そこで一句
テポドンを
やめさせる前に
君やめな!
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg
NHK教育で4月から始まる「趣味悠々」シリーズの木曜日はフォークギター入門だ。講師が石川鷹彦だというのだから豪華じゃないか!再入門するために(?)テキストを買ってきた。
譜面を見る限り、ボクにとっては全部問題なくクリアできてるレベルだった。ただ石川鷹彦さんが初心者に教えるというそのシチュエーションからは学ぶことが多いと思う。そういう目線で見たいと思っている。
ギターには(あらゆる楽器にはともいえるが)譜面で表しきれない情感やニュアンスがある。とくにカタにはまるのが嫌いなボクのような弾き手はとかく基本がおろそかになりがち
そういうニュアンスを鍛えるにはいい演奏を聴いて身体で覚えるしかない。どんなに聴いても自分の手グセや身体能力によって良くも悪くもオリジナリティは生まれるものだ。
石川鷹彦さんはフォークミュージック界におけるギターの教祖みたいな人だ。かぐや姫や吉田拓郎の名曲になくてはならない存在だった。伊勢正三とのギターアンサンブルに身体が震えた。ボクより一回り上の世代くらいだと知らない人はいないのではないか。
このテキストにはDVDも付いてるし、名曲回顧録というコラムも面白い。最初の曲は拓郎の「旅の宿」だ!ボクがフォーク居酒屋昭和デビューで弾き語った曲だ(笑)。「旅の宿」はアルペジオで弾くのがいいのだけど、オリジナルはほとんど即効演奏でレコーディングされたそうだ。
簡単なコード進行(オリジナルキーはカポ2で)でタン・タン・タン・タララン・タンタンタンというリズムのタラランがミソの「旅の宿」。ここはハンマリングオンとプリングオフが印象的なのだが、この二つの練習は結構先に進んでの課題曲「赤ちょうちん」でやるようだ。出来るようになったら「旅の宿」のオリジナルを聴いて「旅の宿」レベルアップバージョンを応用練習するというのもアリだと思う。
そして決めては曲の最後のキメ。低音源を早弾きチックに単音で弾いて、最後はマイナー6で締める。ジャジーな雰囲気でキレイに決まるとかっこいい(笑)。歌の伴奏は弾きたいように(というか弾けるように)弾いてしまうオレでも、キメはキメとして尊重する。もちろん弾ける範囲で(^_^;)。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ハリウッドの技術で修復されたデジタルリマスター版「羅生門」のブルーレイを観た。このデジタルリマスター化について、アマゾンでのコメント欄も基本的に好意的な意見が多く、また修復前との比較映像見本も掲載されていたので購入してみたわけだ。
確かにすばらしい出来栄え。モノクロ映画なのだが三船敏郎のちょっとブラウンがかった(ように見える)瞳の輝きとか、いかにも山猿のような山賊の表情が見事だ。デジタルリマスターによってクリアかつ安定した画像になったことで、三船の全身からほとばしる躍動感や細かい表情が見事によみがえった。
世界の三船には有名なエピソードがある。最初は役者志望でもなく、手違いで東宝ニューフェイスの面接を受けさせられた。そのとき面接官に対して「面白くもないのに笑えませんよ」などと答えて不合格になりそうだったところを、たまたま黒澤明監督がマッタをかけて合格(補欠?)した。
そんな役者生活のスタートから世界の三船と呼ばれるまでになったのは、もちろん黒澤映画の影響絶大なわけだが、履歴書の写真を観た東宝社員が思わず役者志望と思ってそっちの箱に入れたに違いないのだ(単なるオレの妄想だけど )。それほど野性味あふれた男の顔なのだ。銭ゲバの風太郎とは違い、いい方のパラレルワールドへ進んだのが世界の三船なのだ。人生そのものが映画のような人だなぁ。
共演の京マチ子もデジタルリマスターで蘇った。どアップが多いのだが、流れる汗の粒が美しい。京マチ子の役どころは、異なる証言の再現映像みたいなもの(下世話な例えですんまそん...)。泣いたり笑ったり怒ったり、とにかくふり幅の大きい演技が求められる。それを完璧に演じてみせる京マチ子。大女優の貫禄充分だ。
●映画のリマスター化反対というトラウマ
そもそもすばらしい映画なので、リマスター化が正しい方向で行われて良かった。オレ自身は映像に手を入れることに結構懐疑的だった。それにはカサブランカのトラウマがある。
学生時代に芸術学の授業で「自分と芸術との関わりについて述べよ」というレポート課題が出た。そこでほとんどエッセイの感覚で「私のカサブランカ現象」という文章を書いた。レポート然としてないところが他の学生と違ったからか96点貰った(笑)。
そこではカサブランカに着色する試みを批判した。「モノクロ映画に色をつけるとはなんて無粋な...」という主張だ。そういう方向でのリマスター(とはいえないな。改変・改ざんか?)には百害あって一利なし。それは今でもそう思っている。
しかし「羅生門」の復元は、ノイズ除去であるとか画質や画像の安定化によって、「公開時と同様の美しい『羅生門』が今、鮮やかに甦る!」という方向性だった。このキャッチコピーに引っ張られている自分自身を若干感じつつも、こういう方向性は確かに正しい修復だと思ったわけ。ミケランジェロの壁画修復と同じ方向性みたいな(?)。
もし「羅生門」がカラーで復元!みたいな話だったら「ケッ!」て思ったことだろう。なにやってんだアホみたいな。しかしカラー化されたカサブランカが今日何の評価も得ていない現実が、映画のデジタルリマスター化を正しい方向に導いたとすれば、「私のカサブランカ現象」にも実験的価値を認めていいかなくらいには思っている。大人になったもん!
とはいえ油断禁物。21世紀の技術を用いたら、稚拙でないカラーライズも可能かもしれない。そういう試みが出てくるかもしれない。そういうことする人にひとつアドバイスするとしたら、誰の記憶にも残っていない作品を使うことだ。モノクロ映画のなかに三船敏郎のブラウンな瞳の色を感じることに意味があるのだ。それが“オレの羅生門”なのだ。
●余談
余談だけど、映画「羅生門」の原作は芥川龍之介の「羅生門」ではなくて「藪の中」だ。原作を読もうと「羅生門」の文庫本を買って来るとワケがわからないと思う。ま、教科書にも載ってる「羅生門」なので、逆に教科書で気に入って映画を観たら、それはそれでまたワケがわからないぞ。ブルーレイ版にはちゃんと原作:芥川龍之介「藪の中」よりと書かれていた。「羅生門」も「藪の中」も青空文庫で読める。ひとくちメモでしたー(笑)。
教科書ついでにもうひとつ余談。高校のときの国語の教科書に“芥川竜之介”と書かれていて激怒した思い出もある。当時のH先生に「名前を変えていいんですか!?」と質問した。その若い教師も「これはひどいなぁ」と共感。すぐに出版社に電話してくれたことだろう。いま“芥川竜之介”なんて書いてる教科書はないはずだ。オレのおかげだぞ(笑)。“芥川竜之介”もカサブランカのカラーライズに似たお寒い改変の見本だ!ま、オレも安倍首相を安部って書いてたけどさー。
もひとつ。オレが母島で感じた「羅生門」なシチュエーションは原作のほうだ(笑)。だが視覚的には映画「羅生門」も入っている。こういうオーバーラップは断じて正しい()。以上!
