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18 posts from March 2008

2008.03.30

久々に毎日録画に挑戦(?)「瞳」

連続テレビ小説瞳ガイドいよいよ明日3月31日から半年間、NHK朝の連続テレビ小説「」がスタートする。久しぶりに全編録画しようかなと思った。おしん以来だ(笑)。

でもおしんの頃は超高価なVHSテープに撮るしかなかった。テープ残量を気にしながら...。いまやレコーダーが勝手に録画してくれる。おしんを録った苦労に比べれば挑戦でもなんでもない。時代の進歩を朝の連続テレビ小説全部録りに感じる2008年春であった。

主演は演技力の評価も高い榮倉奈々。先ごろCXでやってた「プロポーズ大作戦スペシャル」は、まさに榮倉が主演のようだった!今回はダンサーを目指す瞳が若干二十歳にして里親に!?という設定で、舞台は下町(月島)。人情ドラマ的テイストもあるようだ。

下町テイストといえば最近はすっかり「ふくまる旅館」の好演がおなじみの西田敏行。朝の連続テレビ小説には1973年「北の家族」以来、35年ぶりのご出演とか。

榮倉の母には飯島直子。久しぶりの連ドラだと思う。朝の連続テレビ小説は初出演とか。個人的にはユースケ・サンタマリア再評価につながったドラマ「ウエディング・プランナー」(DVD化熱望中)の印象が強い。

そして、特筆すべきは鈴木聡さんのオリジナル脚本だ。鈴木さんのテレビ小説は「あすか」に続き2本目。竹内結子主演の「あすか」はDVD-BOX買って観てます。何度観ても面白いドラマですわ。その鈴木聡さんの新作ってことですよ。必見でしょ!

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2008.03.29

新銀行東京はハゲタカに売られるの?

「晴れた日に傘を貸し、雨の日に取り上げる」

名作ドラマ「ハゲタカ」(第二話)での松田龍平のセリフだ。銀行の過剰融資とその後の剥がしを指している。まさに言い得ているが、新銀行東京はちょっと違った。

新銀行東京は、雨の日に傘を取り上げられた人々に貸してあげるよと言って始まったが、傘なんかじゃ到底間に合わない嵐のなかでも傘を貸し続けた。ヘルメットが必要だったり、外に出ちゃいけない時にまで「傘があるよ」と言って連れ出していたわけだ。

そろそろ傘で間に合う時が来て、同じ傘をもっと安く貸してくれる従来のブランド(銀行)が復活してきた。傘が必要な人々は去り、嵐のなか傘を借りたまま行方不明になった人々(不良債権)が残った。

自分自身も瀕死の状態で貸す傘もほとんど無いのにまだ傘を貸し続けるという。無い傘をどうやって貸すのか?

そこでトミン君ちから盗んでくるわけだ。いやイシハラ君は「盗むわけじゃない、ちゃんと話し合って決めただろ」と言う。確かにそうだ。

まさか傘を盗むようなヤツだと気づいてなかったから彼を選んだ。トミン君が彼のこれまでの生き方をもっとちゃんと知っていたら選んでなかった。みんな表面しか見る時間が無いからね。面倒なことを考えたくないもんね。

でも政治が自分の生活を壊す可能性を身を持って知った。時間を作ってでもちゃんとした人間を選択しなければ自分が脅かされることを400億円の傘で気がつけばいい。これで終わりとはまったく思えないけれど...。

こうして新銀行東京は「雨の日に貸して、晴れの日に取り上げる」普通の銀行に生まれ変わろうとしているようだ。でも、盗んだ傘をお土産にして身包み剥がす追い剥ぎにくれてやろうという“秘策”を持ってるとの噂も。

どうせギャンブルなんだから、この400億円をヘッジファンドに突っ込んで一か八かの賭けをしてみたらいい。すぐに3倍くらいになるよ。でもそこはイシハラ君の嫌いなロシアや中国が主役の賭場だけど。

イシハラ君のようなハッタリだけの時代は完全に終焉を迎えたってことかも。もっと大きなサギがまかり通ってるし、せめてイシハラ君のような旧態依然とした典型的な詭弁には騙されないよう考える必要があるよね。他人事だけどね。

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2008.03.26

いよいよ新ギャンブル東京は次ステージへ!

400億円ぶち込むことが決定したね!

やったぜ東京!トトトト東京ワッショイ!

オレは石原だー!オレは偉いのさー!

築地ブランドもぶっ壊すぜ!

汚染なんて関係なぁい!

臨海の赤字はぁー隠し通すぜぇー!

オリンピックも止めないぜー!

カネをつぎ込むぜ!イェーイ!

いっそ台場にカジノも作っちゃっおうぜー!

カジノで儲けて銀行に貸してやろうぜー!

どんな逆境でもオレはへっちゃらさー!

なぜならオレには秘策があるのさー!

任期は残りあと3年。たったの3年!

逃げ切ってやるぜベイベー!

嫌なことは考えたくなぁーい!

3年だけはつぶさないぜー!

それですべてが終わるさべイべー!

そんな生き方こそがーオレのー人生さー!

ずっとそうやってー生きてきたのさー!

東京はーオレ様のモノー!

東京はーオレそのものー!

都民が選んだのさー!

オレのせいじゃなぁーい!

イェーイ!ガッガッガッガッガッツナゥ!

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ドジョウの品格

いま世の中は品格ブーム!

