google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg 子どもの好奇心 大人の好奇心: ひとくちメモ

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2008/03/09

子どもの好奇心 大人の好奇心

Zen and the Art of Motorcycle Maintenance

ハヤカワ文庫で文庫化された「禅とオートバイ修理技術」(上下巻)を読み始めた。レコードやCDに“ジャケ買い”(ジャケットデザインに惹かれて即購入)というのがあるが、この文庫もほとんどジャケ買い。タイトルもすばらしい!米国で初版が出たのは1974年。すでに34年前だ。

最近の私は完全に読書モード(濫読モード)と化しており、いくつも並行していろんな本を読んでいる。生理的なサイクルの赴くままに、経済的に可能な限り買いあさり読みあさる。何度目かのそういう時期に入ったようだ。

昨日、NHKで日本の学力について議論する番組を流していた。途中で見るのをやめてしまったが、教育について語ると常に不毛になる。誰でも一家言持っていて、環境も状況も異なる人々が、あたかも「教育」というオブジェについて感想を漏らしているかのようになる。

だが人類は語らないことにはコミュニケーションを得られない。特に「教育」とは社会的行為であり、個人的行為の「学習」への介入を意味する。そこには教える立場と教えられる立場との断絶という問題が常につきまとう。教え教えられるコミュニケーションという謙った立場には教える側の譲歩が不可欠だ。

●子どもの好奇心

子どもには無限の好奇心がある。それは「無知」なるがゆえに知りたいという人類の本能のようなものだから、誰かに突き動かされなくとも持っている。1968年に開校したサドベリーバレースクールの基本はそこにあり、私はこの考え方に共感する。

子どもの好奇心は、しかし常にひとつの方向性を持っているわけではない。それは環境や状況に大きく影響される。北朝鮮で脱北しようとしている家族に生まれれば、脱北のノウハウを教育され、人生を脱北のノウハウが支配するかもしれない。北朝鮮を学校教育と置き換え可能だ。

その環境や状況に方向性を与え、共通の知識なり体験を与える装置が「学校」であり「学校教育」だ。そして自己と他者とのさまざまな関係性もそこで学んでいく(この関係性のバリエーションが現代の学校には大変少ないが)。

●大人の好奇心

一方で大人の好奇心は、すでに得た個々人の知識の体系というぬぐい難い前提がある。その体系に留まってその中で生きようとする人々もいれば、自己の体系の外に別の世界があることを受け入れ、さらに知ろうとする人もいる。また別の世界の存在は認めるがあえて知ろうとしない人もいる。

どちらにしろ、子どもの無限の好奇心とは異なり、いくつもの制限・制約を意識するとも無く架せられた大人の好奇心は不自由だ。ただ、その不自由さを認識する知恵もまた持っている。だから、そんな大人の好奇心に基づいて行動するよりも、自己の知識の体系に基づいて動くほうが楽であろう。「教育」という行為は、そんな楽なベクトルを持つ大人な行為のように思える。

●青年の好奇心

教育上も学習上も危うい時期が青年期だ。中途半端な知識と好奇心との狭間で揺れ動く「学習への本能」は、環境や状況によってどうにでも転ぶ危うさを持っている。そこでの(人間的・物質的・知的)出会いが一生を決める。

三つ児の魂百までというが、ほとんどはその魂が青年期に身につけてきた知的体系に支配されやすい。そしてその知的体系が魂の判断とスパイラルに影響し合い、知的体系の強化や新たな思考停止(強情な性格など)へと連なっていく。

この知的体系の連鎖が小さく閉じた大人になりやすい現代日本の学校教育。この閉じた知的体系を飛びぬけていくにふさわしい時期がおそらく青年期だ。だからこそ青年期には学校を出て、もっと広い知的体系を体験することも大切だ。

●ゆとり教育

ゆとり教育に意味があるとすれば、学校内の小さな知識の体系から個人の学びを解き放ち、別の知的体験への導線を提示してみせることだった。それが学校内だけのシステム変更でしかなかったため、その開放された時間の多くが知的体験へと向かうことなく、怠惰な浪費へと向かってしまった。

北朝鮮を学校教育と置き換えたとき、脱北だけが人生を支配しないように生きるには、脱北とセットで別の目標なり知的体験への導線が不可欠だ。それを自分で見つけられる好奇心の持ち主もいる。彼らはすでに学校を超えており、戻ることは無い。脱落と脱出とを混同しては対応を誤る。

そしてその導線の先の知的体験は、おそらくどんな些細なことでも個人にとっての学習効果や影響力は大きなものとなるのではないかと思う。座禅であろうと、オートバイ修理技術であろうと、哲学であろうと、芸術であろうと、恋の駆け引きであろうと、旅であろうと、釣りであろうと、登山であろうと、プラモデルであろうと、折り紙であろうと、洋裁であろうと、石拾いであろうと、掃除であろうと。

知的体験は知的であるがゆえに閉じている。これを突破できる人類は2通りいて精神異常者か宗教家だ。ほとんどの場合は、この閉じた知的空間ですら把握しきれない。知の体系の外に未知の物理体系や精神世界が広がっているかもしれないが、そこまで到達しようとするのは人類にとってリスクが高い。

私も青年期にはこの知的空間を突破しようとしていた。しかしその時間をもっと別の空間へ意識を振り向けることで有意義に使うことを覚えていった。それが閉じた知的空間に留まる=大人に近づくことだった。もしこの洗礼を受け入れなかったら、あっちの世界に行っていたかもしれないのだ。

●そして、学校

そのせめぎあいのなかで、どのような体験からでも知的興奮を得られるし、自分の中に「得ようとする意志」の存在を知る。ただそれは自分自身で望んで飛び込んでいった知的空間でなければ得られるものも少ない。学校教育で得られる人々は幸せな大衆だ。だが学校外への広がりをもっともっと意識すれば、学ぶ楽しさも広がる。

学校教育はこの広がりを認め、フィードバックさせる度量を持てばいい。学校教育の体系は「教える側」でしかなかった。それも相当偏った知識だ。外の知的世界との断絶と内なる強制が教員の質も低下させる。共通知識は社会のルールだけでいい。知的興奮を個人の学習へと返納することだ。

そして待てばいい。学校にはさまざまな体験を持った青年が戻って来たくなる環境だけあればいい。学校システムの特殊性はそのような「戻ってくる場所」として機能させてはどうか。ふるさとのようなものだ。

1980年代から私は、学校は「知のカタログ」でいいと常々言ってきたが、もはやカタログですらなくていい。知の市場、知の物々交換、肉体と言語とによるリアルなコミュニケーションの場、知のパブ、知のカフェ、知のリハーサル会場、知のコンビニ、あるいは肉体の開放、鉄棒、プール、逆立ちできる場所、大声を出せる場所、球技が出来る場所。そういう場の記憶を留めるための約束の地を目指してはどうか。

ね、教育談義って、不毛だよね(笑)。書いてるボクだけ楽しい。そういうものなのだ。でもこういうこと発散できる場所もどっかに必要。学校がそういう場所ならいいのにと思う。この文章はほとんど、シュルレアリスムにおける自動記述的に書けた(駆けた)。

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コメント

サドベリー関連の本には決して掲載されない
サドベリーの矛盾点を書いているブログです。
ぜひ一度ご覧下さい。

投稿: KEEPBLUE | 2009/11/25 17:17

KEEPBLUEさんのサイト、プロフィールも書いてないところで基本的にアウトでした...。

どんなとこにも矛盾はありますからね。もっと自信と責任を持って書かれたらいいんじゃないでしょうか。

はじめて日本にSVSが紹介されたときから、日本にもSVSをとがんばっていた人々とも交流したことがありますけれど、同じ夢を見ていても違った現実が出現してしまう。

世の中そういうもので、そこからどう自分の生き方を選択していくのか、学習者にはそこが問われている(一生問われる)と思います。

実在のSVSとはいわばその稀有なモデルケースなのであって、これを実現したグリーンバーグ夫妻の行動力はいまも尊敬しています。ボクにとってその敬意は匿名での指摘程度じゃゆらがないです。

投稿: ポップンポール | 2009/11/25 23:20

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