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
究極の選択という遊びがかつて流行った。自分がうんこを食べるのと自分がうんこになるのとどっちがいい?みたいな(そこまで過激じゃないがっ)。いま日本の最高権力者を決める選挙をやったら、アホ麻生 vs ワル小沢の壮絶な不毛戦となりそうだ。少なくとも国民感情的には究極の選択だろう。
前に書いたが、政党を選ぶなら選択肢は多彩だ。しかし結果的に最高権力者たる総理大臣は定員1名で、そこに一番近い人物は絞られる。それがアホでいのか、ワルでもいいのか、そういう悩みを国民は抱えている春の宵。
日本人はアホに寛容ではある。「バカ」「アホ」と罵っても言葉の裏に愛情があったりする。またおバカタレントを受け入れ、手放しでの大喜びだ。だがそれにも限度があり、空気を読めないホンモノのバカを認めない。これを島国根性といってもいいだろう。麻生はホンモノだったので受け入れがたいわけだ。
いっぽう悪に対する極端な潔癖症も持ち合わせている。それはほとんど建前でもあるわけだが、政治というおおやけの場での悪には徹底的に冷たい。今回の小沢党首の元秘書逮捕問題は、政治問題というより官僚組織によるなりふり構わぬ保身活動だと理解しているが、政治問題として演出しダーティなイメージを植えつけるのに成功した。
ちょいバカは許すがマジバカは許さない。
ちょいワルは許すがマジワルは許さない。
そういう国民性がある。
シャレで済まされるレベルを超えたらアウトなのだ。
だが角度を変えてみると今回の官僚の保身活動も的確な施策を打っていたと思う。アホにはアホなりの方法で酔っ払い会見を演出してアホ度を増幅させ、かつて金権政治の中枢にいた小沢にはワルのイメージを再び呼び覚まさせるという、なんとも緻密な使い分けだった。官僚の底力にはアホもワルもかなわないのだ。是々非々で(なんだそれ)。
てことは最高権力者は官僚なんだから、総理はアホでもワルでもいいわけだ。神輿に担ぎやすい人ならいい。総理とは官僚の利益に沿うという意味で、沿利としたほうがいいのではないだろうか。
しっかしこれが名ばかりでも総理大臣の椅子を争う話だというところに、日本の救いがたい現実がある。それだけが真実かもしれない。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ブログに書かない(書けない)と言っていた山下達郎コンサートin大宮に行ってきた。大宮ソニックは実に10年ぶりだそうだ。今回は昨年末で取り壊される大阪フェスティバルホールのために組まれたツアーだった。しかし全国47本(+追加3本)の会場にはなじみのホールが目立つ。多くの人の汗と記憶が沁みこんだホール中心主義のヤマタツ。ブラボー!
大満足でしたよ。今回から参加のドラマー小笠原拓海君が打つジャングルビートも力強かった。なにがいいって名前がいいよね。小笠原の海を拓くんだよ(笑)。ボクは去年小笠原でジャングルを抜けて海を独り占めしたので、名前もパフォーマンスも超気に入りました!大注目のドラマーです。
小笠原ついでに今回ボクが感じた自分自身のこともついでに書いとこう。耳が良くなった気がする()。どうも聞こえ方がこれまでと違う。なんというのか、伝わる個々の楽器音がパラで耳に届く感じ。それでいて統一感がある。
なんでこれが小笠原ついでの話かといえば、昨年自然音のフィールド録音で小笠原諸島を含めいろんな音をバイノーラル録音していたことが影響しているような気がしたから。これが聴覚の訓練になってて、なんだかボク自身の音像定位把握能力がアップしてるんじゃないだろうか。ライブパフォーマンスを聴いていて、ふとそんな気がしたものですから。もっとも山下達郎コンサートなので音像がいいのは当たり前なのだけど。
山下達郎in大宮の話を読みに来た人、すんまそん。ぜんぜんその話してないっすね...。ま、ほとんどしないんですけど。
はーるがきーたーはーるがきーたーどこにーきたー
やーまにきーたーさーとにきーたーおおみやにーきたー
そんな替え歌がありました。替え歌といえば、ヤマタツが岡林信康の影響を受けているというのも今回初めて知ったなぁ。音楽の方向性が違うように思っていたのだけど、なるほどヤマタツも1970年代デビューなわけで、風に吹かれていたころ友よを合唱していた蒼氓のあの時代( )。その空気を達郎も吸ってたんだなぁと感慨深かった。
あと諸先輩方への敬意も持ってるんだなぁ。三波春夫先生は70歳過ぎてもステージに立ってたとか、小田和正さんはバケモノ(笑)だとか。確かにオダカズはすごい。1970年代デビュー組のなかでは極端にヘタだ。音楽じゃなくしゃべりが(笑)。しかし昨今のオダカズの上から目線なしゃべりはひとつの芸となっている。さらに精力的なパフォーマンスへのこだわり。ヤマタツも声と体力の続く限りパフォーマンスを見せて欲しい!そして長いMCも超オッケーさ。もっとしゃべって!みたいな。
舞台セットも作りこんであったなぁ。コンサートツアーのセットでこれだけ世界観を作り込む大御所はユーミンと双璧(?)。これ見よがしの大装置ではないが、「山下達郎の音楽が置かれる場所」のイメージを完全に具現化した舞台だと思う。マイクなしで叫ぶ立ち位置も必要だし。
大御所となれば、観客はバンドとナマ歌があればそれだけでもう満足という気分にもなる。だってプラチナチケットが入手できた時点ですでに満足度が高いはずだから。高座で寝ている古今亭志ん生の粋(域)に通じる(笑)。
しかし会場に入ってきて、まだ明かりの入っていない舞台装置を見ただけでうれしくなる。物語の始まりを期待する。開始以前のその時点で、すでに期待以上のパフォーマンスが始まっているのだった。
それと言わずもがなだが、印象的なカッティングギターと圧倒的な声、そしてジャングルビート。終わった後の酒がうまかったですっ。以上!
| 固定リンク | 0
| コメント (1)
| トラックバック (0)
自分に言い聞かせているわけだが。見逃すな!来週木曜(3月26日)のシネフィル・イマジカで「アッバス・キアロスタミ監督特集1」が放映される。いま日本でキアロスタミ監督作品DVDを買おうと思ってもなかなか大変だ。
アマゾンでもコレクターズアイテムな値段がついている。今回特集で放映される全作品をDVDで集めると10万円はかかる。特集1ってことは来月特集2もあるわけだ。さすがシネフィル・イマジカだ!
