50TAはシュルレアリストだ!
キムヨナを語ったら褒めてもらった。中島みゆきを語ったらテレビで語る機会をもらった。じゃぁこのノリで50TA(フィフティーエー)こと狩野英孝を語ったらどうなるのかの実験(笑)。
ちょうどいま、テレビ朝日3時間スペシャルで50TAの幕張メッセ5000人ライブをやってる。前回のスペシャルも面白かったが、今回さらにパワーアップした50TAの楽曲群。編曲の威力をまざまざと見せつけられるビッグビジネスの現場がそこにあった...。
あ、マーティ・フリードマンが出るとこだ!録画しなきゃ。
演奏終了した。いやー、いいっす。ヘビーメタルステーション!
50TAのあり様って、どっかで見たことあるなと思った。なんだろうとしばし考えて、ハタと気づいた。あ、これは21世紀のシュルレアリスムなんだ。そう結論を出した。
●シュルレアリスト-ゾクゾクするようなイバラの道-
シュルレアリスムというのはある種の芸術運動であり同時にアンチ芸術運動でもある。よく「シュールな笑い」などというが、えてして「シュールな笑い」というのは、そんなに面白くないお笑いのことを褒めざるを得ないシチュエーションで使われる。そんなものはシュールでもなんでもない。ただ面白くないお笑いだ。
だが50TAは笑える。笑えるのにシュール、シュルレアリスムの手続きを経て世に出てきているのであった。あの作詞作曲方法は、まさにシュルレアリスムのオートマティスム(自動記述)といわれる手法だ。
自動記述はアンドレ・ブルトンが編み出した手法とされる。ボクもやったことあるし、サルバドール・ダリの自動記述(の日本語訳)も残っている。50TAの場合は、その創作過程がすべてシュルレアリスムの“作品”として世に問われているのであった。自動記述の実践者、最前線にいるのだ。
映像作品として公開されているところは21世紀らしさだ。この作品のために5000人の人が動員され、ひとつの映像作品としてビッグビジネスのなかに提出される。そのシュールさに感動してしまうのだ。
シュルレアリスムの巨人、マルセル・デュシャンが展覧会に便器を展示した時代があった。人々はその意味(もしくは無意味)を受け入れることが出来ず、デュシャンの行為は非難轟々だったという。
もちろんその行動に反応するとんがったヤツらも多かったに違いなく、それは現代においてポップアートやターナー賞が存在可能となった歴史の1ページだったはずだ。そういう歴史を経てシュルレアリスムは大衆に拒否反応を得ることなく受け入れられ始める。もっともそうやって受け入れられることを望んだか否かは別問題だが...。
受け入れられることはつまり予定調和のワナに自らはまることにつながる。シュルレアリスムとは“やったもん勝ち”の創作活動だ。その作品を作ってしまった自分自身すら、その後の活動の足かせとなりえる。これは芸術家にとって茨の道以外の何者でもない。しかしそこを目指さざるを得ないのもまた芸術家の魂なのだ。
50TAの“作品”とは出来上がった楽曲のことでなく、オートマティスムというパフォーマンスを覗き見る行為そのもの、これこそがまさに現代のシュルレアリスム作品といえる。観衆はそこに熱狂しているのだし、テレビ局もそれを作品として放送している。隠しカメラで覗き見る行為、これもデュシャンの遺作を想起させるじゃないか
シュルレアリスティックな創作によって次々と作品を世に問う50TAプロジェクト。まだまだ未熟を絵に描いたような狩野の修行道とも重なっている。いまの狩野はまさにローリングストーン、転がる石のようだ。どこに転がっていくかまだ見えない。だがシュルレアリストの生きずらい予定調和が跋扈する現代において、存在感を押し込む席はあるような気がする。
...ま、こんなこと考えながら、鉄が好きーっ!とヘビーメタルステーションを叫んでみたりするのであった。
おっと、リアル・クローズが始まった。以上!
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コメント
いやあ、50TA伝説第2章笑いました。
特にマーティが神アレンジしたヘビーメタルステーションが最高でした。
歌詞といいメロディといい、あの才能は芸人にはもったいないですね。
本人がよくカン違いするのも分かります
投稿: せる | 2009/11/08 13:00
なんだかんだいって、この10月改編期の特番には狩野英孝でまくってましたよね。
> 歌詞といいメロディといい、あの才能は芸人にはもったいないですね。
まぁ、でも、芸人でしょう(
)
勘違いと素直さを兼ね備えてる男子!
最初から勘違いしてるから、逆に天狗になりようがないってのがプラスに働いたりして...。
投稿: ポップンポール | 2009/11/08 17:45