○○の品格」みたいな本がたくさん出版されているが、二匹目のドジョウを狙ったこれらの人々の品格はいったいどこへいってしまったのだろうかっ!?

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2008.03.22

いま、連合赤軍とあさま山荘を観ること

何から語ればいいのかわからない。映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(若松孝二監督)を観て以来、映画のさまざまなシーンがずっと頭から離れない。ボンヤリとした知識でしかなかった事柄が明確になったけれど、同時に心に穴が空いてしまったような感じをずっと持っている。

帰って来てから、YouTubeで当時のニュースの一部を観た(左映像ほか)。映画を観る前と後とで、このあさま山荘事件映像の印象は大きく変わるかもしれない。

映画のパンフレットにあった「吉野雅邦 獄中からの手紙」を真剣に読んだ。吉野氏はあさま山荘で逮捕された一人。無期懲役で服役中だ。この映画で吉野氏を演じる役者にあてた手紙として書かれた。伝わってくるけれど届かない。映画を観たときと同じく、心の穴はますます大きくなるばかりだ。

公開されてから観たくてしかたがなかったが、3月20日春分の日にようやくテアトル新宿で観た。風雨の強い日だったが、この日も長蛇の列。5分遅かったら座れなかったかもしれない。休憩時間にも当時の学生運動のモノクロ映像がずっと流されていた。強烈に惹かれるあの時代。だが届かない。渇望と断絶と。だからそこ、迫りたかった。

私が生まれる少し前が学生運動・労働争議全盛時代で、小学校高学年くらいからフォークソングを媒介にして当時のカルチャーに憧れを抱きはじめた。あさま山荘事件やよど号ハイジャックはその後のテレビで何度も流れていた。私にとってはこれらの事件もその時代の熱さの一部であり、憧れないまでも嫌悪するニュースではなかった。

ときどき、自分が学生運動の時代に大学生だったら何をしていただろうかと思う。一歩間違えばあさま山荘に立て篭もっていたか、リンチで死んでいたか、仲間を殺していたか。それとも常に少数派でいたい私があの時代にいたら、ノンポリ学生(実は多数派?)だったか。同人誌に詩でも発表していたか。

●淡々と、激しく、映画が語る連合赤軍

映画にはものすごくフラットな印象を持った。あさま山荘に機動隊が突入し銃撃戦が行われていても、この映画の主人公たる連合赤軍のメンバー寄りには到底なれず、かといって警察(国家権力)を拍手喝采で応援する気にもなれず。このあさま山荘を(必然かどうかはともかく)結果として起こった事実として追体験した。

ただ指導者の二人、森恒夫と永田洋子にだけは虫唾が走った。脱走兵から簡単な自己批判で軍に戻り指導者となった森。何度総括と言ってたか総括したいくらいにメンバーに徹底的に総括を求め、すべて否定し結局は殺してしまう(他のメンバーの手で殺させてしまう)森。森恒夫は逮捕1年後の正月に獄中自殺しているが、それすら卑怯に思う。

永田洋子はターゲットを決めたらネチネチと攻め始める。そして森が総括要求しリンチが始まってもただ見ているだけ。いや、その様子を俯瞰し次の獲物を探していたのかもしれない。永田には革命とか思想とか、そんなものはどうでもよかったのかもしれない。それだけにデモに参加した誰もが永田になっていた危うさを感じる。永田洋子は死刑囚として36年たったいまも獄中生活をしている。

リンチによって殺された学生たち。彼らのセリフのなかに印象的なものが多かった。暴力のなかで正気に戻ると死が待っている。そんな組織だった。まるで裸の王様に「王様は裸だ」と言って死んでいくようだ。

山田孝が死ぬ直前に叫んだ「俺が死ぬことで革命が前進するなら、喜んで殺されてやる!革命は、どこにあるんだ?森!おまえこそ総括しろ!」という言葉は、メンバーの誰もが思っていただろう。しかしついに森・永田自身へぶつけられることは無かった。

最年少の加藤元久君(当時16歳で加藤3兄弟の3男)は、山岳ベースで兄の死と直面し早々に正気を取り戻していたがどうすることも出来ず、あさま山荘での銃撃戦へと突っ込んでいく。彼のセリフは少ないが、正気の人の言葉で印象に残る。理想に燃えて翻弄され挫折した青春だった。

権力を笠に着て気に入らない振る舞いの同志をリンチしていく組織。内ゲバはどんな組織にも起こりえる。誰もが永田洋子や森恒夫になる可能性がある。それを自覚しない人ほど永田や森のようなリーダーになる可能性がある。自覚があるからこそ客観性が生まれ謙虚になれるのだ。

あさま山荘事件後、敗北を悟った多くの学生が「自分たちは彼ら彼女らとは違う」と思っていないだろうか。企業戦士の鎧をまとって、いま指導者層(50代後半から60代)となっている彼ら彼女らは、本当に永田・森と違うのだろうか。違わないからこそ謙虚になる必要があると考えたことがあるだろうか。

あさま山荘世代が現役指導者層であるいま、この「実録・連合赤軍」が公開された。国家権力に利用された“学生運動の敗北”がいまの世の中をいまだ覆っている。永田・森と似た心性を持つコイズミ・あべ路線(自己正当化と批判者パージによる権力誇示)の政治が、無気力な敗北世代のチルドレンを支配しようとしている。過去の検証を淡々としつつ、日本もイデオロギーと無関係に「権力」について再点検が必要な時代だと思う。

3時間10分食い入るように見つめた映画だった。この映画に限っては、あえて個々の役者について語ることは瑣末な感じもするのだが、遠山美枝子役の坂井真紀にはひとこと触れておきたい。坂井真紀が「総括要求」で自分を殴り岸部一徳のような顔に腫れ上がる。戦慄の走る場面だ。

最近はドラマ「エジソンの母」とかバラエティドラマの印象がある坂井真紀だけに、この壮絶な役はひとつのメルクマールになったのではないか。坂井真紀の親友でこの映画ではさらぎ徳二役を演じている佐野史郎が、坂井にオーディションを薦めたそうだ。さすが!