キアロスタミ作品がこんなに流通しないのは、イラン映画だからだろうか。1997年にはカンヌでパルムドールを獲得した監督だぞ。さらにヴェネチア映画祭では北野武監督に続き、2008年第二回監督ばんざい賞も受賞しているのだ。
ま、たけし映画もあまり売れないわけだが...。それにしても初期作品DVDが1本5万円とか、ちょっとおかしい。この何でも手に入りそうな日本で。
イランは人類の文明発祥の地(メソポタミヤ文明)のひとつであり、文化と伝統のある超大国だ。親日的でもあった。日本プロ野球で大活躍中のダルビッシュだって半分イラン人だ。普通にイランに旅行にいければどんなにいいだろうと思う(行けなくはないけどね)。いい温泉があるらしいぞ
そんな親日的だったイランを邪険にして、歴史上ポッと出のアメリカなんぞに現(うつつ)を抜かす現代ニッポン。アメリカなんてたちの悪い愛人みたいなものだ。どん底にいた日本男児を綺麗な衣装(民主主義とか)で気を引いて働かせ、今ではふたことめにはカネカネカネ。カネばっかりせびるどうしようもないアバズレ愛人国家だ。日本がイランから目を背けるよう仕向けるのに必死なのだ。目を覚ませニッポン!
そんな思いもしばし忘れて、キアロスタミ監督作品を楽しもう。キアロスタミ監督のキャリアからして、初期の作品には子どもの出てくる映画が多い。「トラベラー」(1974年)などは、いわばイランのあばれはっちゃく映画だ(違うか...)。「ホームワーク」(1989年)はドキュメンタリーでイランの教育問題を扱う。そして国際的な評価を決定的にした「友だちのうちはどこ?」(1987年)。子どもながらの優しさとか悩みとか焦りとか、子どもの純粋な行動は万国共通なのだ。
現代社会はキアロスタミ監督作品で描かれるこういう子どもたちの頭上にも大人の理屈で爆弾が落とされる。そして反目しあい、イランと聞いただけで嫌悪する日本人を作り出してしまう。哀れなことだ。
●シネフィル・イマジカも絶賛しとく
さて、シネフィル・イマジカについても絶賛しておきたい。非アメリカ映画を多く見せてくれるチャンネルだ。アメリカ映画もあるけどさ。この前マット・ディロンほかヤングアダルト(懐かしい響き!)総動員映画「アウトサイダー」(1983年)をやってた。
いやー、いいなぁ。アメリカの悪童映画も。純粋だなぁ。あの当時アウトサイダーのポスターを模写してましたよボクは。ラルフ・マッチオもトーマス・ハウエルもいい。トム・クルーズがちょい役で出ててビックリした(笑)。最近CMでもおなじみのスティービー・ワンダー「ステイ・ゴールド」もいい味出してる名曲だったなぁ。
アウトサイダーのストーリーって今ではほとんど連続ドラマで出来るんだけど、その素朴なストレートさが逆にいいね。最近のデートムービーってのはギミックに懲りすぎ。まぁ劇場映画として大資本が動いているわけだから仕方ない面もあるけれど。
非アメリカ映画には、かつてアメリカ映画も持っていたテーマの掘り下げと直球勝負な人間ドラマが残ってる。そういう映画を観たいやね。テレビサイズよりちょっと映画的なホームシアターでさ。シネフィル・イマジカはそういうニーズにマッチしまくり!毎日が単館上映って感じよ。毎月送ってもらってる番組表も楽しみでさ。
2月に特集されてたポーランドの巨匠、クシシュトフ・キェシロフスキ監督のドラマ「デカローグ」も全部録画させていただきましたよ。第一話のあの子ども!かわいくて哀しいよぉ...。正直、こういう作品がテレビで観られるなんて思ってなかった。やっぱ日本っていい国だなぁ。アメリカのおかげかなぁ。アメリカがチェンジするといいんだけどなぁ。みーんなお友だち。みたいな。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (2)
全裸で小便した。
パンツをズリ上げないだけでなんだこの違和感は
習慣は恐ろしい...。
パンツをズリ上げる動作を身体が欲している。
小便の爽快感を打ち壊すに充分な体験だった
でもなんだか視野がちょっと広がったような気もした(笑)
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
いよいよ明日は山下達郎コンサートin大宮ソニックシティだ!前回行ったヤマタツライブは2002年だった。7年前だ。2002年という年は、ボクにとっては音楽三昧の年だった。ま、厳密にはマシュー南三昧なのだが...。
ホームページで2002年の過去ログ18~22から拾ってみると(日記つけとくもんやね)、MAMALAID RAG、ヤマタツ(山下達郎)、マシュー南(藤井隆)、あやや(松浦亜弥)、bice、aiko等のライブに出かけていた。他にもクラシックでは宇宿允人を聴きに行き、フォークのROOTS MUSIC音楽祭で五つの赤い風船、遠藤賢司、高田渡、中川五郎、早川義夫(50音順)と、飛び入りの三浦和人さん(雅夢)やパンタさん(頭脳警察)の音楽を吸収していた。
そこから7年。運命論者ではないが珍しく信じている説がある。世界が7年で一回りするという説だ。昔読んだ柄谷行人氏の著書にちょこっと書いてあった。東洋思想にはそんな説があるとか。確かに腑に落ちる。7年くらいの年月がバイオリズムの長期波長と合うのかも。
たまたま前回行ったヤマタツライブがいつだったかと確認していて気付いた。2002+7=2009だ。今年はあえて考えたわけでもないのだが、2002年からの7年という区切りが気持ちいい。
5月には平原綾香のライブにも行けることになった。山下達郎と平原綾香。ヴォーカリストとしての実力からして、ほとんどボクの頭の中では2人だけの紅白歌合戦だ( )。
2002年はマシュー南vsあややのパフォーマンス合戦に熱を上げていたオレ...。メロン記念日によるボ・ディドリービート(ジャングルビート)の傑作「さぁ!恋人になろう」というすばらしい発見もあった。
今年は本格派ボーカリスト対決だ もしヤマタツライブでジャングルビートが出てきたら、これも2002年と符号する。いやー楽しみだなぁ。そういう楽しみ方もあっていいじゃない。
山下達郎ライブについては、たぶん書かないと思う。書けないと思う。興奮しすぎて...。前回もそうだったから。その理由も前回の日記に書いていた。でも書いたらごめんね(笑)。前回はヤマタツを書けないかわりにマシューとレミのタレでも作れるニラタレについて書いてた(笑)。2002年は完全にマシュー・G・南にツクダーン!な年だったんだなぁ(笑)。あんなにのめり込める対象がまた現れるかなぁ。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
あらびき団ですさんだ心を癒そうと、ゴッドタンを連続視聴したら、さらにすさんだ光景が(笑)。吉本芸人以外が寄り集まって、自分たちもあんな団体芸を持ちたい!とあれこれ試していた。これが完成すればテレ朝の超人気番組「アメトーーク」にも、この“ワザ”を持ち込もうと虎視眈々だ。
個人的に好きだったのは、オードリー春日発案で松丸タンもお気に入りのオペラリアクション。これさえあれば、どんなにすべっても大丈夫という、芸人にとっては命取りともなりかねない、最終兵器だ。
これを試すために、春日が他の番組ですべったトークを(劇団ひとりのリクエストもあって)同じトーンでしゃべってもらうことに...。ネタはもちろんダダすべり!だが一瞬の沈黙のあと、春日の相方若林がゆっくり手を叩き始めた。
そしたら他の非吉本芸人も徐々に拍手をしはじめ、最終的にはスタンディングオベーション。これですべったはずの春日もなんだかいい話をしたようなテイになり、自信を取り戻した。というよりさらにいい気分に(笑)。麻薬みたいな団体芸だぞ。
劇団ひとりも試してみようと、「貯金箱を買いました。2000万円で。」みたいな芸人としてあるまじきダダすべりトーク。すかさず、いいタイミングで若林からの拍手がスタンディングオベーションに(笑)。
確かに気分はよさそうだが、すべったかどうかの確認が難しい。ヘタを打つと爆笑トークに水を差しかねない。そこらへんはやはりオードリー若林が日々春日へのツッコミで鍛えた瞬時の判断が重要になるかと。
ま、春日の魔法から覚めてしまえば、基本すべることが前提の団体芸で、自身のハードル下げまくりの方向性はいかがなものかと思うが...。向上心を持て(笑)。
そういう意味ではキング・オブ・コメディ今野による「妖怪」は良かったな。ぶさいく3人がもめはじめるというテイで、そこに今野が絡んできて、妖怪どうしでケンカしてどーするみたいなこといっていさめるだ。最後は「♪妖怪人間!」とユニゾンでお茶を濁す。いや、妖怪人間ベムのパロディで決める。
だがこの妖怪芸は今野のキャラがあってはじめて成立するというコンセンサスがゴッドタン芸人の間で瞬時に取れたという事実が重要、みたいなっ。今野の実力がはからずも露呈してしまった(悪いことじゃないんですけどっ)。
とりあえず、局の枠を超えてアメトーークにゴッドタン芸人として出演できるかどうかだ(いや、そこじゃないんですけど、みたいなっ)。笑いの神様、お願い!
