銭ゲバ最終回はパラレルワールド
おー、風太郎!最後はオレの言うことちゃん聞いて伊豆屋に定食代払ったな。それに免じて風太郎ちゃんに、この世界のルールを2つばっか教えてあげちゃったりしちゃおうかなぁ。
定食代は毎回払ったほうがいいぜ。世間では「万引きして見つかったら払えばいい」みたいな後出しジャンケンは通用しないんだぜぇ。親しき仲にも礼儀あり。それが小さな幸せへの第一歩ズラ。それともう1つ。現金2,000万円は宅配便で送っちゃいけないんだぜ(笑)。
さて、くだらない話はここまでにして最終回だ。極貧時代の母との思い出が詰まった小屋のなか。自爆死寸前の風太郎が、火のついたダイナマイトの導線と子ども時代に柱に彫った「金持ちになって幸せになってやるズラ」の“幸せ”の文字を交互に見ながら、もうひとつあったであろう人生を思い描いた。
自殺へ向かう風太郎が思い描く自身のパラレルワールドと、子ども時代に彫った“幸せ”の文字と、現実にいま死へ向かって燃える導線と...。その3つが交錯しながらの最終回。なんともいえない余韻を感じさせる最終回だった。
プロデューサー河野さんが、伊豆屋についてスタッフブログ(3/11付)でコメントされていたので引用してみたい。
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伊豆屋はこの世界の象徴として存在してもらいたくて、最後に金に翻弄されてしまっても、そのことを誰も完全に否定はできない。偽善かもしれないが、世界はそうして成り立っている、成り立たざるをえない、のかもしれない。という、なんとも答えのない部分を、伊豆屋の皆さんには一身に背負ってもらいました。
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ほんとにそう思う。伊豆屋のスピンオフ作品を見てみたいくらいに()。伊豆屋にしろ、刑事にしろ、風太郎の銭で助かった人々もいる。それが現実だ。答えなんて出やしない。
●人生のパラレルワールドと堂々巡りの人生と
思えば風太郎(幼少時代:齋藤隆成)が最初に殺した近所の新聞屋のお兄ちゃん。風太郎に対して親切で、殺される前日には母を亡くした風太郎を引き取って育てようとまで考えていた。たまたま拾った財布をネコババするところを見られた風太郎が、思いあまってバットで撲殺したわけだ。
彫られた“幸せ”の文字を見ながら風太郎が思い描くパラレルワールドで、風太郎は財布をこのお兄ちゃんに見せ、通りかかった警官に渡して褒められる。するとその警官は新聞屋のお兄ちゃんの兄だった。現実世界では弟が殺された意味を求めて風太郎を追いまわし、最後には妻の手術費用で風太郎に転んだあの刑事だ。
ほんの小さな出来事に愛は傷ついて...。これ銭ゲバとはまったく関係ないチューリップの「サボテンの花」って歌だけど(
)、人は誰でも小さな選択の積み重ねでまったく異なるパラレルワールドを生きることになる。そこからの連想です...。
もっと遡れば、風太郎の父蒲郡健蔵(椎名桔平)が理不尽な理由でリストラされていなければ、風太郎の現実もまた別のパラレルワールドを生きはじめることができたはずだ。だがそれは風太郎にとっては変えがたい現実であり、同時に誰にも当てはまる現実でもある。
親子や家系、そういった現実のしがらみをチェンジしようという企み。それが風太郎の人生だった。例えば松本清張の名作「砂の器」における和賀英良のように。だが最終的にその企みは成功だったのか失敗だったのか。
いや、そんな問いそのものに意味がないのかもしれない。どんな人生もただ生きることしか出来ない。ただ生きることしか出来ないのならば、精一杯生きよう。あるいは平凡でも日々平穏に生きよう。そのためには最低限の銭がいる...。この堂々巡りは解決できない。それが資本主義という未熟な社会の大原則だ。
堂々巡りの日常から、少しずつでも不安や怒りを除去する仕事が政治であり、市民の社会参加意識でもある。行き過ぎた現実をゆり戻し別の未来を創造する役割がある。現実に乗っかってイケイケドンドンの小泉・竹中政治の罪はここにあった。風太郎が最後に残した言葉のように、銭ゲバはまた生まれてくる。世界中が銭ゲバに多い尽くされた21世紀ともいえる。
銭一辺倒での評価が人間社会を壊してゆく。銭ゲバはそういう現実社会を描いた寓話だ。原作は1970年代に描かれた。40年も前の寓話なのに、現実の世界はさらに銭ゲバの世界観のほうへ近づいている。そして世界は部分的に崩壊した。崩壊は始まったばかりだ。
40年後にまた「銭ゲバ」をリメイクして欲しい。そのとき世界がさらに原作に近づいているかどうかに興味がある。それはそうと、DVD-BOXも5月発売。こんなに息苦しいドラマなのに何度も見たくなる。なにか舞台を見ているような引き込まれ感があった。また、パラレルワールドではあったが“彼女たちの時代コンビ”の椎名桔平&奥貫薫による夫婦が仲良くやってる姿を最終回で見れたのは、なんだか良かった(笑)。
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