映画「降りてゆく生き方」を観に行こう
都内では本日開催なので、情報としては結構ぎりぎりですが、観に行く前に紹介しておきたい映画なのでちょこっと書いてみます。武田鉄矢主演の映画「降りてゆく生き方」が本日四谷ひろばで上映されます(1日2回ですが初回は予約完売)。
この映画は、いまのところDVD化もTV放映もしない予定だとか。ロードショー公開もせず、市民団体とか地域ボランティアの手で上映会を行うという、商業主義的な匂いを極力排しての映画興行チャレンジといえそうです。
なぜそういう方法をとったかといえば、この映画そのものがグローバルに拡張してゆく意思、つまり「足し算の生き方」から意識をチェンジさせ、本当に大切なコアを見つける「引き算の生き方」を提唱する映画だからでしょう。
降りていくイメージ、引き算するイメージを直感的にネガティブイメージと感じてしまう自分がいた。そのこと自体が時代にマッチしていない
いや「時代」なんて一過性の波と、この映画の「降りてゆく生き方」とでは、時間の捉え方も大いに異なるかもしれない。
人類が人間圏を作って以来?
いやもっともっと。
この地球が有機的なシステムとして生き始め、そこに生物が誕生した頃から、人類がグローバルマネーというある種の“神”に支配された現在まで。
この地球の誕生からその一部としての人類・生物の消滅間近という大きな過程の突端に位置しているいま、そんな認識のなかに「降りていく生き方」によって見つかるものがあるのではないか、そういうことかもしれない。
あれもこれもとくっつけて核がみえなくなっていく。まさにファンドビジネスはそんな世界だった。リスクを寄せ集めて別の基準で別のリスクに刻んでバラまく。ばら撒かれたリスクはまた別のリスクと混ぜて切り刻まれてばら巻かれる。
いったい本当のリスクがどこにあるのか誰にもわからない。わからないから安心する。だがわからないリスクも確かに存在し、拡大して破綻した。数学を駆使して物理的に破綻した。
この繰り返しをいつまで続けるのか。いつまで続けられるのか。
本物の芸術はムダをそぎ落とすことで生まれてきた。これまでもそうだった。引き算することの意味に気付けるかどうか、気付けばその先に別の希望が開けるのではないか。
そんなことを考えながら、今日は映画を楽しみたい。
個人的な思いもある。いろんな荷物を降ろして新しい地平で生きてゆきたいと思うことが多くなった。
ボクは結構時代に敏感肌(笑)。だけど行動するまでは3年寝太郎(爆)。
バブル前後の時代には、はっきりいってスピードがついていかなかった。でもだからこそ、一回りして助かったことも結構ある。スローライフになればようやく、皮膚感覚と行動との流れがマッチしそうだ。
なにを捨てられるか、そろそろ考えをまとめて行動してもいい時期かもしれない。10年寝太郎...。
背中を押してくれる映画かなぁ。スーパーカブみたいに(笑)。
もしかしたら押したりしないで、自然な坂道があって、一歩踏み出せば、慣性のままに降りていける、そんな映画だったらいいな。
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