なんだかやりきった感あり
どーも最近ブログを更新する気力がない。Twitterで適当なことを書いて満足しちゃってるわけでもないと思う。結局10月以降、ずっとトップギア入れたまま中島みゆきとキムヨナと福見友子と書いて書いて書きまくって疲れちゃったということなんだろうな。あ、中島みゆきナイトは好評のようで12月30日に2夜分連続再放送されるそうだから、見逃した人はぜひ!
ところでTwitterって面白くはないな(笑)。そもそもがコミュニケーションツールを欲しがってるわけじゃないからかもしれないけど。たぶんボクのなかに(哀しいかな)「書く」という行為への最低限の線引きがあって、Twitterくらい「書く」ハードルが低くなっちゃうと、モチベーションが沸かない。昭和な人間なんで...。
ブログを書く時間が物理的に取れない、というのもただの言い訳だ。書く気になればいくらでもネタはあるのだ。それこそ脳内曲名だってなんだっていいんだし。そのうち、書きたくなるのを待つしかないのだろうなぁ。書きたくても書かないことにしたジャンルもあって...。
あと食べることへの執着があまりなくなった。それはもしかすると生きることへの執着がなくなったと言い換えられるかもしれない。
加藤和彦の自殺のときに、そんな気分になったんだ。あの自殺のとき、ぼくは森村桂の自殺を連想した。それまでのボクには自殺なんて絶対に許せない行為だった。自殺も人殺しだからね。
だけどこの二人の自殺は、生き方の選択だと思えたんだ。本当の原因はなんだかわからない。でもこの2人の自殺の動機は、常に先頭を走ってきて、もうやりきった、あるいは楽しいことが思い通りに出来なくなったから、スッと終わりにしようとしたんじゃないかと思えた。
死ぬに値する生を生きてきた人たち。晩節を汚す人々が多いなか、スッと終わりにするという選択。そんな生き方もあるんじゃないか。ただでさえ人類は多すぎる。むりやり生きている人が多すぎる。自殺もひとつの尊厳死といえるかもしれない。もちろんそのためにはどう生きたかがもっとも重要なわけだが。
なんだかそんな気分にさせてくれたのがトノヴァンの自殺だった。まぁ彼らも降りることが出来れば死なずに済んだんじゃないかと思うけど、きっと降りれなかったんだろうな。「降りてゆく生き方」というのは、案外難しい生き方なのかもしれない。
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