第二夜は夜会 魅力は大きく動く中島みゆき
第一夜(後夜祭)に引き続きまして、昨日放映された「BS熱中夜話中島みゆきナイト」の第二夜について言い訳、いや感想戦をはじめたいと思います。
中島みゆきファンによる「夜会」話。この会自体が非常に濃い。だからファンから出て来る感想や魅力も非常に濃い。そんななか「夜会の魅力は?」と聞かれて「大きく動く中島みゆき」と応えてしまったワタクシ...。
いま思い返せばスタッフさんから「(魅力は)大きく動く中島みゆきでいいですね?」と念押しメールが来た時点で、ノリが違うのかな?と気付くべきだった(笑)。しかし本番前スケッチブックに「大きく動く中島みゆき」と書いてしまった。そしてオンエアされてしまうワタクシ...。
およびでない?およびでないね?コリャマッタ失礼いたしやした!と植木等のような気分であった(笑)。本番中の話だぞ。まぁ、その異質なノリが夜会の魅力の多様性を語る一助になっていたと前向きに解釈しとこう。
ただ、そんな雰囲気を悟ったワタクシめが自分をフォローするかのように発した着眼点こそが「マイクを離さない中島みゆき」だった。「夜会」の舞台でどんな態勢でいようとも、でっかいマイクで歌う中島みゆきという視点だ。
●マイクを離さない中島みゆき説の裏話
前々からそれに気付いちゃいたがこの本番で言う気は実はなかった。でも「寝て歌う」から話し始めたゆえ、なにかまともなこと言っとかなきゃこの場が締められないなと「24時着 0時発」のVTRが流れている間にとっさに考えたのが「寝ていてもマイクを離さない中島みゆき」だった。
この考えがまともだと思っているんだから相当あせってた(笑)。「大きく動く」も「寝ていてもマイクを離さない」も発言の異質さに大差ない...。だけど、それを救った(と自分で思ってる)のが「マイクはシンガーとしての矜持」というコンセプトだったのだ
この「夜会」をどんなキーワードで表現するか。田家秀樹さん風に言えば“世界的にも他に類を見ない舞台表現”である「夜会」なのだが、例えばこれを演劇だと捉えてみると、あのでっかいマイクには相当な違和感がある。でも観客は誰も違和感を覚えない。それはなぜか。中島みゆきがまぎれもなくシンガーだという不文律があるからだ。
荷物を抱えて両手がふさがっているシーンでもマイクを持っている。電話をかけている場面ですら右手に電話、左手にマイクなのだ。ヘッドセットマイクを使った夜会もあるにはある(Vol.5の時間泥棒など)。しかし基本的に「夜会」のマイクは歌唱用のでっかいマイクだ。
このマイクの存在感が「夜会」を演劇でもコンサートでもないものにしている一因だと思う。同時に主演がシンガーであるという主張を端的に示すのにこのマイクパフォーマンス(?)は非常に効果的だと思うのだ。
ワタクシはそのマイクの違和感と存在感に、シンガーソングライター中島みゆきが舞台に立っている(あるいは寝ていたり踊っていたりする)「夜会」のオリジナル性を感じるのだ。そこに共鳴して、この第二夜でのワタクシ自身も異質であろうとしたのかもしれない(>オレいま相当こじつけてるかな?)。
●大きく動く中島みゆき願望を紐解く
そもそも夜会の魅力が「大きく動く中島みゆき」というのは、1980年代までをドップリ中島みゆきの音楽で過ごしてきたから出てきた素直な感想だった。初めて生で中島みゆきを見たのは1984年のコンサート「明日を撃て!」だった。
2003年のコラムにも書いてるけど、両親協力のもと市内のレコード店を駆け回り、徳山市文化会館の立ち見チケットをやっと1枚手に入れてのコンサートだった。最初の曲は「僕は青い鳥」の弾き語り。LP「はじめまして」が出る前だったのでコンサートではじめて聴く曲だった。身体が震えた。
当時、テレビに出ないフォークシンガーが流行ってた。それがかっこいいという感覚も持ってた。もっともアイドル全盛時代でもあり、テレビに出る歌手も大好きだった。ジャンルが違うと思ってた。みんなちがって、みんないい(金子みすゞ)。
中島みゆきはテレビに出ない派。まだビデオだってそれほど普及していない時代でコンサートのビデオが発売されたりもしない。「動く中島みゆきを見る」ということは夢のまた夢だったのだ。ましてや大きく動くとこなんて。小さくてもいい、動いていてくれれば()。
そんな中島みゆきのコンサートだ。聞き漏らすまいと集中していたことは間違いない。確かに動いていた(笑)。大きく動くなんて望まない。ただ目の前でギターを爪弾いている中島みゆきの指先を欲していた。口の開閉と歌詞がシンクロしていた。
上京して初めて見た夜会は「シャングリラ」だった。動いてたね。それも大きく動いてた。レコードで聴きまくった楽曲群が新しい装いで舞台に提出される。新曲もある。「シャングリラ」はちょうど夜会の端境期にあたる。既発表曲と夜会オリジナル曲とが混在していた。
当時は新旧混在の意味や、中島みゆきさんがこれまでそしてこれからの夜会をどう紡いでいくかといった深い部分までの考察は出来ず、ただただ動く中島みゆき見たさに劇場へ行った。上京=動く中島みゆきへの接近だったのだから。コンサートで初めて見た動く中島みゆきから10年が経っていた。
その「シャングリラ」からも既に15年の月日が流れた。そんな体験を21世紀まで引きずってるわけさ。「夜会」はいまも行われている。そこへ行けばまさに「大きく動く中島みゆき」がいるのだ。それだけで感動できるのは過去の渇望が脳にインプットされているからに他ならない。
「舞台なんだから動くのはあたりまえ」と思っている諸君!それが当たり前じゃない時代があったんだよ。電話を持ち歩けるのも、テレビにリモコンがついてるのも、自宅で新幹線のチケット予約ができるのも、中島みゆきが動くのも、みんな地上の星たちの歴史があってこそなのだ
だから声を大にして言うぞ。夜会の魅力は「大きく動く中島みゆき」なのだと。
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