| 固定リンク | 0
| コメント (1)
| トラックバック (0)
卒業式にスーツ+スニーカーで出ていた人の話を某mixiで読みました。コメントしたけど、その話の続きを書いとこう。
実はボクの同期にも入社式にスーツ+スニーカーで来た人いましたよ。
彼の場合はネクタイも2本しか持って無くてボロボロでした。
某社社長ご子息で月30万円のマンションで生活してたのに...。
価値観は多様化してるんですね
そんな彼なので、やっぱ中途退職してしまいました。
同期で送別会をやってあげました。
そのスピーチでいきなりこういいました。
「もうネクタイはいらないから皆で切ってくださいっ」
そういってハサミとネクタイを回覧したんです...。
みんなドン引き(あたりまえだけど)。
仕方がないのでボクが切ってあげました。
正確にはボクだけが切ってあげました。
ボクもネクタイ嫌いなんで(笑)。
でもなぜかネクタイをたくさん持ってる。
そこが彼とボクとのほんのちょっとした違いかも...。
それが奏功したのか、ボクには翌年年賀状が届きました。
コピーされた紙が袋とじのように貼られていました。
見開きの年賀ハガキというアイデアは面白かったな。
開けると小さな文字でギッシリと散文(?)が書かれていたのでした。
その文字数は2,000文字くらいだったかなぁ。
思いの丈を公表する場として、彼は年賀状を使っているのでした。
ブログなんてなかったからなぁ。
でもボクはそのとき思ったのです。
そこに切り取ったネクタイが入ってなくてよかったって...。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (2)
日本人初の宇宙ステーション活動を行う宇宙飛行士の若田さんが、ラジオ体操の曲で目覚めた。この曲は藤山一郎先生が作曲なんだって!知らなかったなぁ。
新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健(すこ)やかな胸を
この香る風に 開けよ
それ 一 二 三
新しい朝のもと 輝く緑
さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
ラジオとともに 健やかな手足
この広い土に伸ばせよ
それ 一 二 三
これに勝手に3番を作ってみた。
宇宙ステーションバージョンだ!
あおぐ大空小さいな 人工的に香る風
輝く緑もあるのかな 土踏みしめられるかな
ラジオの声も 届かないかもな
でも宇宙飛行士になったんだ
それ 一 二 三
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (1)
最近のブログ「ひとくちメモ」は、毎日のアクセス数が倍増中です。
それもこれもペレリマンと銭ゲバのおかげなんですけれど。
ペレリマンはポアンカレ予想という難問を証明した数学者。
それで数学界最高権威フィールズ賞を獲得したのに辞退。
その賞金1億円も貰わず雲隠れ。そんな人です。
ドラマ「銭ゲバ」は、世の中すべて銭ズラぁーという風太郎の物語。
このドラマのインパクトはかなりのもので、見ていた人は引き込まれました。
でも、あまりにも殺伐とした印象の先入観で食わず嫌いも多かったはず。
この銭をめぐる対比に独り悦に入っている昨今のポップンポールです。
無関係と思えるところに、ふいに共通の何かが見つかるのが好き。
あえて見つけようとするその根性こそが「ひとくちメモ」の根幹かも!?
そのふたつがアクセス数でデッドヒートを繰り広げてるのも好き。
あと、長文は回避する人とじっくり読んでくれる人と完全に分かれますな(笑)。
でも、それなりにちゃんと続けていると結構興味持ってもらえてることもあり。
それは他サイトやブログでの紹介記事とかアフィリエイトで確認できたりします。
やっぱ、自分が熱くなるから思わず書いてしまうわけで。
その思いが通じるのが一番うれしかったりします。
今後も雑多な内容をごった煮していく「ひとくちメモ」です。よろしく。
ひとくちネタも封印しているわけじゃありません(笑)。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
日本映画専門チャンネルの市川崑監督特集で“幻の映画”と言われた「その木戸を通って」が放映された。3月中にまだ再放送が数回ある。これは必見の作品だ。
幻の映画といわれるのは、この作品がハイビジョン試験放送用に撮影されたもので、ほとんど人目についたことがない市川崑作品だから。昨年(2008年)日本初公開されたそうだが、作られたのは1992年のことだ。はじめから放映の予定はなかったそうで、NHKのBSで一回放送されたきりだった。
ボクがこの作品の存在を知ったのは、昨年4月に紹介したテレビカメラマン秋場たけお著「昭和テレビ風雲録」でだった。3億円の制作費を使って公開されない作品、それも巨匠市川崑の作品だというのがまずすごい。お蔵入りになったわけではなく、はじめから試験放送用の映像だったのだ。監督のギャラはハイビジョンテレビの現物支給だったそうだ()。秋場カメラマンの著作は、この作品を見る上でかかせないガイドブックとなった。
ハイビジョン黎明期。浅野ゆう子をいかに美しく撮るか。確かに美しかった 市川監督も満足だったようだ。ディフージョン・フィルターのにじみ効果もすばらしく、ハイビジョンを意識した撮影がされている。また何度か挟まれる木々の揺らめきや雨水の美しさもハイビジョンを意識したカットだったのだろう。
作品としても公開されなかったのがもったいない出来栄え。記憶喪失の女ふさ(浅野ゆう子)が平松正四郎(中井貴一)の元に突然現れる。ふさについては全編謎だらけだが、幻想的な映像とその謎とがマッチしていた。かぐや姫のような話だと思った。原作は山本周五郎。
浅野ゆう子は演技も良かった。記憶が戻りかけたときの別人のようなキッとした目。その後の魔法が解けた後のようなふさの表情。ほとんど二役のような感じ。それぞれ違う女優かと思うくらいの変化に驚いた。そして中井貴一!かっこいいねぇ。うまいし。いい役者だと知ってはいたけれど、実にいい。
いやー、観れてよかったなぁ。
| 固定リンク | 0
| コメント (1)
| トラックバック (1)
おー、風太郎!最後はオレの言うことちゃん聞いて伊豆屋に定食代払ったな。それに免じて風太郎ちゃんに、この世界のルールを2つばっか教えてあげちゃったりしちゃおうかなぁ。