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2008.03.20

できるメデューサのルール

松丸友紀アナはいつからホーリーになったのか?昨夜のゴッドタンは第4回を迎えるヒドイ女サミットだったが、名前テロップが松丸・ホーリー・友紀になっていた。だからどうというわけでもないけど、ちょっとご報告まで(笑)。

さて本題は「できる人のルール」(秀和システム刊)だ。普段のオレは、この手の自己啓発系ハウツー本はまったく買わないのだが、今回は特別。だって加茂洋子タン著だから。

加茂洋子はゴッドタンと続きでやってる番組「メデューサの瞳」で活躍中の魔性のヘッドハンターだ。メデューサの瞳は来週最終回とか。その記念に加茂メデューサの著書を買ってみたというわけ。このタイミングじゃなきゃ買ってないと思う。

そこにはある意味松丸アナの格言にも似た(?)「できる人のルール」があとがきまで入れて30項目あげてある。1時間もあれば読み終えられる本だった。

「メデューサの瞳」での加茂メデューサは容姿端麗かつ鋭い洞察力で、人の職業等を見抜く。そういう眼を持った女社長が定義する「できる人」とはこういう人のことなんだ!へーっていう本だ。それが1時間でわかるなんてお得!

せっかくなのでこのルールを自分に当てはめて考えてみると、謝る時は「ごめんなさい」というルールはなかなか新鮮だった。女性らしいご意見。

確かに「すみません」「申し訳ございません」ってのは日常よく使うけど、ぶっちゃけ心底謝ってるわけじゃない。申し訳なさを持っていることは確かだが、ある種定型句のようなもの。

でも「ごめんなさい」はなかなか使ったことがない。「めんごでやんす」はよく言ってるがぜんぜん謝った感が薄いだろ(笑)。

逆にこれまで「ごめん」って言った瞬間を思い出してみると、オレそのとき号泣してるよ...。

心底悪かったと思ってたり、自分に出来なかった悔しさとか辛さとかがないまぜになって、さらに相手の状況への想像がどんどん広がって行って止まらなくなり号泣...。

感情がものすごく高まったときには無意識に「ごめん」って。使ってるよ。

加茂洋子タン!正しいっすよ。さすが。このルールを読めただけで良かったよ。

ってオレができる人だって主張したいわけじゃないけど(笑)。

オレは良いときと悪いとき、やる気のあるときとないときが極端にブレる“でき”の予測不可能な気分屋だから。三振かホームランかみたいな。使うほうは大変さ。って知らないけど(((^_^;)。

ただそれだけにちょっとしたことでも気分にレバレッジをかけられるので、出来るだけ「できる人のルール」のような日常を過ごしつつ、高揚感をいい方向に持っていく生活をしたいね。

うーむ、軽いハウツー本もたまにはいいなぁ。でも加茂洋子メデューサ本だったからに違いない。だってミーは気分屋だから!いつかオレもヘッドハントされてみたい。加茂メデューサ限定仕事抜きで(笑)。でも見抜かれそうで、ちょっと怖いぞ(>ヨワヨワなオレ...)。

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2008.03.18

ブラボー善男!

いやはや、傑作ドラマだったな。

「あしたの喜多善男」だ。

近来まれに見る出色のドラマだった!

最終回まで見ごたえ充分。

ネガティブ善男が消えてブラボー善男出現な気分だ。

そして諸手を挙げて賞賛したい。

こんなドラマがあったんだと思わせられた。

ブルーレイでBOX出して欲しいんですけど...。

語り明かしたいところだけど、あえて語らない。

とにかく見て欲しい。これがエンターテイメントだよ。

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日銀総裁はアシモがいいのでは?

とうとう日本金融史に残る珍事、総裁の椅子がしばらく空席になることが決まった。

空席にするくらいならアシモを座らせればいいのに、と思う。

どっちにしろ、ロボットなんでしょ?

日銀の意思決定では乱数表でシロクロ一票いれますよ。

いっそ総理大臣のイスも開放して、アイボでも置いとけ。

どっちにしろ、ポチなんだから!

