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2009.03.08

ドラマ「銭ゲバ」で考える人間の尊厳

やい風太郎!伊豆屋で最後に食った定食代払わず帰ろうとしたやろ(笑)。それはそうと、第8話はいわゆる最終回のひとつ前。どんな名作連ドラもこの回の出来が大名作になるかどうかの分岐点だ。その回で清貧な定食屋「伊豆屋」をついに崩壊させた岡田脚本。「銭ゲバ」への並々ならぬ執念を感じた。

「伊豆屋」は岡田さんの脚本によく見られる一種のオアシス的空間であった。ホッと一息つける場所。それは風太郎(松山ケンイチ)にとってもそうだし、視聴者にとってもそういう場所だった。だが、その伊豆屋ファミリーさえも長男の借金2,000万円返済のために人格が替わる。銭ゲバとして生きてきた風太郎が自分の死を選択できるのに対して、清貧の行き着く先に崩壊する伊豆屋ファミリーは死をも売らねばならない。どこかで何かが逆転している。

「銭ゲバ」は殺人を重ねて富を得てゆく風太郎との対比として、善人が善人でなくなる過程をいくつも見せる。風太郎を執拗に追った刑事(宮川大輔)は妻の手術費用を風太郎に出してもらうため風太郎に屈した。子ども時代の風太郎を拾った浮浪者の爺さんは殺人者風太郎の情報を数千円でサツに売ろうとした。伊豆屋の姪っ子(石橋杏奈)は風太郎に身体を2,000万円で売ろうとした。そして伊豆屋のオヤジ(光石研)と妻(りょう)は風太郎に包丁を向けた。風太郎の対応はそれぞれ異なるが、そんな人間の醜さを糧に銭ゲバ風太郎が肥大化してゆく。

ふっと大岡昇平の「野火」を連想する。「野火」では戦時下で飢餓兵士が人肉を食うか否かという極限の選択を迫られる。これこそまさに生き地獄だ。そのような連想を抱いたなかで、銭ゲバの父蒲郡健蔵(椎名桔平)が風太郎に貰った10億円の札束から1枚の1万円札を抜き取って舐めるシーンを見た。「まーずっ」といって吐き捨てる。そして風太郎に返しに来て紙切れと心中する気はないと告げる。そう、たかだか紙切れなんだ。

紙幣は紙切れだというこのフレーズ。スタジオジブリのプロデューサ鈴木敏夫さんの著書に出てきた徳間康快社長の言葉にもあった。「紙幣なんて紙切れ」という悟りは、資本主義という宗教への信仰を疑う、あるいは嗤う瞬間に訪れる。だが21世紀前半の暴走資本主義崩壊の渦中では、貨幣の信用失墜が現実に起ころうとしている。信用が失墜した世の中では、紙幣はほんとうに紙切れとなる。

そんな紙切れと心中する気がなくなった蒲郡健蔵の正常さ。「野火」の生き地獄と比べれば、どうにも平和な資本主義社会。人間が狂うハードルはかなり下がっているようだ。簡単に醜悪になれる。徹底的に醜悪な風太郎よりも、金持ち風太郎を前にして狂い始める一般人への大いなる恐怖。

安倍や麻生に代表される閨閥政治が牛耳るこの日本の本当の怖さは、ひとりの蒲郡風太郎を生み出す怖さではなく、大勢の貧困層が醜悪な支配層を前にして、セーフティーネットのないままに狂気へ陥る必然性にあるのではないか。

例えばもしベーシックインカムといった思想を受け入れることで、この国の人々の尊厳が取り戻せるならば、バラ撒き政治などよりよっぽど意味がある。蒲郡風太郎には思いつかないこのカネの使い方を、閨閥の皆さんに思いついてもらえると期待できるほどの平和ボケじゃ生きられない現代ニッポンだ。「銭ゲバ」を見ながら、そんなことを考えた。

余談だが、「野火」を書いた大岡昇平も今年生誕100周年。太宰や清張と同年である。もし読んでいない方がいたならこの機会に強く推奨しておきたい。日本文学の最高峰と言っていい。

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