定食代は毎回払ったほうがいいぜ。世間では「万引きして見つかったら払えばいい」みたいな後出しジャンケンは通用しないんだぜぇ。親しき仲にも礼儀あり。それが小さな幸せへの第一歩ズラ。それともう1つ。現金2,000万円は宅配便で送っちゃいけないんだぜ(笑)。
さて、くだらない話はここまでにして最終回だ。極貧時代の母との思い出が詰まった小屋のなか。自爆死寸前の風太郎が、火のついたダイナマイトの導線と子ども時代に柱に彫った「金持ちになって幸せになってやるズラ」の“幸せ”の文字を交互に見ながら、もうひとつあったであろう人生を思い描いた。
自殺へ向かう風太郎が思い描く自身のパラレルワールドと、子ども時代に彫った“幸せ”の文字と、現実にいま死へ向かって燃える導線と...。その3つが交錯しながらの最終回。なんともいえない余韻を感じさせる最終回だった。
プロデューサー河野さんが、伊豆屋についてスタッフブログ(3/11付)でコメントされていたので引用してみたい。
-----
伊豆屋はこの世界の象徴として存在してもらいたくて、最後に金に翻弄されてしまっても、そのことを誰も完全に否定はできない。偽善かもしれないが、世界はそうして成り立っている、成り立たざるをえない、のかもしれない。という、なんとも答えのない部分を、伊豆屋の皆さんには一身に背負ってもらいました。
-----
ほんとにそう思う。伊豆屋のスピンオフ作品を見てみたいくらいに()。伊豆屋にしろ、刑事にしろ、風太郎の銭で助かった人々もいる。それが現実だ。答えなんて出やしない。
●人生のパラレルワールドと堂々巡りの人生と
思えば風太郎(幼少時代:齋藤隆成)が最初に殺した近所の新聞屋のお兄ちゃん。風太郎に対して親切で、殺される前日には母を亡くした風太郎を引き取って育てようとまで考えていた。たまたま拾った財布をネコババするところを見られた風太郎が、思いあまってバットで撲殺したわけだ。
彫られた“幸せ”の文字を見ながら風太郎が思い描くパラレルワールドで、風太郎は財布をこのお兄ちゃんに見せ、通りかかった警官に渡して褒められる。するとその警官は新聞屋のお兄ちゃんの兄だった。現実世界では弟が殺された意味を求めて風太郎を追いまわし、最後には妻の手術費用で風太郎に転んだあの刑事だ。
ほんの小さな出来事に愛は傷ついて...。これ銭ゲバとはまったく関係ないチューリップの「サボテンの花」って歌だけど(
)、人は誰でも小さな選択の積み重ねでまったく異なるパラレルワールドを生きることになる。そこからの連想です...。
もっと遡れば、風太郎の父蒲郡健蔵(椎名桔平)が理不尽な理由でリストラされていなければ、風太郎の現実もまた別のパラレルワールドを生きはじめることができたはずだ。だがそれは風太郎にとっては変えがたい現実であり、同時に誰にも当てはまる現実でもある。
親子や家系、そういった現実のしがらみをチェンジしようという企み。それが風太郎の人生だった。例えば松本清張の名作「砂の器」における和賀英良のように。だが最終的にその企みは成功だったのか失敗だったのか。
いや、そんな問いそのものに意味がないのかもしれない。どんな人生もただ生きることしか出来ない。ただ生きることしか出来ないのならば、精一杯生きよう。あるいは平凡でも日々平穏に生きよう。そのためには最低限の銭がいる...。この堂々巡りは解決できない。それが資本主義という未熟な社会の大原則だ。
堂々巡りの日常から、少しずつでも不安や怒りを除去する仕事が政治であり、市民の社会参加意識でもある。行き過ぎた現実をゆり戻し別の未来を創造する役割がある。現実に乗っかってイケイケドンドンの小泉・竹中政治の罪はここにあった。風太郎が最後に残した言葉のように、銭ゲバはまた生まれてくる。世界中が銭ゲバに多い尽くされた21世紀ともいえる。
銭一辺倒での評価が人間社会を壊してゆく。銭ゲバはそういう現実社会を描いた寓話だ。原作は1970年代に描かれた。40年も前の寓話なのに、現実の世界はさらに銭ゲバの世界観のほうへ近づいている。そして世界は部分的に崩壊した。崩壊は始まったばかりだ。
40年後にまた「銭ゲバ」をリメイクして欲しい。そのとき世界がさらに原作に近づいているかどうかに興味がある。それはそうと、DVD-BOXも5月発売。こんなに息苦しいドラマなのに何度も見たくなる。なにか舞台を見ているような引き込まれ感があった。また、パラレルワールドではあったが“彼女たちの時代コンビ”の椎名桔平&奥貫薫による夫婦が仲良くやってる姿を最終回で見れたのは、なんだか良かった(笑)。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (5)
朝からヒマなのでネットサーフィンしていたら、面白いネットコミュニティーがあった。
いわゆる外国語学習サイトなのだが、自分が外国語で文章を書くと、その言葉のネイティブ会員から添削してもらえる。添削したネイティブ会員もなんらかの外国語をここで学んでいる人たちだ。
参加しているメンバーがみんな学習意欲をもっていて、言葉への関心も高そうだ。もともと言語はコミュニケーションツールなんだから、こういう学習形態は自然かもしれない。
昔から外国語を覚えるにはネイティブスピーカーの友人や恋人を作るのが早いといわれる。そうやって最初に得られるのはリスニングとスピーキングだ。一方こちらはネットがあればどこからでもアクセス出来、ライティングから学び始めるというのが独特だと思った。
どちらもコミュニケーションを通じて学ぶという共通点がある。そもそも言葉はコミュニケーションツールなんだから、理にかなっている。
外国語の教師による添削じゃないから、ネイティブといえどもときに間違ったアドバイスをすることもあるだろう。しかしそれもまた学びに必要な要素じゃないかと思う。
添削したり人に教えたりすると、自分自身にも磨きがかかる。新しい発見がある。学びとは教え教えられるコミュニケーションだ。ヴィトゲンシュタインじいさんの受け売りだが(笑)。
ここで外国語を学ぶ気がない人にも、日本語を学んでいる人の日記はオススメ。「日本語のそんなニュアンスの違いなんて考えたこともなかったぜ!」って質問があったりして面白い。
たとえばニュアンスの違いを教えてくださいという質問にこんなのがあった。
1)昼ごはん、食べましたか。
2)昼ごはん、食べたのですか。
答えるほうもかなり悩む。確かにニュアンスの違いはありそうだが、シチュエーションによっても発言者の関係性でも違ってくる。あなたならどう答えますか?いや、答えられますか?か?