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2008.03.16

壁を壊せた人々

昔々、バブルの残滓が残る時代、建材に関わる某大手企業の経営の皆様にIT系新規事業の企画プレゼンをしたことがある。業界では最大手だが、ITを使った新しい事業を模索されていた。我々の提案は事業領域を考慮したかなり現実性の高いものだと自負していたが、いま思うとそれだけに新規性が乏しかったかも知れないなと思う。結果は落選。世の中はバブル破裂後の新規事業ブームだった。ITバブルはその時代と重なる。

また、社会人になって間もない頃、あるイベントでDOWAの方とブースが隣同士になったことがあった。名刺交換した担当営業の女性は、女優の黒木瞳をボーイッシュにしたような方でかっこよかったのでよく覚えている(笑)。DOWAホールディングス(株)の吉川廣和会長・CEO著『壁を壊す』(ダイヤモンド社)を読み始めて最初に興味深く見たのはグラフ。そのイベント当時がどういう時期だったのかだった。

すると、ちょうど吉川氏が新素材事業本部長になられたころで、総資産も有利子負債もほぼピーク、経常利益は二番底から上昇過程にある頃だった。傍から見れば利益も出ているし上り調子の会社だ。しかしDOWAの合理化が始まるのは、吉川氏が専務になった頃、私がイベントでDOWAと隣り合ってから5年後だった。

逆に見れば私が黒木瞳と談笑していた時代は、DOWAが「桃太郎計画」と銘打った多角化路線で崩壊へ向かう道程のまさにピークだったということだ。確かに私の業界とはずいぶん違う業界の会社がDOWAだった。DOWAもまたバブル後に訪れた「夢よもう一度」の新規事業のワナにはまろうとしていた。

しかしこんな黒字が出ている時期に改革に着手できるというのはすごい。相当の反発があったに違いない。随所にそういう抵抗について触れられてはいるが、ここに書かれた程度の反発ではないはずだ。特に「鉄は国家なり」という背景で安定成長してきた企業の歴史があり、著者自身も人事課から社長になった異色の経歴。普通は構造改革なんて成功しないどころか、手をつけることすら出来ないと思う。つぶされる。

そんな吉川会長が「普通」でなかったのは、リアルに存在する壁から本当に壊してしまったところだ。「形あるものは壊れる」といったのはソソソクラテスかプラトンか忘れたけれど、形あるものを次々と壊してしまったのが吉川会長だ。現在の本社は全長150mの体育館のようなパーテーションのないオフィス(書籍の表紙写真)となっている。

本のタイトル「壁を壊す」とは、まさに会社にあるさまざまな壁を壊してきた構造改革の象徴で、これ以上のタイトルはない。組織の壁、上下の壁、社風・風土の壁、そして心の壁、組織にはさまざまな見えない壁がある。だが吉川会長はそれらの壁を取っ払うために、本物の壁から壊し始めた。そこが普通じゃなかったわけだ。

そして7年で経常利益10倍を達成する。この長期不況のご時世に。相場の神様山種が言うように不況のときに利益を上げる者が本物なんだろう。そこで得た利益は額面以上の価値がある。

●大企業病からの脱出

企業はよく「わが社の社風は」というが、私がその言葉を聞いて思いつく漢字は常に「遮風」だ(笑)。風なんてないだろ?遮られてるんだろ、と思う。大企業のなかなんてのは“遮風の嵐”(矛盾してるなぁ)で、さらにゴマスリ幹部が蓋をして無風状態に違いない、と思う。なんて佐高信チックなんだろう、オレ...。

業界大手の老舗企業というのはほとんど構造改革なんてできないだろう。過去の余力もあるし、ほとんどの社員は大きな船に乗っているだけで全体を見ることができないのではないだろうか。

セクショナリズムと社内ヒエラルキーだけが舵取りをする船の中しか知らないため、全体像を見てとばっちりをくうよりは保身に走る(実際には会社を蝕み保身にならないのだが)。

あるいはあえて誰にも全体が見えないよう部門ごとに煙幕が張り巡らされる。まさに壁ばかりの迷宮のような会社になるのかもしれない。そして数字だけが一人歩きし始める。

この本の改革前のDOWAはそんな印象だ。桃太郎計画という落下傘的多角化事業も、セクショナリズムの拡大でしかないように見える。大企業病に犯された会社の新規事業ほど難しいものはない。足元の会社そのものが崩壊しかけているなかでの多角化はいつか破綻する。論理的に破綻する。

また、不良債権(将来性のない部門)を切ることなく多角化していけば早晩行き詰る。そのことに社長自ら気付いた、いや社長になるまでの会社生活の中で、異端視されながらもそういう現場を見て改革の芽を育ててきた吉川氏の取組みが壁を壊せたのだろう。

選択と集中の3つの基準にも納得がいく。特に論理的な経営という面で、メーカーとしてのQCDDの観点が重要だ。クオリティ、コスト、デリバリー、ディベロプメント=品質、コスト、納期、開発力。これはプロジェクト管理手法の言葉で、製造業の4大要素だ(プロジェクトの場合は開発力を除いたQCDの3大要素とする場合もある)。競争力のパラメータといえる。

単なる数字を元にした印象批評になりがちな経営陣の判断をシステムに落とし込むうえでも重要なポイントがQCDDで、これを経営陣自らが共有しフローを描ける会社は強い。その時点ですでにセクショナリズムの壁をひとつ壊せている。

●壊した壁の向こう側

改革の中心人物が書いた著書であるため、すべてを鵜呑みにして読むのは危険だ。労働者の立場としては切られた部門や関連会社、切られた社員、その家族、いろいろな視点があるだろう。事実と著者の考え・評価とを分け、ときには批判的に考える必要もある。ただ、そこだけに囚われても良い読書とはいえない。

読者自身にフィードバックされるコアな部分を外さないで、その後は読者がどう実践に採り入れていくのかが重要だ。なにもお手本はひとつではない。吉川会長自身もジャック・ウェルチの著作などからも示唆を受けながら、自身の置かれている状況を自ら考え壁を壊した。

