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2009.10.03

ボクの降りてきた生き方

「降りてゆく生き方」ばなしが続きますが...。そういえばオリンピックの東京招致は落選したそうですね。リオに決まったと聞いて良かったなと思いました。南米大陸初ってのは、かつての東京オリンピックが開催された頃の熱さを彷彿とさせます。熱烈に歓迎されることでしょう。シカゴも東京も衰退してゆくかつての大国の都市。オリンピックだけに、参加することに意義があったと思えばいいじゃん(笑)。

近代五輪の父、クーベルタン男爵の「参加することに意義がある」って、降りてゆく生き方に通じるかも。言葉の真意を探してみるとこんなのが見つかりました。読売オンラインから
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人生において重要なことは、成功することでなく、努力することである。根本的なことは征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。
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過程の重要性と、個々人の姿勢が第一義にあるということでしょうか。もちろん競技である以上、そこにはルールがあり、そのルール内で競って順位をつけます。順位はつけるというよりも「ついてしまう」といったほうが“降りていく書き方”かもしれません。

どんな小集団でも、そこで何か能動的にはじめると、必ずなんらかの差がついてしまいます。しかしその「差」って何だろうと考えるところから、降りていく感覚がはじまるように思えます。ボク自身、子どものころからそういう意識で生きてきました。ただそれを「降りていく生き方」という言葉で語っていなかっただけで。

なにかこの考え方に触れた記事がなかったかなとブログ内を検索してみたら、ひとつ見つけました。2004年に書いた「YONG-SAMAから日本を想ふ」の真ん中あたり。こんなこと書いてます。
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学校の勉強は他の人が覚えてるんだから僕には必要ない。少なくとも聞けば知ってる人が日本中にいるだろう。でも相対的にボクしか覚えてないことも価値があるんじゃない?ボクにしか聞けないんだから。そんなことばかり考えている変な子どもだったのだ。
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この考え方はいまもそう変わらないで生活してます。「人と同じはイヤ」ってボクだけじゃなく思春期には誰もが言いますけれど、やってることは「人と同じ」だったりするのもまた日本人なんだよね(^_^;)。それは学校教育の“成果”なんだけど、たかだか数百人のグループで同じ問題を解いて(しかも解答が用意されてる問題を解いて)、順位をつける。このくだらなさに幼いボクは気付いてしまったのでした。だったらオレしか思いつかない発想のほうが楽しいやってさ。常にナンバー1だからね(笑)。

●教育とは学問世界のプレゼンテーション

さまざまな教科やその関係者(教育者・行政・業者・学会など)はその教科の勢力拡大のために魅力のある学問世界を提供しアピールし続けなきゃダメなんだよね。そうやって好奇心いっぱいの子どもたちのモチベーションを高めて裾野を広げれば、その分野での新たな発見や発明の可能性が高まり発展につながるわけだから。そこはグローバルな世界なわけです。公共性の高い場といってもいいかもしれない。

しかし学ぶ立場としてのボクらは、なにもそんな教科教育関係者間のグローバル競争に付き合う必要なんてまったくないわけ。サービス精神旺盛な学問世界がそこにあれば乗っかるし、そうでなきゃ別の世界がいくらでも広がってる。

学校教育を離れることで他の人がまだ見ていない学問領域に入っていける魅力ってあるのよ。そりゃそんな世界にも先人はたくさんいる。でも圧倒的にこっちのほうが面白かったりするわけよ。「学校で教えてくれないこと」って誘惑がさ(笑)。そこを極めていく道がもっとあっていいと思ってきたわけ。

学校教育からは降りちゃったけど、学校社会や受験社会というひとつのルールによる競争に縛られないで別のルールで生きる道があると思ってた。でもそれを認めてくれる環境がまだなかったのがボクの青年期の時代だったんだよね。まぁドロップアウトしていく勇気もなかったし、器用貧乏な性格が仇となって(笑)、学校生活をそつなくこなしてしまったわけですが...。

教科教育する側も、よいプレゼンをすればその学問への人材流入が促される。ダメなら廃れる。行政の力で子どもを集めてプレゼンできるオイシイ環境を手に入れていながら、まったくその場を使いこなせていないのがいまの学校教育なのさ。モンスターペアレンツを生み出したのも教育だって自覚が足りないんじゃない?

●降りて来い!学校教育(笑)

でも学校の意義を認めないわけじゃない。それについては「子どもの好奇心 大人の好奇心」の最後のほうで書いてる。それを「降りてゆく生き方」風に言い換えるなら、学校教育も降りてきて欲しいってことだよね。公共の「場」としての学校と、個人の「知」をサポートしてくれる学校となら歓迎。

いまは朝から鉄の門で閉ざされて、個人の知とは無関係に組まれたカリキュラムによるベルトコンベア型授業が一方的に押し付けられてるだけじゃん。これって学問世界にとってもマイナスだよ。同じ方法論によって同じ知的体験しかしてない人々による閉じた競争社会。

勝ち残っていく人間はそれなりの才能はあるんだろうけど、本人の能力とはまったく別次元で構造的に視野の狭さを養成されちゃってる。企業社会には使い勝手がいい人材ですわ。つぶしのきかない特殊技能ほど会社にとってありがたい労働力はないからね(笑)。そこでしか生きられない優秀な飼い犬ですわ。

飼い主の顔を見ようと頭を上げても飼い主が誰だかわからないグローバル資本主義だから、自分のアイデンティティすら危うくなってくる。勝ち残り勝ち上がったその先にいったい何があるのだろう?失った時間だけがあるような気がする。カネで買えない時間だけが。

これが自由主義社会の教育の現場なんだから貧困のきわみだよ。“持てる者”が“持たざる者”にとって代わられるのが怖いから、こんな教育を作り上げたんだとすら思ってるよ。物言わぬ労働者が一番ありがたいからね。

あべやアソーが首相になったのは“持てる者”の勝利宣言だったかも。まぁ宣言が拙速すぎてて“持たざる者”はクビの皮1枚で助かったけど...。持てるか持たざるかがグローバルマネー限定の話しにすりかえられてるところで、すでに教育的“成果”に犯されてる自分を発見したりもするわけですけれど。

地域再生には学校教育を変える必要がある。まず中央集権やめちゃおう。地域に降りていってオリジナルの教科書作って、地元のおっさんやおばちゃんに話を聞こう。実際に手伝いしてそこから学んだこと感じたことを話し合おう。まずローカルがあってグローバルがあるってことを生き方のコアにしていこう。

これすべて学校教育が忘れてきたことなんだ。免罪符的にはやってるけども。文部科学省は解体して地方行政に降りていこう。教育を国家が統制する時代はもうやめよう。なーんてことが出来るのは、中央集権国家なんだけどー。でも北朝鮮みたいにオーナー企業的国家じゃないサラリーマン社長的ニッポンだから、変えられると思ってるんだよ。

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Tracked on 2009.10.03 at 18:49

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