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
選挙が近いな(笑)
でも選挙で民主党が政権を取ったら高速道路はタダになるんだよね???
そんときゃETCもつける必要ないんだよね???
それでETC端末の在庫処分してるってわけじゃないよね(笑)
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (2)
日本には自民と民主以外にも政党はいくつもあるんで、「どちらに投票するか悩みますよね」というテレビのコメンテーターは完全に間違ってる。
日本共産党は、民主党に次いで衆議院では野党第2党だ。さらに最近党員が増加している。派遣切りなど国内問題山積の昨今、共産党が議席を伸ばす意義は大きいぞ。
左翼アレルギーの人も心配はいらない。与党にはまずならない()。権力のチェック機関として大手マスコミが機能不全を起こしている時代、共産党がある程度の存在感を示すのは重要なことだと思う。権力をチェックして欲しいという願いを共産党への投票で意思表示するという選択はまったく自然だ。
社会民主党もなかなかいい。特に辻本清美は威勢がいいし人気もある。第一まじめに学ぶ姿勢がある。学生時代に船舶旅行のピースボートを作ったバイタリティも持続してる。保坂展人もなかなかいい仕事してる。昔は芸能雑誌でマントを羽織って、ボクら少年の悩み相談とかもやってた兄ちゃん(覚えてるでぇ!)。学校教育批判の舌鋒するどく共感できる。
国会議員数は激減してしまった社会民主党だけど、この世代(1950-60年代生まれ)が粒ぞろいで、暗闇の近未来ニッポンで市民の意志を政治に反映させるという視点に立てば、社会民主党という選択も充分ある。
国民新党の亀井久興幹事長の話は説得力があるし、麻生と違い一貫して反小泉・反郵政民営化というところもいい。新党大地の鈴木宗男代表にはたたき上げのオーラがある。地方のオリジナル政党として注目してる。ムネオマガジンも読んでる(笑)。
2大政党以外は全小選挙区に候補を立てないけど、比例っていう方法がある。政党に一票入れられるわけで、自民か民主かで悩むどころか、いったいどこに入れようかと大いに悩むところだ。イデオロギーなんてあまり関係なくなってるし。優先順位はもはやイデオロギーではないので、有権者のほうがそこは柔軟にならないと。
似通った2大政党よりも、多数政党で多様な意見を反映させるほうが日本にはあっている。アメリカは人種の坩堝であって、政治はもともと異なる人々をまとめあげる機能が優先される。そこでそういう機能を持つ社会主義や共産主義ではなく、資本主義・自由主義でまとめあげたところは、なにか別の意志も働いていたように感じるけれど、それもひとつの選択だ。
でも日本は他民族が圧倒的に少なく、ちょっと油断すると小さな声は多数派に押し切られてしまう。アメリカとは真逆なのだ。そういう成り立ちの国だからこそ、多様な意見を反映させられる多数政党政治がうまく機能する方向性が必要だと思う。
| 固定リンク | 0
| コメント (1)
| トラックバック (0)
ヘドロの川で塗料は剥げ落ちとったけど、24年間で年取ったカーネルおじさんは今日も笑顔やった...。きっと川底で横山やすし師匠のように「メガネ、メガネ...」とメガネを探しながら、「なんでオレが投げ込まれなあかんねん!ショーミの話がっ!」と24年間ぼやいとったんやろうなぁ。
24年前の阪神優勝で道頓堀川に投げ込まれたカーネルサンダース像。わけがわからん話や(笑)。野球の神さんもそう思ったのか、その後阪神は低迷し、カーネルサンダースの呪いと言われていたとか...。そのカーネルおじさんの上半身がこのたび“発掘”された!
思えば当時21年ぶりの阪神優勝からはじまったこの物語は、足かけ45年という歳月を背負っているわけや。こりゃ映画にするしかないな。
昨年引退した大阪くいだおれ人形のくいだおれ太郎と口パク漫談やってみてもオモロイけどな。1992年には阪神が優勝しかけてカーネルおじさんのかわりに狙われたとも言われる太郎...。いいコンビになれそうなんやけどな。
あと、石原真理子と玉置浩二の24年ぶり復縁を祝福して仲人やってもらうっちゅーのはどや?石原真理子は阪神優勝の1985年に「プッツン女優」として現代用語の基礎知識に載ったそうやし。これも何かの縁やろ。
| 固定リンク | 0
| コメント (2)
| トラックバック (0)
やい風太郎!伊豆屋で最後に食った定食代払わず帰ろうとしたやろ(笑)。それはそうと、第8話はいわゆる最終回のひとつ前。どんな名作連ドラもこの回の出来が大名作になるかどうかの分岐点だ。その回で清貧な定食屋「伊豆屋」をついに崩壊させた岡田脚本。「銭ゲバ」への並々ならぬ執念を感じた。
「伊豆屋」は岡田さんの脚本によく見られる一種のオアシス的空間であった。ホッと一息つける場所。それは風太郎(松山ケンイチ)にとってもそうだし、視聴者にとってもそういう場所だった。だが、その伊豆屋ファミリーさえも長男の借金2,000万円返済のために人格が替わる。銭ゲバとして生きてきた風太郎が自分の死を選択できるのに対して、清貧の行き着く先に崩壊する伊豆屋ファミリーは死をも売らねばならない。どこかで何かが逆転している。
「銭ゲバ」は殺人を重ねて富を得てゆく風太郎との対比として、善人が善人でなくなる過程をいくつも見せる。風太郎を執拗に追った刑事(宮川大輔)は妻の手術費用を風太郎に出してもらうため風太郎に屈した。子ども時代の風太郎を拾った浮浪者の爺さんは殺人者風太郎の情報を数千円でサツに売ろうとした。伊豆屋の姪っ子(石橋杏奈)は風太郎に身体を2,000万円で売ろうとした。そして伊豆屋のオヤジ(光石研)と妻(りょう)は風太郎に包丁を向けた。風太郎の対応はそれぞれ異なるが、そんな人間の醜さを糧に銭ゲバ風太郎が肥大化してゆく。
ふっと大岡昇平の「野火」を連想する。「野火」では戦時下で飢餓兵士が人肉を食うか否かという極限の選択を迫られる。これこそまさに生き地獄だ。そのような連想を抱いたなかで、銭ゲバの父蒲郡健蔵(椎名桔平)が風太郎に貰った10億円の札束から1枚の1万円札を抜き取って舐めるシーンを見た。「まーずっ」といって吐き捨てる。そして風太郎に返しに来て紙切れと心中する気はないと告げる。そう、たかだか紙切れなんだ。
紙幣は紙切れだというこのフレーズ。スタジオジブリのプロデューサ鈴木敏夫さんの著書に出てきた徳間康快社長の言葉にもあった。「紙幣なんて紙切れ」という悟りは、資本主義という宗教への信仰を疑う、あるいは嗤う瞬間に訪れる。だが21世紀前半の暴走資本主義崩壊の渦中では、貨幣の信用失墜が現実に起ころうとしている。信用が失墜した世の中では、紙幣はほんとうに紙切れとなる。
そんな紙切れと心中する気がなくなった蒲郡健蔵の正常さ。「野火」の生き地獄と比べれば、どうにも平和な資本主義社会。人間が狂うハードルはかなり下がっているようだ。簡単に醜悪になれる。徹底的に醜悪な風太郎よりも、金持ち風太郎を前にして狂い始める一般人への大いなる恐怖。
安倍や麻生に代表される閨閥政治が牛耳るこの日本の本当の怖さは、ひとりの蒲郡風太郎を生み出す怖さではなく、大勢の貧困層が醜悪な支配層を前にして、セーフティーネットのないままに狂気へ陥る必然性にあるのではないか。
例えばもしベーシックインカムといった思想を受け入れることで、この国の人々の尊厳が取り戻せるならば、バラ撒き政治などよりよっぽど意味がある。蒲郡風太郎には思いつかないこのカネの使い方を、閨閥の皆さんに思いついてもらえると期待できるほどの平和ボケじゃ生きられない現代ニッポンだ。「銭ゲバ」を見ながら、そんなことを考えた。
余談だが、「野火」を書いた大岡昇平も今年生誕100周年。太宰や清張と同年である。もし読んでいない方がいたならこの機会に強く推奨しておきたい。日本文学の最高峰と言っていい。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
先週、今年になってはじめてデザイナーH嬢から電話があったので、「あけましておめでとう」と挨拶し(笑)、新年会(?)をすることに。ディープな話になることも多いH嬢との飲みだが、今回は思いがけず美術について語る会になった。
美術談義といってもH嬢は自身が画家でもあり、純粋に描き手の視点で話せるのが貴重な存在。昨年の個展以来だったので、その後作品は展示してないのか聞いた。すると水彩で国内の某賞を取ったらしい。なんで連絡してこないのか!?