そしてDOWAの構造改革はまだまだ続く。未来は予測不可能だ。いま良くても数年後はわからない。ただいまやれることをやる。その「やれること」の本質をトップ自らが考え抜く姿勢とその表現方法が大切なのかもしれない。

大企業病のひとつに秘密主義がある。情報を隠すことで部門の利権を温存し、また失点をうやむやにしようとする病理だ。たとえばいま「やるべきこと」を秘密主義を前提にしていては成功しない。論理的に成功しない。この意識を経営者が持っているだけで、すべての改革、すべての美辞麗句が無意味になる。それらの原理原則こそが本質で、壁を壊すという行為はひとつの事象に過ぎない。

そういう経営者の意識改革について、この著書は示唆しない。私(吉川会長)にはそれがあった、あなたにはあるの?というだけの話だ。また当社(DOWA)では壁を壊せば秘密主義も壊れた、あなたのとこはどうかな?というだけでもある。

ここを自覚することが経営のキモだし、なんらかの組織に属す人々すべて、自分自身で問い直さなければならない。ただ、それは大変難しい。その克服のために「私、壁を壊してみました」というひとつの事例がこの著者なのだ。

そしてそういう壁を壊せた人が書いた本だからこそ、この本の情報も信頼性が高いようにも思えた。実践に裏打ちされた言葉、人事課出身なのに現場を知ろうとした人の言葉のすがすがしさを感じる。

『壁を壊す』-事業構造改革で目指したもの-吉川廣和講演録

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2008.03.15

日本のホワイトカラー生産性は最低!?

ちょうど3年前の3月に「ソニーの思い出」という記事を書いた。そしてまた3年後の今日、最近読んだソニー関連本を紹介したくなった。3年ごとに書きたくなるソニー。これもソニータイマーか(笑)。まったくの偶然ですが...。

『ソニーをダメにした「普通」という病』(ゴマブックス刊)は、3年前に紹介した「ソニーを踏み台にした男たち」とは異なる視点を持っている。著者は、ソニーの部品検査員=「倉庫番」(著者が入社直後に同期からからかわれた言葉)として社会人となり、現在はコンサルティング会社を経営。いわゆるソニーの花形部門ではなく、生産現場からのたたき上げ目線なのだ。

私は前にも書いたが、たたき上げが好きだ。そして私自身、クリエイティブな活動と同時に現場の業務フローを重視する。というより業務フローの最適化もクリエイティブな創造性を掻き立てる案件なのである。両方の視点があるからこそ創造性が枯渇しない。そこが私の強みといえば強みだ。職人肌な人種はみんな多かれ少なかれこういう視点を併せ持つ。だが併せ持っていない人々が牛耳っているのが現代ニッポンのサラリーマン社会なわけだ。

●日本のホワイトカラーは非生産的!?

日本のホワイトカラーの生産性って、先進7カ国中最下位だって知ってます?OECD30カ国中でも20位だとか。(財)社会経済生産性本部がレポートを出していて、この書籍執筆時点は2004年のデータですが、いま最新の2005年のデータでも最下位継続中でした。これで12年間連続最下位です。ちなみにブルーカラーの生産性はトップレベルなんです。ここがポイント!

2005年時点での日本の労働生産性(就業者1人あたりの付加価値)は、789万円(購買力平価換算)。これって、これ以上の年収の人は何も富を生み出してないってことなのかな?そう考えるとホワイトカラーエグゼンプションも一理あるかも(^_^;)。

あるいは、いま日本の膨大な借金は838兆円。赤ちゃんまで入れた国民一人あたりにすると656万円換算だとか。これって、労働人口だけで換算したら、みんな借金返済に消えちゃって、誰も富を生み出していないってことなのかな?

日本って、低い生産性のホワイトカラーに惰眠をむさぼられて、生産性の高いブルーカラーの皆さんのご尽力で借金返すだけの国家なのかな?そりゃ少子化も止まらんわな...。

ソニー関連本としては、こうしたホワイトカラーの生産性の低さを「人生の浪費」とまでいう著者の視点で貫かれているところがオリジナルな視点だ。そしてそんなホワイトカラーの「普通」という病を、「普通」からもっとも遠い企業と思われてきたソニーに当てはめること(また当てはめられる経歴の著者が書くこと)で、「普通」が蔓延するその他の日本企業(ソニーと比べ物にならないくらいに普通の会社)を振り返ることも出来る。

「普通」とは寄らば大樹の蔭的な感覚と保守化し特権意識を持ったホワイトカラーの感覚だ。この国は生産性の低い人間ほど偉そうな態度をとる。いわゆる「御本社様」的な感覚のサラリーマン・ヒエラルキー社会だ。むやみにサラリーマンばかり製造してホワイトカラー飽和状態。「いい大学を出ていい会社に入って」という常套句にまさに表れている。そりゃ生産性も落ちるわな。

●ブルーカラーが誇りを持てる社会へ

さらに生産性が高く日本を支えているブルーカラーの価値があまりに抑えられている。給与体系と労働価値とが逆相関を描いているかのようだ。それを「普通」だと考えてしまう。口ばっかりの政治家や官僚ばかりが連日テレビに出て適当な発言を繰り返す。企業トップもだんだんそういう人間ばかりになって来てはいないか?

