アンビエント・ハウスの快楽
掃除してたら1994年に別のペンネームで書いた文章が出てきた。ほっとくとまたなくなりそうなので「ひとくちメモ」に転記しとこう。決してヒマなわけではない(笑)。ご飯が炊けるまでのつなぎだ。14年も経ってるのに、まったくオレの文体が変わってないという驚愕の事実発見
と同時に、今年自然音録音に傾斜していったポップンポールの心象世界には、こういう前提もあったという記録の意味合いもあったりなかったり。
●アンビエント・ハウスの快楽
~ カルトだけのものにしない!編 ~
過激な静けさ。躍らせないハウス。
アンビエント・ハウスは、こう形容される音楽のジャンルである。
アンビエントミュージックとハウスミュージックとが合体してしまえる時代(といっても十五年も前だが)の音楽シーン。ここまで来たらこの先なんでもありなのではないかと思いつつ、アーティストにとっては、なにをやっても予定調和的に受容されてしまうという、いっそうパワーの必要な時代だ。
アンビエントの創始者ブライアン=イーノは、アンビエントを「聴くことも無視することもできる音楽」と定義した。これをエリック=サティのいう「家具の音楽」のようなオッシャレーなものだと思うと痛い目にあう。アンビエントとは、そう、お化け屋敷のなかで誰も聴いていないのに流れている、あのドヨーンとした音楽みたいなものだと思ってほしい。暗くて、たいくつで、曲が長い。知らずにCDを買うと、怒りがふつふつとこみあげてくる。どれも同じにきこえて、何度聴いても曲名が覚えられない。
しかしそのうち曲名なんてドーでもよくなる。CDを買ったときの怒りは錯覚だったんじゃないかと考えだし、もう一回聴いてみようと思い始める。そして聴く。ここがアンビエントにハマれるかどうかの分岐点になる。私のようにかつて中島みゆきとYMOに同時にハマれた人ならきっとグッとくる(あまりいないと思いますが)。
こうしてアンビエントの極北にたどりついた現代人が結構いた。しかしその何倍もの規模で流布していったもうひとつのムーブメントが、ハウスである。
ハウスとは、かつてのディスコ・ミュージックが進化したものだから「ハウス=踊るための音楽」という図式がそれまでの音楽シーンの常識だった。
ディスコのことを最近ではクラブというが、そこで流れているクラブ・ミュージックの1ジャンルがハウスだ。家のなかで踊るからハウスと呼んだという噂もあるが、実際はシカゴにあったウェアハウスというクラブが語源らしい。
ハウスは年々過激になってゆき、様々なサブカルチャーの出会いを生んできた。ハードコア・テクノ、アシッド・ジャズ、サイケ、ミニマル、とにかく古今東西、踊れるもの、倒錯できるものならすべてを飲み込んで拡大・拡散していった。一時は三波春夫までREMIXしたりしていたが、そのようなフライングまで含めて、なんでもありなんだぜぇ的なノリを発信していた。
そのなんでもありのなかで、淘汰された結果のひとつがアンビエントとハウスの合体したアンビエント・ハウスだ。とはいえ、お化け屋敷のBGMとイケイケボディコンねえちゃんとが、どうして結びついたのだろう。いや、どうしてという疑問がすでに若さを失っている証拠かもしれない。オタッキーとイケイケというなかば時代遅れのふたりが結晶した現代のファンタジーとしてとらえたほうが、トランスモダンっぽくていい。
「聴くことも、無視することも、踊ることだってできるかもしれない音楽」アンビエント・ハウスの出現は型破りだったが、それは衝撃では無く、静かな波のようにひっそりと浸透していった。その背景には世界的な環境意識の高まりや、都市生活者のヴァーチャル・リアリティ願望があったのかもしれない(?)。
また私にはその出現が、かつてのシュールレアリスム出現とダブッてみえる。ほぼ時を同じくして世界中で同時多発的なムーブメントとなった。
音楽の機能を覆したという点でも、シュールである。
音楽は今日もなお、人間の感情に訴えかけようとするものが多い。それは音楽の価値ですらある。
アンビエント・ハウスは、それらと対極にあり、音楽に別の価値をもたらした。音楽的でありながら「音」そのものへ極度に接近したため、これまでの音楽の範疇では捕えきれなくなった。「音」そのものの脱構築。まさにシュールレアリスムではないか!
「感覚にはたらきかけないもの―たとえば数は、もっと『純粋』である。」
これは私の敬愛するヴィトゲンシュタインの言葉だが、アンビエントの愛(め)で方はこれに近い。
「感覚」を「感情」と置き換えるとシックリくる。無作為に並べられたかのような数列、その数列が美しさとともに経ち現れてくる感覚。それは厳密には感覚にはたらきかけているのだが、人間の情では無く、脳内の化学変化をどうしようもなく誘発する薬のようなものだ。
こういう作用が「過激な静けさ」といわれる所以だろう。高揚しないことの過激さは、ロックの叫びよりも時にパワフルである。
ハウスのリズムは単調なビートの繰り返しだ。これを私はループする快楽と呼んでいるが、この単調さがポイントである。坂本龍一はこのビートをハートビートと呼ぶ。胎児の頃に聞いたであろう母親の心臓の鼓動、単調で安定しているその鼓動をハウスのビートに身を委ねることで疑似体験する。感情の芽生える前の状態に人間の無上の快楽をみる。それは恐らく地球というひとつの家(ハウス)の波長とシンクロしていて、究極的には超生命体としての宇宙、までも自分と等価交換できる可能性があるのだ。
カオスとビート、混沌と反復、空虚と過剰、おたくとボディコン、みな連続している。どっちがわの住人でもいい。DEEEEEPになろう。DEVOじゃなくて(いいけど)。
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以上が14年前に書いた文章。いま表現するならば、アンビエントハウスは電車男のような音楽ということになるだろうか。ボディコンねえちゃんの記憶が色濃く残る(笑)、昔むかしのお話でした。
当時「カルトにならないCDガイド」ってのも書いてるんだけど、それは置いといて(笑)、いまひとつあげるならこの1枚(CD+DVD)。アート・オブ・ノイズのライブ盤「Reconstructed」だ!
日本仕様のDVD盤(画像なし)は、24bit/48kHzリニアPCM録音や24bit/96kHzのDTSが詰まってる!つまりCD音質以上のクオリティで売ってるわけだ。海外ではSACD仕様で売られていたそうで、日本ではより普及してるDVDでの発売になったのだろう。
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