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2009.06.20

部屋とポストモダンと私

近代(モダン)の後に出てきた現代思想、だからポスト・モダン。なんだか下火になってきてるといわれながら、なにげにポストモダンって言葉を書店で見かける。そのたびにとりあえず手にとってしまう自分がいたりするわけだ。そして読了してしまったりする。

副題は「ポストモダンとは何だったのか」と過去形だから、もう現代思想はちょっと古い。テレビドラマに例えるならトレンディードラマ、かな。みんな“記号”と差異を求めて先を争うように享楽の世界へ。

当時「現代思想」と大きく出たわりにはブームは一過性だった。バブルな思想だったのか?でもその一過性の真っ只中に青春時代を過ごしてしまったボクには、多かれ少なかれポストモダンな雰囲気(カッコつきで“気分”といってみたりする)は染み付いてる。現代が終わったいまは何なのか?そっちのほうが気になる。歴史の終焉か(笑)。

集中講義!というだけあって非常にコンパクトに時系列で現代思想をまとめてくれてる。でも読み進むなかで、退屈な部分と俄然面白い部分とがハッキリわかれた。たぶんボク自身が大きな物語の小さなお家(ニッチなとこ)が好きなんだな。飛び出せマイハートっつーか。

●“気分としてのポストモダニスト”気分で散歩する

ボクは気分としてのポストモダン派(笑)だから、正直マルクス主義だの新左翼だのには気分が乗らない。なんだかポストモダンとのつながりがお勉強感覚ではわかっていても、身体感覚として「どーでもいい感じぃ」なのだ。ファッションにならない思想はなんかシラける。ポストモダンな頭で読みたくない。

けどもうひとつのフォークソング狂いのバカ息子なボクがいて、ひとつふたつ前の世代による学生運動の時代の空気に惹かれる。あさま山荘の映画を観てるときのボク。そっち方面の頭で読んでた。シラけつつノってたわけだ。

吉本隆明が登場したあたりで、ようやく前説が終わって番組がはじまる感覚。そしてベンヤミンの「遊歩者」というスタンス。ベンヤミンもほとんど読んでない。ベンジャミン伊東は好きだった!でもこの本でいう「ファンタスマゴリー的な陶酔」のあたりでは、ボクのシュルレアリストとして過ごした記憶と結びつく。何でもありなアンチ芸術な芸術、言ったもん勝ちのゲージツ。

関係ないけどボクは遊歩道という文芸(?)サークルに入っていた。ニュージャーナリズム研究会とか広告研究会とかそういう大きなサークルじゃなくてほとんど仲良し3人組な先輩たちが作って新人勧誘なんてめんどくさいことしないサークル。誰も近寄らないからボクともう一人の寺島くんは万年下っ端だったが、好き勝手なこと書いて楽しんでた。東京ドームに取材に行って「室内では帽子を取れ!」と叫んだり、八王子のでっかい学生用マンションの取材に行って広報に「なにか中傷記事を書くつもりなのか!?」とケンカになりそうになったり面白かった。

ベンヤミンからボードリヤールへ。ここでようやく浅田彰とか柄谷行人とかの名前が出てきた。でもまだ予告編。ジラされる。田中康夫ちゃんの「なんとなく、クリスタル」が出てきてちょっとストレス解消。テレビで言えばコマーシャル1の時間だけど(笑)。なんとなーくークリスタールって歌いながら読んでた。

そっから第四講でちょっとトーンダウン。ぶっちゃけ外国の話や(笑)。ラカン、サルトル、レヴィ・ストロース、フーコー、アルチュセール、デリダ、ドゥールーズ、ガタリ。まったくトーンダウンしてる場合やないっちゅーねん。ここがひとつの山場だよ。構造主義そしてポスト構造主義の開花です。トレンディドラマで言えば、新しい恋のときめきがはじまる街角や(>街角ってトレンディドラマちゃうやん)。まだ携帯電話もないんや(笑)。

●いよいよアイドル勢が登場

第五講では外タレに影響された日本の「現代思想」の誕生だ。栗本慎一郎の「パンツをはいたサル」が出てきた。「祝祭論」だ。戦争も受験生による金属バット殺人も祝祭を求める人間の根源的な欲求の発露でありそこには「充実感」すら存在するみたいな。そのような欲望を抑止するパンツ(装置)をあえてはくことで欲望の「蕩尽」をコントロールし、どこかで一気に吐き出すことで社会を維持してるみたいなー。

確かにアジテーションとしての作用があるとは思うけど、当時のボクにはここまで突き放して思想に酔ってるヒマがなかった。本書にも不意に登場する城山三郎の「素直な戦士たち」とか、そっちの書物を読んでた。素直な受検戦士になれなかったボクは、主人公のようにルンペンにあこがれたりもせず、ジャーナリスト目指してた。「パンツをはいたサル」よりも、金属バット殺人事件を追った本多勝一のルポ「子どもたちの復讐」に興味を持つホンカツファンだった。ポストモダンな気分のボクは、リアルな社会との接点を思想に見出そうとしたりせず、それはそれ、これはこれ、とすみわけしていた。思想的多重人格者だったのかも。でもそれこそが道を踏み外したりせずに来れた要因だと思ったりする。

さーいよいよアイドルタレントの時間だ。水戸黄門の印籠ともいえるが。スキゾ・キッズのボクを形成した浅田彰、柄谷行人、山口昌男、蓮實重彦、中沢新一たち。そうそうたるメンバーだけど、ボクからしてみたらYMOつながりの人々だった。ボクにとってのポストモダンはまさにYMOだったわけだ(笑)。思想書としてのオススメは坂本龍一と村上龍がもう一人呼んで鼎談する「イーヴィー・カフェ」だったりする。読まなくてもいい。持ってるだけでいい。そんな時代だった。ボクは読んだけど。

いよいよクライマックス。でもここまで書いて疲れちゃった。腹もへったし!結論いらないでしょ。ポストモダン気分なんだから。でもボク自身、ポストモダンかぶれでも真っ当に大きな物語批判もしつつ暮らしてる。モダンがあってポストモダンがある。なにも実体を指し示してない言葉だ。ただ言ってみただけみたいなポストモダンが好きだ。何でも接続できるし、何でも捨てられる。でもゴミは出さない。エコな旅人。そんな気分でいいじゃない。

ボクは夏目漱石の「私の個人主義」も好きなんだ。モダンもいいじゃない(笑)。なんでも相対化して差異化してるとしっちゃかめっちゃかになる。どこかに線引きしなきゃなんない。でもどこかに線引きすると、それをまた相対化・差異化してあげつらう輩が絶えない。そういうベクトルの小物なスキゾ・キッズを本著は嘆きあしらいつつ挑発する。浅田彰の「逃走論―スキゾ・キッズの冒険」から25年経った。「現代思想」はいまこそ有効な道具であるとし、マルクスをリサイクルすべきだという。ぜひリサイクルしたテクストを読ませて欲しいと思う。自分で書くとは書かれてないわけだが。

個人的にはお笑いブームのいま、マルクスブラザーズを再輸入したような芸風の日本人グループが出てきて欲しいと思う。芸能界にドリフターズのいた席が開いている今がチャンスだ!

そして本書と無関係に唐突なこと言って終わらせるが(マルクス兄弟は関係あるのか!?)、資本主義の方向性はベイシック・インカムの導入というベクトルがいいと思ってる。ベイシック・インカムは誰もが「貨幣」に困らない世界だ。社会主義的でありながら究極の資本主義の形じゃないかと思う。

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