ホワイトカラーはブルーカラーの働きやすい環境をいかに創出するかを考え仕組みを作り上げる知恵も持たなければならない。対等の立場で生産性を上げる必要がある。ソニーやホンダの創業者はそんな組み合わせのようにも見える。現場の井深・本田に業務の盛田・藤沢。その両輪が仕事の生産性を上げるのかもしれない。

優れた現場(テクノロジー)が優れた仕組み(システム)と出会ったとき、最大のパワーが生まれる。経営者のなかにはテクノロジーもシステムも知らない、ホワイトカラー・ヒエラルキー(社内政治)だけの政局屋もいたりする。まるで政局サイボーグ・コイズミのような。こうなるともう崩壊は目の前だ。いまの日本を観ればわかる。論理的に着実に崩壊へ向かう経営者のあり方だ。

経営者はまずテクノロジーを知り、そしてシステムを創造でき、最後にビジネスにつなげる才覚が不可欠。そういうマルチな才能が必要だからこそインセンティブも高く設定されているはずだ。そのどれもない人間が多い(育ってない)ことが、12年連続最下位の生産性につながっているのではないか。

さらに言えば、いま「カネを活かす」ことばかり考える経営者が増え「人を活かす」ことが出来ない。ソニー本に照らして言えば、投資家気取りの経営者が増えたといえる。役割分担を誤解して人よりカネを考える。人がカネを生むのに、カネしか見えない。順序が見えないということはシステムが理解できていないということだ。ホワイトカラーですらない経営者はいったい何色なのだ?会社色に染まった会社人間なのか。会社人間は会社をダメにするぞ...。獅子身中の虫っていうヤツさ。

●機能価値を使用価値へ

熱くなったのでクールダウン。この本にはもうひとつキーワードがある。それが「使用価値」だ。技術者は最新技術にほれる。そしてそれを商品に投影しようとする。「あれもできます。これもできます。」と、機能中心に考える。だが顧客は使ってナンボなのだ。「あれもこれもできるの?すごいね。でもボクはあんまり使わない機能だな」ってことになると本末転倒だ。

「機能価値」と「使用価値」は巷で言われる“使えない東大生”にもいえるかも。彼らは機能価値は高いんだけど使えないのだ(笑)。だが笑ってばかりいられない。ホワイトカラーにも当てはまるわけだから。ほとんどのサラリーマンは機能価値は高いのかもしれない。でも生産性が低い。どうしてなんだろう。

楽しようとするだろ。そもそも直接利益を生み出す現場を少しでも快適かつ効率的にすることで生産性を高め、間接的に利益に貢献するのがホワイトカラーの仕事だ。そこが楽してたんじゃ現場は不快なまま生産性も落ちる。いま現場の生産性が高いのは現場が自身の知恵で考えているからで、惰眠をむさぼっているホワイトカラーの能力じゃないわけだ。創造の苦労を楽しめないサラリーマン根性が蔓延してるってことか。それはどうして?

結局活かされてないってことなのか。本来働き方を創造するのが仕事なはずのホワイトカラーが働き方を見失っている。仕事にならないのも当然だ。これも学校教育にみられる北朝鮮化と脱北の関係と同じじゃないか。

経営者も機能価値ばかりを見て使用価値が見えない。そもそも自身が機能価値で生きてきたってことなのか。使用価値が見えていれば商品だってヒットするんだろうし。上に行くほど惰眠をむさぼる(笑)。出る杭は打たれる。保守化した特権意識と社内政治。社内で生産性低下競争ばかりをやってる(やらされてる)。現場無視のレポート合戦みたいな(笑)。夢色に染まってるけど絵の具がついてない。

ま、そういうボク自身、若い頃は“出す杭を打たせる”(>M男かよ!)をモットーにして生活してきた。でも、どっちかというと機能価値を重視していた。機能価値は作り手にとって楽しいことこの上ないのだ(^_^;)。

でも最近変わった。“打つ槌を楽しむ”ことにした(>ドMかよ!)。階級はポスターカラー(古井戸の名曲を聴こう)だ。どんな色も生み出せる。機能価値より使用価値重視にもシフトしてきている。言葉を換えれば作品や商品に対して客観性を持てるようになってきた。

「普通」を安全・安定だと思っている人々とは一線を画してこれからも生きていく。普通じゃつまらない。普通じゃつまらないと言っている普通の人になっていないかを常にチェックしていきたい(笑)。普通の対義語は異常ではない。独創だ!

このブログ「ひとくちメモ」は一種のバロメーターだ。確信犯的にフツーの人なこと書く場合以外、普通でなくありたい。でもそれは絶対評価であって、相対評価は読者にゆだねるしかない。今後ともよろしく(って締めでいいのかな?)。

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2008.03.12

日銀崖っプチサプライズ(笑)

各国の金融当局は、ときどき「サプライズ」を起こす。通常は市場予想を超える政策金利の発表による市場へのメッセージであり、サプライズによって市場は流動性を増す。上手なサプライズ、思いもよらないサプライズが劇的な効果をあげることもある。ビックリするからサプライズと受け取られるわけだ。

いまの日銀には打つ手がない。手詰まり感だけがあり、世界経済の蚊帳の外にある。サプライズなんて起きようがない。

...と思っていたら、まさかの日銀総裁後継人事で、空席の可能性が出てきた。

こんなショボイサプライズがあったとは!

