NHKが桜庭ななみを泣かせた!スピカ第6回
いーけないんだ、いけないんだ。センセーにいうちゃろ!センセー!NHK君が桜庭ななみちゃんを泣かせてますぅ!センセー、ななみちゃんが泣いてますぅ!センセーセンセー!
こんな風になんでも大げさにはやし立てる優等生ぶった女子が一番嫌いだ(笑)。ちなみに“いうちゃろ”は言ってやろうって意味です。たぶん山口弁。
いーけないんだ、いけないんだ。センセーにいうちゃろ!のメロディも弾いてみた(MP3/222KB)。キーはC#mだぜ。カポ4ならAm→Emで弾けるぜ。アコースティックギターで弾くともの悲しい童謡のようだが、女子グループに合唱されるとむかっ腹が立つ(
)。やつらはこう歌ったあとセンセーにチクりにいくのだ。そしてオレたちはデコピン(ひたいを中指ではじく体罰)されるのだ!
...朝から何をやってるんだオレは?
「ふたつのスピカ」第6回で桜庭ななみ号泣!それをドラマスタッフブログでは「それにしても、桜庭ななみさんは涙が似合います(笑)。」などと書いておる!
御意!まったく御意!同意!同感!もっともっと泣かせて欲しい。泣かせろ!泣かせろNHK!涙は心の汗だ(古っ!)。いや、涙は名女優の登竜門だ。
以前、桜庭ななみの口元がデビューした頃の竹内結子に似ていると書いたことがある。これに符号するかのような桜庭ななみの泣きの演技。タケウチの泣きについてはCXドラマ「不機嫌なジーン」(2005年)でこんなこと書いてる。泣かせたい女優No.1だったのだ(オレの妄想ですけど...)。
女優Aが女優Bと似てるなんて話自体は下世話かつハタ迷惑な戯言でしかない。そんなこと重々承知しつつ、しかしタイプ分けはしておきたいのもドラマニアの性(さが)なのであった。
芸能界を眺めるときに、自分自身のなかにいくつかの重層的なカテゴリーがある。ぷよぷよしたシャボン玉のような集合体がいくつもオレのあたまのなかを常に浮遊しているのだ。そしてそれらが重なったり結合したりしながらドラマとは別の非現実な世界を創り出す(オレの妄想のなかで...)。そこには泣きの女優カテゴリもあるわけだ。
芸能界は差別化・差異化こそが重要な世界だ。近年その重要性はどんどん増幅されている。オレの大好きな逸話だが、先日活動休止したウルフルズがデビュー間もない頃、プロデューサの伊藤銀次氏が「(大御所となった)サザンのポジションが空いている」と奇しくも語られたように、かつては芸能界という椅子取りゲームのポジションの数が限られていた。
しかしいまコンテンツ不足の世の中となり、個人の嗜好も多様化している。テレビ・ラジオだけが主な活動の場でなくなった芸能界では、ニッチな差異化こそが化ける可能性を秘めている。卑近な例を挙げればしょこたんの怪奇漫画とか。ただし安易にニッチ業界に手を出すとすぐに浅さが露呈するのも確か。しょこたんレベルの造詣の深さが要求される。いくつもの才能を求められる時代になったわけだ。
だが真っ当な女優という世界はニッチな業界じゃない。メジャーだ。石油メジャーみたいな意味で女優メジャーだ(?)。もちろん女優業界にもニッチは存在する。田舎で農業女優とかハワイでサーフィン女優とかエッセイスト兼業子育て女優とか。しかしそれは王道ではない。女優の王道はやはり演技と作品の積み重ねにある。そこに使えるツールは極論すれば身体的表現力だけだ(本当は裏方さんとのコミュニケーション力のほうが大切だったりするだろうけどそれも表現力のひとつ)。
そんな王道のひとつが「泣き」であることは確かだ。泣くことは誰にでも出来る。だが女優としての「泣き」の存在感は誰にでも出せるものじゃない。笑顔がステキな女優はたくさんいる。そこは差別化には弱い。例えば国仲涼子の笑顔は「ちゅらさん」という作品を通すことで強烈に認知されたわけだ。そのような構造的な仕掛けを通して女優は育つのだと思う。
うーむ、前半と後半とでまったく違った人格になってきているぞオレ...。いーけないんだ、いけないんだ...。ようは桜庭ななみは真っ当な女優ルートを一歩一歩登っている、その過程にあるってことを書き留めておきたかっただけなのさ。
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