アートに何ができるのか?
爽やかな秋晴れの連休中日、ちょっと変わった写真展&トークイベントへ行って来た。写真家・橋口譲二さんのNGO“APOCC”主催の「ベトナムワークショップ2007写真展 少年少女の心の世界」とトークイベント「アートに何ができるのか? -生きる喜びを見つけるアートの力」だ(右写真をクリックすると画像拡大します)。
場所はJICA横浜。遠い...。しかしがんばって行ってきた。他でもない、星野博美さんに会うためだ
なんと動機が不純な...。しかしこのワークショップ写真展は内容の濃いものだった。残念ながら星野さんとはお話し出来なかったが。
写真展は橋口さんと星野さんというプロカメラマンの写真ではなく、ベトナムの少年少女にカメラを渡して好きに撮ってもらうというワークショップで撮影された作品群だった。
10代の少年少女がほとんど初めてカメラを持ち、シャッターを押した写真だ。リーフレットの牛もフィン・ミン・ナム君(16歳)の撮った牛なのだ。ピンク・フロイド「原子心母」も真っ青ないい写真じゃないか
少年少女の写真には、風景写真が多い子もいれば人物が撮れてる子もいる。風景はさまざまで、遠景が好きな子もいれば、市場や果物など生活の匂いが好きな子もいる。接写でうまいアングルを自然と獲得してる子もいた。光と影の面白さ、瞬間を捉える面白さに目覚めた(かもしれない)子もいた。
人物では、後ろ姿だけの子もいれば他の子どもの表情をキャッチしてる子、被写体を正面から撮れてる子などさまざま。後姿ばかりだった子の中に1枚、真正面からおじいさんを撮った1枚があって、きっと勇気を出して声をかけて撮らせてもらったんだろうなとか想像は膨らむ。
今回のワークショップでは、展覧会の写真を観に来た人たちに、どの子のどの写真が良かったかをその子の写真を観ながら話し、その場でベトナム語に同時通訳してビデオレターにするという企画もあった。めちゃくちゃ賛同したのだけど、星野さんに話しかけられないくらいシャイなオレなので、ビデオレターには収まらなかった 取材だったらいくらでも話せるんだけどな...。
●アートに何ができるのか
トークイベントでは、アートになにが出来るのか、あるいは何が求められているのか、なぜアートが存在するのか、といった壮大なテーマだった。それだけにいまいちまとまりのない感じではあった。しかし、今回のワークショップのあり方そのものがひとつの答えを充分に出しているのではないかと思った。
ボクは自分自身をシュルレアリストだと自称してアートワークにせいを出していた時期がある。アートとは自分自身が生み出すものであって、鑑賞するものじゃなかった。
とはいえ鑑賞そのものに価値がないかといえば、そんなことはない。この世にはすばらしい絵画や音楽や映画がいくらもある。それらに影響されて何がしかの生きる糧を得てきたのもまた事実だ。
星野博美さんは学校での美術が苦手だったという。アートがない世の中が理想だと。しかし実際には満たされない何かをアートの存在で代替できたり、アートに触れることが支えになる世界が現実にあるのだろうとも。
ボクは学校美術がどちらかといえば得意だったわけだけど、「アートで満たされる心」はひとつの幸せではないかと思う。世の中にはアートでは救えない生がまだたくさんある。せめてそのような救えない現実を根絶し、最低限アートで救える生を実現する、アートがセーフティネットになり得る世界、そんな現実世界が訪れれば良いと思う。
●アートは観るものか作るものか?
アート論でときどき思うのは、アートとは観るものか作るものかという問いだ。質問しようかなと思ったが、なかなか言葉にまとめることが出来なかった。シャイなもんで。
ま、どっちでもあるのだが、ボクには自分で作るその過程こそが第一義にあり、その作品は自分自身と社会との接点であろうと思っている。ワークショップでの少年少女の写真は、まさにそういう作品だった。
社会のなかに自分自身の居場所を見つける、あるいは自分自身が居ていいんだと思える(承認を得る)、そういう装置の一つとしてアートの存在意義がある。
学校教育に美術や音楽があるのも、何かを表現することが社会との接点を見つける学習だからだと思うのだ。それ以外の勉強(科目)は、ほとんどが内に閉じている。暗記したものを吐き出す繰り返しだ。それは表現とはいえない。そのような記録の表出ばかりに偏重した教育が面白い社会やお互いを尊重する社会を生み出せるはずがない。
表現する自分を見つける(自我の発見)、そしてその表現に承認を得る(社会の発見)、それがアートの根源的な意味だと思ってる。なかにはその表現が他者に影響を与える人もポツポツ出てくる。
また他者のアートに影響を受け、自分自身にフィードバックできる人もいる。多くのアートしない人々も他者のアートへの共感や感動によって別の価値を自分のなかに蓄積し、また形を変えて、仕事や家庭、生活を豊かにできる人もいる。
順序としてはそういう順番ではないだろうか。アートを観るのは何か行動を起こすためのきっかけであればいい。アーティストはそういう影響力を持った(持ってしまった)人なのだ。そしてアートする人が増えれば影響を受ける機会も増え、さらにアートの裾野が広がる。
それは単にアートが巨大ビジネスになるということではなく、第一義的なアートの意味である「表現する自分」と「そんな自分を受け入れてくれる社会」を多くの子どもたちが発見することにつながるように思うのだ。
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