は本日BS2で。思わぬ拾い物で本放送の録画予約をした。先日もテレビ東京で欽ちゃんと伊東四郎とのビッグ対談番組をたまたま観た。そっちも録画したかったなぁ。芸能生活50周年!半世紀だよ。
個人的には“たまたまテレビで欽ちゃんを観た”というこの引きの強さが自慢だ テレビをザッピングしていれば常に誰かが何かしている番組にたまたま遭遇してしまうものだが、萩本欽一の運命論に強い関心のある私には、たまたま欽ちゃんだったことがうれしい。
ザ・スターで得られた共演者からのいくつもの証言は、欽ちゃんの運命論研究を補強するうえで重要だった。欽どこ見栄晴(藤本正則)の最終オーディションのジャンケンや大道具さんを悩ませた朝令暮改な“気まぐれ”他、論理を排したメタ論理の運命論の数々。そのまさにテレビの申し子ともいえる運命論の引力に引き寄せられた人々が語る萩本“大将”欽一像。
テレビは魑魅魍魎の世界だ。洞察力と判断力が秒単位で試されている。過酷な競争社会の現場(ミクロな世界)の満足とカメラの向こうにある視聴者(マクロな世界)の満足とを同時に成立させないと成功しない。テレビ界に君臨していた当時の萩本欽一という人は、冷徹な意志と人懐こさを両輪にテレビの波を常につかんでいた。そもそも相容れない両輪を動かす原動力、時々刻々と示現する矛盾を乗り越える武器、それが欽ちゃんの運命論だったように思う。
昨日考えて決めたことは昨日のことであり、今日の本番ではいまこの瞬間の感性だけを信じる。だから昨日いいと思っても今日ちょっとでもいやな印象を持てば変更させる。結婚が決まったスタッフを番組から外させる。徹夜で過酷な現場のなかにひとりだけ幸せな人間がいると良くないという理由で。
欽ちゃんの運命論は願掛けとかそういうレベルではなく、徹頭徹尾瞬間風速的な判断の連続だったのではないか。矛盾や論理なんてハナから問題視しない。その場の感性だけでビジョンを描く建築家のようなものだ。極端に言えば欽ちゃん教の教祖だ。それをカタチにしたり布教できるスタッフがそろっていたともいえる。
振り回されるスタッフや共演者は大変だっただろう。普通ならソッポを向かれてもおかしくない。しかし数字を持っている強さや付き合ったらとことん面倒見る度量の大きさを併せ持つ萩本欽一の番組づくり。全部飲み込めた人間だけが残ったのかもしれない。
そんな運命論はテレビという特殊な世界だったからこそ威力を発揮したのではないか。そういう意味ではテレビは魔法の箱だと思う。欽ちゃんは「ザ・スター」のなかで、大きな野球場のベンチに座って「結局残ったのはマイクだけだったねぇ」とシミジミ語った。テレビスタジオという小さな世界の覇者が現実社会に向けて語った言葉だったと思う。
だが萩本欽一の運命論は魅力的だ。論理ではどうしようもない瞬間が多い。それをなんとか論理で解決しようとすれば哲学者にでもなるしかないだろう。その究極がヴィトゲンシュタインだと私は思う。真逆に見える両者だが、例えばヴィトゲンシュタインの「反哲学的断章(新装版)」の訳者あとがき(1981年)で、「ヴィトゲンシュタイン」を「萩本欽一」に置き換えても通じるくらい両者は似ている。
私がどちらにも惹かれるのはなぜなんだろう。矛盾を矛盾のまま乗り越えようとする姿勢、そして言葉。生きずらい世の中を生きる武器として論理から解き放たれた言葉の羅列。そこに新しい意味や価値を付加できる人間力。あえていえばそんなところか。
一方でこんな思いもある。パーソナルなつながりであるテレビスタジオや劇団とマスメディアの化け物としてのテレビと、どちらにも通用した運命論だが、その中間にある現実社会を動かすにはやはり論理が必要だ。
政治や経済に論理がなくなったらモラルハザードだけが残る。運命論(言い換えればエゴイズム)は矛盾を拡散してゆく。核を発電と爆弾とのどちらに使うか。そこに運命論を持ち込むことは出来ない。運命論の使いどころを間違わないくらいには論理的である必要がある。そこが難しい。
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