「30分で描いたもので納得してないから」とのこと。まぁそういいなさんな。えてして力作よりも何か力を抜いた作品のほうが他人に訴えかける場合もあるのではないだろうか。ご本人は次のステップへ向けて既に描き始めているようなので、とりあえず大きな賞を取ったらまず連絡してくるように伝えた。作品を真っ先に購入してやると(>やらしいな自分!)。
ひとつ注文を出すとしたら、ターナー賞のような方向性は目指さないでほしい。ぶった切りした牛のホルマリン漬けとか買いたくない()。もっと真っ当な美術の道を希望。シュルレアリストポップンポールらしからぬ注文ですがっ!
●コスタビ、好きです。
なぜかそういう話からコスタビの話へ。マーク・コスタビ。1980-90年代に人気のあったポップアートで私も原画を2枚持ってる。右画像はそのうちのひとつで「NOW AND THEN」という1999年のコスタビファクトリー作品。
今でも好きだ。コスタビは自身のファクトリーで製品のように作品を製造していく。私などはそのシステムもすべて踏まえてコスタビワールドだと思っているのだが、世間では自分で描かずにサインだけしてるコスタビに賛否両論だ。
しかし純粋な「画」として気に入ったなら、それがコスタビであろうがなかろうが、その「画」の質感だったり構図だったり色彩だったり雰囲気だったりテーマだったり、画そのものが放つ属性に感受性がリンクすればそれで自己完結するものだろう。「有名な絵描きが描いた」というのも属性のひとつに過ぎず、そこだけに価値を置くのは「画」そのものを否定しているに等しい。
そういう意味では、誤解を恐れずに言えば、贋作だって構わないのだ。名前を買ってるんじゃないんだから。ま、コスタビに関してはモノトーンのコスタビ作品が好きなのと、KOSTABI 1999というサインが入っているものが欲しかったというスノッブな理由から購入したのだが...。ついでに言えば、彼のピアノ演奏CDも持ってる。CDはジャケットに本人のサイン入り。目の前でサインを書いてくれたので、ある意味ホンモノ(笑)。めちゃめちゃ作家性を気にしてるやん!
ただ贋作は多くの場合、その動機の“さもしさ”が絵に表れるように思う。そういう作品はどこか欠けているように思う。そうは思うが、たとえばオーソン・ウェルズの映画「フェイク」の贋作師とか、映画「スティング」の騙しのテクニックとか、そういう騙しの技法すら気に入れば作品として認めたいわけだ。そんな物語まで含めて作品であろうと思うし、その物語も含めて買っている。
コスタビの場合は自身のコンセプトを具現化するためにファクトリーで創作していることを公表してやってるわけだから、そこを捉えてああだこうだいってもしょうがないと思う。ただそれが絵画かといわれると「うーん」と悩む。作品ではあるが絵画ではない。言葉遊びのようだが、絵画にはその作家性が絵筆のタッチそのものだという思いが私にあるから。別のアート作品だと思っていればそれでいい。世の中は多様化してゆくものだ。
さてH嬢はもちろん自分で描く。創作の現場では物語ありきで作品を作っているらしい。それは既存のものではなく、自分自身のなかに物語やファンタジーをまず構築し、その場面を切り取るのではなく、トータルな物語の具現化として作品があるということらしい。H嬢が「やられたぁ」と思った最近の作家は全光榮(チョン・クァンヨン)だとか。なるほど納得!
●物語を想起させる原風景
アンドリュー・ワイエスや向井潤吉についても話した。これは完全に私の興味だけなのだが...。風景が好きだ。ワイエスはアメリカの原風景(ある種の幻影)を描き、向井潤吉は日本の原風景を描き続けた。
「原風景」っていったい何だろう。昔の風景というのとは微妙に違う。それはファンタジーとしての風景といって差し支えないのだろうか。多くの人を魅了する「原風景」とは実存しないイメージの世界。自分自身だけの思い出の風景とは異なる。少なくともそこになんらかの郷愁を感じさせる風景だ。
まったくの虚構で原風景らしき画風を構築できたら?H嬢の作品のいくつかにはそういう雰囲気を感じる。創作される物語がある種のイメージを伴っているから小説家ではなく画家を目指すのだろう。表現の自由とは選択の自由でもある。
どのような表現でも表出させるスキルを何か持っていることは人生を豊かにする。私自身は職業画家でも職業小説家でも職業音楽家でもないが、ある種趣味人としてのそういうスキルの獲得と幅の広さを求めて日々生活しているように思う。創作の喜びは生涯の宝だし、鑑賞者としてのスキルにもフィードバックできる。それもまた楽しい。
正直、10代のころに身につけた様々なスキルばかりだ。絵画も楽器演奏も歌も文章技法もバイク免許も鑑賞術も。その後はまったく何も身についていない。ただ10代に身につけた自分のスキルを編集し化粧し人の力を借りながら情報を付加して小出しにしてるだけ。それも日に日にどんどん衰えていく(笑)。中学生諸君、10代は重要だぞ。一生を左右するぞ。学校で与えられた勉強なんてしてる場合じゃないぞ。これは本当に心底そう思う。
ワイエスは今年の1月に他界している。91歳だ。絵のうまかった私の祖母も今年の2月に91歳で他界した。太宰と清張ではないが、まさかワイエスと祖母とが同い年だったとは知らなかったなぁ。ますます好きになりそうだ。
向井潤吉のでっかい画集上下巻は油彩をはじめた妹の次女に贈ろうと思っている。習作がどれも日本の原風景だったから。師匠の持っている画集の影響なのかも知れないが。今年中1になるが、その年で向井潤吉の作品に出会うのは私には出来なかった経験であるし、記憶の片隅にでも残ればいい。
ワイエスと向井潤吉とが身近な存在とつながった。しかも亡くなった祖母と未来のある中学生と、それぞれに関わり、ちょっとヘミングウェイっぽい生と死の物語(イメージ)を産む。離れていた絵画を再開してみようかなという気分にもなってる。最近は画材も進化しててハードルも下がっているが、あきらかなデッサン力の衰えに愕然としている自分もいるのであった()。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (1)
●歌:ザ・セージ・ブレテールーズ(通称政ブレ、セークル=政狂とも)
ムキにー なると無学がばーれるー
今日も発言ぶーれるー 総理はやめぬー
さもーしくて さもしくて
とてもやりきれない
このやるせない イライラを
選挙にぶつけよか
酒をー 飲んで飲んでのまーれてー
今日も舌はもーつれー
わびしく眠る...