ショボイサプライズをプチサプライズと呼んだりするが、今度のはプチはプチでも崖っプチだ。

与党の魂胆は見え見えで、財務省出身者による日銀総裁ポストへの道復活だ。伊吹文明自民党幹事長(大蔵省出身)が絶対譲らないと息巻いているのも、すべてはタスキ掛け人事復活のためでしかない。タスキ掛けップチサプライズだ。

個人がどうこうという次元でなく、財務と金融との分離による健全化からは完全に逆行する財務官僚出身者をしゃあしゃあと出してくる姿勢。旧態依然とした既得権益への固執にしか見えない人事案。日銀の独立性が建前からして崩れるのも見え見え。

スジが悪すぎる。というより露骨すぎる官僚擦り寄り人事ではないのか?タスキ掛けみたいな形式ありきの考え方してる時点でダメダメ。まぁそれも日銀総裁ポストという財務省の既得権益を安定的に守ることが本質のタスキ掛けだ。日本の金融の将来とか、そういう次元でのゴタゴタではまったくないところが、国民的には本当のサプライズだ!

とはいえ、カタチにこだわるなら、何をやっても誰がやっても特にサプライズのない日銀総裁のイス。誰でもいいのかもしれない。サラ金業者の社長にでもやらせてみたら?金利上げたくなるかもよ。

でも政府から金利を上げるなと言われればあげない人ってほうが、政府にとっては都合がいい。国債麻薬国家の日本は借金漬けでラリってる中毒患者だからな。それが国益なのか?

もしかすると財務省出身総裁でも政府に逆らって金利をあげたときこそが、本当のサプライズなのかもしれない。いい方向での裏切り大歓迎。そういうスタンスで人事を注目したい。

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2008.03.09

子どもの好奇心 大人の好奇心

Zen and the Art of Motorcycle Maintenance

ハヤカワ文庫で文庫化された「禅とオートバイ修理技術」(上下巻)を読み始めた。レコードやCDに“ジャケ買い”(ジャケットデザインに惹かれて即購入)というのがあるが、この文庫もほとんどジャケ買い。タイトルもすばらしい!米国で初版が出たのは1974年。すでに34年前だ。

最近の私は完全に読書モード(濫読モード)と化しており、いくつも並行していろんな本を読んでいる。生理的なサイクルの赴くままに、経済的に可能な限り買いあさり読みあさる。何度目かのそういう時期に入ったようだ。

昨日、NHKで日本の学力について議論する番組を流していた。途中で見るのをやめてしまったが、教育について語ると常に不毛になる。誰でも一家言持っていて、環境も状況も異なる人々が、あたかも「教育」というオブジェについて感想を漏らしているかのようになる。

だが人類は語らないことにはコミュニケーションを得られない。特に「教育」とは社会的行為であり、個人的行為の「学習」への介入を意味する。そこには教える立場と教えられる立場との断絶という問題が常につきまとう。教え教えられるコミュニケーションという謙った立場には教える側の譲歩が不可欠だ。

●子どもの好奇心

子どもには無限の好奇心がある。それは「無知」なるがゆえに知りたいという人類の本能のようなものだから、誰かに突き動かされなくとも持っている。1968年に開校したサドベリーバレースクールの基本はそこにあり、私はこの考え方に共感する。

子どもの好奇心は、しかし常にひとつの方向性を持っているわけではない。それは環境や状況に大きく影響される。北朝鮮で脱北しようとしている家族に生まれれば、脱北のノウハウを教育され、人生を脱北のノウハウが支配するかもしれない。北朝鮮を学校教育と置き換え可能だ。

その環境や状況に方向性を与え、共通の知識なり体験を与える装置が「学校」であり「学校教育」だ。そして自己と他者とのさまざまな関係性もそこで学んでいく(この関係性のバリエーションが現代の学校には大変少ないが)。

●大人の好奇心

一方で大人の好奇心は、すでに得た個々人の知識の体系というぬぐい難い前提がある。その体系に留まってその中で生きようとする人々もいれば、自己の体系の外に別の世界があることを受け入れ、さらに知ろうとする人もいる。また別の世界の存在は認めるがあえて知ろうとしない人もいる。

どちらにしろ、子どもの無限の好奇心とは異なり、いくつもの制限・制約を意識するとも無く架せられた大人の好奇心は不自由だ。ただ、その不自由さを認識する知恵もまた持っている。だから、そんな大人の好奇心に基づいて行動するよりも、自己の知識の体系に基づいて動くほうが楽であろう。「教育」という行為は、そんな楽なベクトルを持つ大人な行為のように思える。

●青年の好奇心

教育上も学習上も危うい時期が青年期だ。中途半端な知識と好奇心との狭間で揺れ動く「学習への本能」は、環境や状況によってどうにでも転ぶ危うさを持っている。そこでの(人間的・物質的・知的)出会いが一生を決める。

三つ児の魂百までというが、ほとんどはその魂が青年期に身につけてきた知的体系に支配されやすい。そしてその知的体系が魂の判断とスパイラルに影響し合い、知的体系の強化や新たな思考停止(強情な性格など)へと連なっていく。

この知的体系の連鎖が小さく閉じた大人になりやすい現代日本の学校教育。この閉じた知的体系を飛びぬけていくにふさわしい時期がおそらく青年期だ。だからこそ青年期には学校を出て、もっと広い知的体系を体験することも大切だ。

