google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg 久々の美術談義で盛り上がった日: ひとくちメモ

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2009/03/07

久々の美術談義で盛り上がった日

先週、今年になってはじめてデザイナーH嬢から電話があったので、「あけましておめでとう」と挨拶し(笑)、新年会(?)をすることに。ディープな話になることも多いH嬢との飲みだが、今回は思いがけず美術について語る会になった。

美術談義といってもH嬢は自身が画家でもあり、純粋に描き手の視点で話せるのが貴重な存在。昨年の個展以来だったので、その後作品は展示してないのか聞いた。すると水彩で国内の某賞を取ったらしい。なんで連絡してこないのか!?

「30分で描いたもので納得してないから」とのこと。まぁそういいなさんな。えてして力作よりも何か力を抜いた作品のほうが他人に訴えかける場合もあるのではないだろうか。ご本人は次のステップへ向けて既に描き始めているようなので、とりあえず大きな賞を取ったらまず連絡してくるように伝えた。作品を真っ先に購入してやると(>やらしいな自分!)。

ひとつ注文を出すとしたら、ターナー賞のような方向性は目指さないでほしい。ぶった切りした牛のホルマリン漬けとか買いたくない()。もっと真っ当な美術の道を希望。シュルレアリストポップンポールらしからぬ注文ですがっ!

●コスタビ、好きです。

Now_and_thenなぜかそういう話からコスタビの話へ。マーク・コスタビ。1980-90年代に人気のあったポップアートで私も原画を2枚持ってる。右画像はそのうちのひとつで「NOW AND THEN」という1999年のコスタビファクトリー作品。

今でも好きだ。コスタビは自身のファクトリーで製品のように作品を製造していく。私などはそのシステムもすべて踏まえてコスタビワールドだと思っているのだが、世間では自分で描かずにサインだけしてるコスタビに賛否両論だ。

しかし純粋な「画」として気に入ったなら、それがコスタビであろうがなかろうが、その「画」の質感だったり構図だったり色彩だったり雰囲気だったりテーマだったり、画そのものが放つ属性に感受性がリンクすればそれで自己完結するものだろう。「有名な絵描きが描いた」というのも属性のひとつに過ぎず、そこだけに価値を置くのは「画」そのものを否定しているに等しい。

そういう意味では、誤解を恐れずに言えば、贋作だって構わないのだ。名前を買ってるんじゃないんだから。ま、コスタビに関してはモノトーンのコスタビ作品が好きなのと、KOSTABI 1999というサインが入っているものが欲しかったというスノッブな理由から購入したのだが...。ついでに言えば、彼のピアノ演奏CDも持ってる。CDはジャケットに本人のサイン入り。目の前でサインを書いてくれたので、ある意味ホンモノ(笑)。めちゃめちゃ作家性を気にしてるやん!

ただ贋作は多くの場合、その動機の“さもしさ”が絵に表れるように思う。そういう作品はどこか欠けているように思う。そうは思うが、たとえばオーソン・ウェルズの映画「フェイク」の贋作師とか、映画「スティング」の騙しのテクニックとか、そういう騙しの技法すら気に入れば作品として認めたいわけだ。そんな物語まで含めて作品であろうと思うし、その物語も含めて買っている。

コスタビの場合は自身のコンセプトを具現化するためにファクトリーで創作していることを公表してやってるわけだから、そこを捉えてああだこうだいってもしょうがないと思う。ただそれが絵画かといわれると「うーん」と悩む。作品ではあるが絵画ではない。言葉遊びのようだが、絵画にはその作家性が絵筆のタッチそのものだという思いが私にあるから。別のアート作品だと思っていればそれでいい。世の中は多様化してゆくものだ。

さてH嬢はもちろん自分で描く。創作の現場では物語ありきで作品を作っているらしい。それは既存のものではなく、自分自身のなかに物語やファンタジーをまず構築し、その場面を切り取るのではなく、トータルな物語の具現化として作品があるということらしい。H嬢が「やられたぁ」と思った最近の作家は全光榮(チョン・クァンヨン)だとか。なるほど納得!

●物語を想起させる原風景

アンドリュー・ワイエス向井潤吉についても話した。これは完全に私の興味だけなのだが...。風景が好きだ。ワイエスはアメリカの原風景(ある種の幻影)を描き、向井潤吉は日本の原風景を描き続けた。

「原風景」っていったい何だろう。昔の風景というのとは微妙に違う。それはファンタジーとしての風景といって差し支えないのだろうか。多くの人を魅了する「原風景」とは実存しないイメージの世界。自分自身だけの思い出の風景とは異なる。少なくともそこになんらかの郷愁を感じさせる風景だ。

まったくの虚構で原風景らしき画風を構築できたら?H嬢の作品のいくつかにはそういう雰囲気を感じる。創作される物語がある種のイメージを伴っているから小説家ではなく画家を目指すのだろう。表現の自由とは選択の自由でもある。

どのような表現でも表出させるスキルを何か持っていることは人生を豊かにする。私自身は職業画家でも職業小説家でも職業音楽家でもないが、ある種趣味人としてのそういうスキルの獲得と幅の広さを求めて日々生活しているように思う。創作の喜びは生涯の宝だし、鑑賞者としてのスキルにもフィードバックできる。それもまた楽しい。

正直、10代のころに身につけた様々なスキルばかりだ。絵画も楽器演奏も歌も文章技法もバイク免許も鑑賞術も。その後はまったく何も身についていない。ただ10代に身につけた自分のスキルを編集し化粧し人の力を借りながら情報を付加して小出しにしてるだけ。それも日に日にどんどん衰えていく(笑)。中学生諸君、10代は重要だぞ。一生を左右するぞ。学校で与えられた勉強なんてしてる場合じゃないぞ。これは本当に心底そう思う。

ワイエスは今年の1月に他界している。91歳だ。絵のうまかった私の祖母も今年の2月に91歳で他界した。太宰と清張ではないが、まさかワイエスと祖母とが同い年だったとは知らなかったなぁ。ますます好きになりそうだ。

向井潤吉のでっかい画集上下巻は油彩をはじめた妹の次女に贈ろうと思っている。習作がどれも日本の原風景だったから。師匠の持っている画集の影響なのかも知れないが。今年中1になるが、その年で向井潤吉の作品に出会うのは私には出来なかった経験であるし、記憶の片隅にでも残ればいい。

ワイエスと向井潤吉とが身近な存在とつながった。しかも亡くなった祖母と未来のある中学生と、それぞれに関わり、ちょっとヘミングウェイっぽい生と死の物語(イメージ)を産む。離れていた絵画を再開してみようかなという気分にもなってる。最近は画材も進化しててハードルも下がっているが、あきらかなデッサン力の衰えに愕然としている自分もいるのであった()。

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