ねむーたくて ねむたくて
とてもやりきれない
このG7の失態に
救いは ないだろな
| 固定リンク | 0
| コメント (3)
| トラックバック (0)
オリンパスの社員が社内のコンプライアンス通報窓口に上司の不正を通報し、それが該当上司に筒抜けとなって社内で不当な配置転換をうけ、人権救済の申し立てをしたというニュースがあった。
この社員が不正と感じた行為は、その内容が事実だとすれば、成功すれば会社にとってプラスにはたらく。ある種産業スパイに似た構図に見える。事実関係はまだわからないけれど。
こういう構図の内部告発を社内でやってしまうというのはダメでしょ。そもそも社内の(上司のかもしれんが)コンプライアンスを疑うべき事案を、社内の窓口にバラすってのは、正直甘すぎ。週刊金曜日でも随時内部告発受付中なので、そういうところを使ったほうがよかったと思うが。
もちろんウラを取るのが難しい事案を、即効でマスコミに持ち込むというのもリスキーだが、少なくともコンプライアンスなんて機能してるわきゃない。会社を信じすぎた彼の致命的なミスだったと思う。映画「アンタッチャブル」を観て勉強しよう。
ただ、名ばかりとはいえコンプライアンスなんてことを法令化した国なので、人権救済はされなきゃならないとは思う。
| 固定リンク | 0
| コメント (1)
| トラックバック (1)
ダジャレかよ!というわけで、昨年秋にオープンしたIKEA新三郷へ行ってきました。たまたま三郷においしいまぜそばの店があるということで、眞司(マキシ)というラーメン店へ行くのが目的でした。そのまぜそばはいわゆる油そばとも違って汁なしらーめんとしてかなり美味かった!で、せっかく三郷まで遠征したので、ついでに新三郷に出来たというIKEAへ行こうということになったわけです。
IKEAの日本上陸には感慨深いものがあります。20世紀も終わりの頃、某社の新規事業プロジェクトでコンペに出たことがありました。そのとき、ボクよりずいぶん年下の青年チームがIKEA日本上陸を提案していたのでした。ボクらはそのチームに敗れたのでした。
でも現実問題としてその主催者コンペの成果としては、IKEA日本上陸は果たせませんでした。IKEAが日本上陸したのは2006年の独自出店。彼らの提案は少し早すぎたのかもしれません。
そのとき敗れたボクたちのチームは音声のポータルサイト的なものを提案していました。しかしこれも時代が早すぎ、日本では技術が追いついていませんでした。ブログが出現し、ポッドキャストほか様々な音を扱うコンテンツが花開くのも、やはり提案から5年程度の年月がかかったのでした。
世の中、アイデアは結構いろんなところで生まれています。でもそれを現実のものとして出現させられるパワーを持つことは非常に難しいです。人脈・金脈・技術・タイミングなどあらゆる要素が奇跡的に結びつく、あるいはそれらを結びつけられるチームが生まれ、それなりの年月を費やしてこそ実現するわけです。
日々生まれている様々な事業をそういう視線で見ると、失敗した事業にも成功している事業にも優しくなれる(笑)。思わずIKEAで買い物して帰らなくちゃという気にもなるわけです。
しかしIKEAの家具類はでかく、日本の住宅事情にどこまで対応できるのか...。回りにいたほかの客も「これはウチには入らない(笑)」なんて言いながら見て回っていました。田舎の一軒家ならよさそうです。
あと、これから家を建てるって人が来ると一部屋分まとめ買いしちゃいそう。キッチンとかドル箱っぽい。ピッキング作業を客がやるということで安いし。バイキング料理のようにひとつ買いだすと次々とリストアップしてしまいそうになります。そのあたりはウマい!
ボクは2m以上ある縦長のCDラックと、座高74cmの折りたたみチェアを買いました(右上写真)。これでラックに収まりきれなかったCD類が整理できました。74cmのチェアも以前フランフランで買ったバーチェアと同じ色・高さなので、これに110cmのテーブルを合わせれば、なかなかよさげ。ただ、ウチのどこにそんなスペースがあるのかという大問題がありますが...。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)
昨日ソフィーの著書「うそをつく女」のアフィリエイトへのアクセスが急増していた。ひとくちメモでは2003年に書いた超初期の記事だ。同時にラ・ブームDVDなどソフィー関連グッズへのアクセスが見られたので、こりゃなにかニュースがあったかなとググってみたら!
2月27日付のフランス紙パリジャンの人気調査でソフィー・マルソーが51%の支持を集め、女優部門の第一位だったというニュースが流れていた(時事通信)。なるほど、これかー!ビッグニュースだね。
ソフィーがデビューした頃からのファンです。既に数年間放置しっぱなしのホームページでやってる1コーナー「early Sophie's photo album」に、世界中からいまだにアクセスがあるのも今回の人気投票で納得しました。アクセス数を取り寄せてみたら、2/28以降2日間で5,000件を超えてました。2000年に作ってほとんど更新してないページなのに驚きです。
と同時に、ホームページやブログ、そしてアフィリエイトをやっていると、自分に興味がありかつ旬の話題がこういうカタチで発見でき、こちらからもすぐ検索してアクセスできるのがありがたい。これが紙の日記だったらありえないです。情報を発信することが逆にアンテナを高くすることになるって実感するよ。ネットの効能のひとつだね。なんでも書いておくもんですわ。そして続けること。これが大事ね
逆にアクセスログを辿ると別のソフィー情報を発見できるわけか。もっとも多いのは検索エンジンですが(^_^;)。というわけで、アクセスしていただいたソフィーファンの皆さまにご恩返し()の思いを込めまして、検索エンジン以外のアクセス元をひとつピックアップしてご紹介!
英語学習ポータルToeic Online
ここ一年、コンスタントにアクセスいただいてました。どうもありがとございます。
| 固定リンク | 0
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント