梶山季之『族譜』に現代日本も垣間見た
梶山季之の文体がどうにも好きだ。名文家と呼ばれる方々はたくさんいるが、そういう評価のベクトルとはひと味違う。梶山季之の文章にはグルーブを感じて、その躍動感はどうやったら出せるのか研究に値する(誰か研究して発表してくれ)。
週刊誌のライターでもありトップ屋とも言われた。この資質あってのトップ屋だったのか、トップ屋だったからこそのこの文体なのか。一言で言えば天性の資質が仕事で磨かれたってことなんだろうが見習いたい。もともと多作な人で1960~70年代にかけて流行作家だったそうだ。ジャンルも多様で経済、推理からポルノも書いた。
1975年に45歳の若さで亡くなっていて、現在簡単に購読できる作品は結構少ない。以前紹介した『赤いダイヤ』は実在した人物がモデルの小説で復刻されたのは快挙だった。投資ブームさまさまだ。他に変り種ながら古書業界を舞台にした奇談集的小説『せどり男爵数奇譚』(ちくま文庫)なども現在手軽に入手可能だ。結構エグい話(人皮で装丁する魅力にとりつかれた男の話とか)もあるが面白い。目のつけどころが違う。これ1冊でも記事に出来たのだが松岡正剛氏が書いていたのでリンクしとこう。
さて、本題は『族譜』だ。日本の植民地支配の手段だった「創氏改名」が、700年続く親日家の一族を断絶させようとする。その政策を推し進める役所の手先としての主人公はモラトリアム青年であり、労務徴用逃れのためにコネで役所勤めをしている。役所にいる小さな人間(日本人課長など)の出世欲や若者の心の揺れと、彼らによって推し進められる植民地支配のための「創氏改名」という大きな罪とのギャップにイライラする。
創氏改名による朝鮮民衆の受難と日本の植民地支配の非道を描いているけれど、これはある種青春小説として読める。最後まで読んでいくと、主人公のモラトリアム青年がなんだかいいヤツに思えてくるかもしれないが、冷静に考えるとそれほどたいしたヤツでもない。だが若者とはそんなものだとも思う。最終的に彼の取った行動が免罪符になるわけもないが、しかしそのひとつの決断は青年の成長ともいえる。モラトリアム脱出物語として読むなら。
また官僚批判小説でもある。官僚って人種はいつの時代もこうなのかというくらい典型的な出世欲の塊として描かれる。モラルもなく賄賂には転びそうだし、メンツを潰されたらどんな手段を使っても復讐する。すべては自分の保身だけのために生きる。現代の大企業管理職や官僚の姿を見ても何も変わっていないって痛感する。
日本は戦争に勝とうが負けようが関係なく、一貫して官僚が君臨・支配する国家のようだ。官僚vs日本人といった図式があるのかもしれない。年金問題などの裏切り行為は、植民地支配者による「創氏改名」の推進となんら違わない。民はいつの時代も官僚にいいようにたぶらかされて死んでいくのだ。それを壊せるかどうか。100年に一度の危機というなら、まさにいまそういう闘争をしなければならない。
ついでに麻生総理は以前「創氏改名は朝鮮の民が望んだ結果である」ということを発言している(2003年5月東京大学での講演)。そんな麻生総理にもぜひ読んで欲しいが、悲しいかな『族譜』はマンガじゃなくて日本語でかかれた小説なので期待薄だ。
以上が『族譜』のご紹介でした。
実は先日(2/11)の深夜2:47に祖母が他界し本日まで実家に帰っていました。昨年の2月前半も伯母が他界しブログの更新を中断していた時期があります。これほど近い存在を次々と亡くす現実ははじめての経験でした。それだけ年を重ねてきたということでしょう。
両親が共働きの家庭だったので祖母は育ての親でした。新幹線で5時間の距離がたまらなく遠かった。妹夫婦とその子どもたちが両親と実家に住んでおり、何から何まで任せきりで、こんな生活を続けていていいのだろうかと自問することもあります。
孫だけでなく曾孫にも囲まれての91歳の旅立ちは大往生かもしれません。しかし個人的にはほとんど何の恩返しも出来ず送ることとなり悔しいです。でも母は私以上につらかったはずです。早くに父を亡くし昨年からたて続けに姉と母を亡くし「自分だけになった」と言っていました。しかし自分だけと思わないで欲しいと思います。父も妹家族も私もいるから。
祖母の死が家族という存在を強烈に実感させてくれたように思います。日常を生きなきゃダメだ。今回どうブログを再開しようかと思い『族譜』を紹介したのは、そんなモラトリアムな自分が主人公と重なったからかもしれません。
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