石田えり@風のガーデン
CX開局50周年記念ドラマ「風のガーデン」はすでに第6話まで終了した。倉本聰富良野3部作の最終章との触れ込みで、本当に特別な作品に仕上がっていそうだ。
今回はまったく情報を入れないで観ているので、この第6話で石田えりがエリカ役で初登場したときはうれしかった。
エリカ曰く「30年経てばいろんなことがあるわよ」
本当にそうだな。石田えりを初めて観たのはテレビの映画番組でやっていた「遠雷」だった。たぶんオレは中学生だったから30年までは経ってないけど、その衝撃は忘れがたい。
いわゆる「私、女優よ」ってタイプの女優が大好きになったのは「遠雷」の石田えりからだと思う。もっとも当時の石田えりはデビュー間もない頃で、まったくの新人ではあった。“前貼り”って業界用語すら知らずヌードシーンの撮影に挑んだエピソードは有名(?)だ。
「私、女優よ」の定義はあえていうなら強烈な印象と幅広く堂々とした演技、そして恵まれた作品との出会いって感じだろうか。思いつくままに他にあげるなら太地喜和子、岩下志麻、原田美枝子、山口智子にも「私、女優よ」オーラを感じる。
新人時代から「私、女優よ」というオーラが出ていたわけだから、すごい(ってオレのアタマのなかのスキスキ女優アワードでの話だけど)。すごい女優になるに違いないと思わせたわけだが、期待に違わぬ女優でいてくれて、いま「風のガーデン」で出会えたのは感慨深い。
散髪屋のママさん役にして、この存在感。中井貴一との髭剃りながらの思い出話も、エリカ役が石田えりだからこそ倉本聰が書いたのでは?と思わせるエピソードだった。今後の展開も楽しみだ。
●倉本聰父子物語3部作最終章
「風のガーデン」はボクら(よりちょっと上?)の世代にとっては、たまらないキャスティングかもしれない。キャンディーズのランちゃんと、ふぞろいの林檎たちの中井貴一が不倫してて、そのオヤジの町医者が緒方拳(この作品が遺作となった)で。
「北の国から」は物語そのものが視聴者とともに成長しながら、長いスパンで進行していった稀有な作品だった。視聴者は物語に寄り添い、物語のなかの純と蛍の成長を見守った。
「北の国から」レベルの時間はテレビでは二度と再現不可能かもしれない。しかし「風のガーデン」では、そのタイムスパンを物語のなかで再現できないかわりに、「死の準備」というテーマを持たせることで、同世代の視聴者自身が歩んできたさまざまな人生をバックボーンに視聴できる。
「北の国から」の歩んできた時間は、実はドラマの外で生きてきた視聴者ひとりひとりのもうひとつの時間とともにあった。今度はそれぞれが歩んだそのもうひとつの時間を物語に投影しつつ、自分自身の生き方(それは死に方でもある)を考えるきっかけになると思う。
富良野3部作は親子のカタチ3部作でもあった。そして、すべて母のいない父子の物語だった。「優しい時間」は他の2作品に比べれば小品な印象だが大好きな作品だ。母の死をきっかけに反目しあう父子の邂逅をテーマとしていた。大テーマの2作品の間に「優しい時間」を置くことは必要不可欠だったのかもしれない。富良野塾で育ってきた倉本聰とその弟子たちとの父子関係という視点でも興味深かった。
「風のガーデン」では3世代の父子関係が描かれる。「準備できる死」としてのガンをある種肯定的に捉える。勘当され故郷に戻ることを許されない余命数ヶ月の医師である息子(中井貴一)と、在宅医療に固執する町医者の父(緒方拳)との親子関係。その大テーマの前に、妻を自殺に追いやった父(中井貴一)と母を亡くした彼の子どもたち(黒木メイサ、神木龍之介)との親子関係がある。
●妻や母の不在に見る倉本聰の願望
それにしても倉本聰富良野3部作における母や妻の不在は回を追うごとに重くなる。「北の国から」では離婚だったが、「優しい時間」では息子の事故で死に、「風のガーデン」に至っては自殺だ。その不在の原因も、妻自身の浮気、息子の不注意による死(そして息子と父との断絶)、夫の浮気で自殺(まだ第6話までの推測だけど)と、だんだん男の罪や悪に比重が移っていく。
「不在による存在感」と「私、女優よ」タイプの女優好きとは、関連があると思う。大脚本家倉本聰の深層心理を読むことはできないけれども。たぶん強い女が好きなのだ。しかし強い女の物語は橋田壽賀子が描けばいい(笑)。倉本聰は、もがき苦しむ悪い男のダンディズムを描くのだ。そうやって男や父を描くことで女をある種の理想形(あるいは神棚)にあげる。
それでも強い女渇望は抑えきれず、「優しい時間」では大竹しのぶの幻を毎回登場させてみたり、「風のガーデン」で石田えりを2度離婚した散髪屋のママさんに置いてみたりするのだ(>オレの勝手な妄想ですけど!)。そんな母性への圧倒的な渇望こそが、倉本聰の根幹なのかもしれない。富良野の大自然(母性)に包み込みながら、ダメな男に社会と折り合いをつけさせていく。それもひとつの生き様。
「風のガーデン」が何かの集大成であるとすれば、そのひとつは「ダメ男でも最後は決着をつけるべき」ということかもしれない。
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