google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg 「怒りの葡萄」から70年: ひとくちメモ

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2009/06/03

「怒りの葡萄」から70年

ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」の初版本が出たのは1939年。いまから70年前だ。その翌年にジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演で映画化された。先日、久しぶりにこの映画を観た。「蟹工船」ブームの昨今だが、「怒りの葡萄」もいまの時代にマッチしていると思う。

久しぶりに観たと書いたが、前にちゃんと見ているかどうかすらうろ覚えだ。確かNHK教育テレビで日曜夜に単発で映画をやっていた時期があり、そこで見たような気がする。その時間枠では「灰とダイヤモンド」とか「自由を我等に」とか、結構良質なモノクロ映画を観た記憶がある。

ストーリーは完全に忘れていた。農民が土地を追われる映画だということは覚えていたが、それも観たから覚えていたのか、単純に知識として入っていたのかも定かでない。しかしさすがにジョン・フォード監督、見ごたえのある作品だった。子どもには理解を超えてる部分もあるので、いま見てよかった。

非常に重層的な映画だ。何十年も暮らした土地を追われる小作農。その土地を奪ったのは大資本。農民一家は追われて新天地カリフォルニアへ向かうがそこでも搾取される。仕事があるだけマシという状況のなか、セーフティーネットのない労働環境で搾取されるのだ。

そこで主人公ヘンリー・フォンダは労働運動のグループと出会い開眼する。だがある事件に巻き込まれ、一家はその農場からも夜逃げのように去る。しかしこの行動が偶然にも政府による保護施設発見へとつながる。そこには人間らしい生活と政府が斡旋してくれる働き口が待っていた。こういう施設は非常に少なく必要とする人々がその存在を知ることも奇跡的だと思える。

幸せなひとときを送る小作農一家。だが主人公のヘンリー・フォンダは夜逃げの原因となった事件で警察に追われる身となっていた。司直の手が迫っていることを知った主人公は、この環境を捨てて新たな労働運動の闘士となる決心をして、ひとり去っていくのだ。

そういうストーリーがあるのだが、その根底に流れているのはキリスト教的倫理観だ。小作農一家とカリフォルニアまでともに旅をする元説教師ケーシーの姿は、まさにイエスのようだった。この映画の重要なキーパーソンだ。

イエスという存在は何か奇跡を起こすわけではなく、ただ人々のそばにいるだけなのだ。そばにただ寄り添いつつ、高い倫理観を行動で表す人だ。ケーシーはまさにそういう役回りで、主人公の身代わりで捕まった後、何の因果か労働運動を主導する立場になって主人公と再会する。この再会とケーシーの死によって、主人公は人間の尊厳を勝ち取る戦いに目覚めていく。

重層性をどこまでうまく説明できたかわからないが、底辺に生きる民、大資本家の横暴、共産主義の波、キリスト教的人道主義や博愛精神、国家による保護政策への賛美とその限界、それらが場面によって形を変えて現れる。

大資本と共産主義との戦いに見えていても、実際にはモラルハザードした資本主義とキリスト教人道主義の戦いだったりする。そうやって置き換えると、共産主義的性格に見えていた行動がキリスト教的人道主義からの行動だったりするわけだ。キリスト教と資本主義の国で観客はこのねじれをどう観ていたのだろうか。

アカデミー作品賞を逃した背景には、共産主義的な労働運動の肯定などがあったのだろうか。この時代はドイツがワルシャワ侵攻をし(1939年)、第二次世界大戦へと向かう70年も前なのだ。アメリカ国内に共産主義への極度の嫌悪感があった時代に、共産主義的行動とキリスト教的行動を重ね合わせたような映画が高い評価を得たことは興味深い。物事はひとつの方向から単純に判断できない。

現代に置き換えてみるに、非正規雇用の不安定さにしろ暴走資本主義の搾取の構造にしろ後手後手の無力な政府にしろ、「怒りの葡萄」の時代(第二次世界大戦勃発の時代)に逆戻りしたかのような21世紀だ。

この映画の主題曲の「赤い河の谷間」は音楽の授業で歌った。音楽のほうはバッチリ覚えていた。

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