●ゆとり教育

ゆとり教育に意味があるとすれば、学校内の小さな知識の体系から個人の学びを解き放ち、別の知的体験への導線を提示してみせることだった。それが学校内だけのシステム変更でしかなかったため、その開放された時間の多くが知的体験へと向かうことなく、怠惰な浪費へと向かってしまった。

北朝鮮を学校教育と置き換えたとき、脱北だけが人生を支配しないように生きるには、脱北とセットで別の目標なり知的体験への導線が不可欠だ。それを自分で見つけられる好奇心の持ち主もいる。彼らはすでに学校を超えており、戻ることは無い。脱落と脱出とを混同しては対応を誤る。

そしてその導線の先の知的体験は、おそらくどんな些細なことでも個人にとっての学習効果や影響力は大きなものとなるのではないかと思う。座禅であろうと、オートバイ修理技術であろうと、哲学であろうと、芸術であろうと、恋の駆け引きであろうと、旅であろうと、釣りであろうと、登山であろうと、プラモデルであろうと、折り紙であろうと、洋裁であろうと、石拾いであろうと、掃除であろうと。

知的体験は知的であるがゆえに閉じている。これを突破できる人類は2通りいて精神異常者か宗教家だ。ほとんどの場合は、この閉じた知的空間ですら把握しきれない。知の体系の外に未知の物理体系や精神世界が広がっているかもしれないが、そこまで到達しようとするのは人類にとってリスクが高い。

私も青年期にはこの知的空間を突破しようとしていた。しかしその時間をもっと別の空間へ意識を振り向けることで有意義に使うことを覚えていった。それが閉じた知的空間に留まる=大人に近づくことだった。もしこの洗礼を受け入れなかったら、あっちの世界に行っていたかもしれないのだ。

●そして、学校

そのせめぎあいのなかで、どのような体験からでも知的興奮を得られるし、自分の中に「得ようとする意志」の存在を知る。ただそれは自分自身で望んで飛び込んでいった知的空間でなければ得られるものも少ない。学校教育で得られる人々は幸せな大衆だ。だが学校外への広がりをもっともっと意識すれば、学ぶ楽しさも広がる。

学校教育はこの広がりを認め、フィードバックさせる度量を持てばいい。学校教育の体系は「教える側」でしかなかった。それも相当偏った知識だ。外の知的世界との断絶と内なる強制が教員の質も低下させる。共通知識は社会のルールだけでいい。知的興奮を個人の学習へと返納することだ。

そして待てばいい。学校にはさまざまな体験を持った青年が戻って来たくなる環境だけあればいい。学校システムの特殊性はそのような「戻ってくる場所」として機能させてはどうか。ふるさとのようなものだ。

1980年代から私は、学校は「知のカタログ」でいいと常々言ってきたが、もはやカタログですらなくていい。知の市場、知の物々交換、肉体と言語とによるリアルなコミュニケーションの場、知のパブ、知のカフェ、知のリハーサル会場、知のコンビニ、あるいは肉体の開放、鉄棒、プール、逆立ちできる場所、大声を出せる場所、球技が出来る場所。そういう場の記憶を留めるための約束の地を目指してはどうか。

ね、教育談義って、不毛だよね(笑)。書いてるボクだけ楽しい。そういうものなのだ。でもこういうこと発散できる場所もどっかに必要。学校がそういう場所ならいいのにと思う。この文章はほとんど、シュルレアリスムにおける自動記述的に書けた(駆けた)。

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2008.03.08

北海道チョコポテト

明治製菓:北海道チョコポテト

明治製菓から「北海道チョコポテト」が発売されています!

ニーマン・マーカスロイズときて、ついにチョコポテチが大衆化されたわけですな。

コンビニヴァージョンを買って食べました。
でもコンビニ用はちっちゃくて少ない!

あっという間に食べ終わってしまった...。
味わう時間もなく(^_^;)。

明治製菓のサイトではテイスティクランチヴァージョンも紹介されていますねぇ。

たぶんクランチのほうがチョコポテチ本来のポテンシャルに近づけているような気がするな。
ぜひ食べてみたい。

甘さと塩とのバランスの絶妙感を調合するのは非常に難しい仕事だと思う。

チョコの甘さの研究は業界あげて進んで来ましたよね。ビター全盛時代も経験したし。

ポテチのほうもポテチ業界ではかなりの研究が進んでいるはず。

明治製菓はチョコの大手ブランドだから、チョコ寄りの味になってるかなぁという感じはしました。

まぁロイズもチョコのブランドですが、北海道を背負っているだけにポテチにも余念がない(笑)。

でも、あっという間に食べ終わったあと、なんとなく塩味フレーバーが口に残ったし、最初はこれくらいが一般ウケするのかも。

もしウケて、第二第三の北海道チョコポテチシリーズが出来るなら、ぜひチョコとポテトのバリエーションを増やして欲しい。

そして、口に運んでから飲み込んだあとの余韻までをさらに研究して欲しい!

それはシンセサイザーの音作りに似た作業だと思う。

アタック、ディケイ、サスティーン、リリース。

それらの流れのなかに豊かな味わいが生まれるとオレは思ってる!
チョコとポテトのコラボレイションから生まれる新しい味覚。

ポテチチョコとは豊かな文化・風土・ハーモニーを奏でる菓子なのです!

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2008.03.07

アホなこと聞くな、バカ

報道ステーションで、新銀行東京へ400億円突っ込もうとしている石原都知事の記者会見が流れた。

男の記者が「これで100%立て直せる保証があるのか?」と聞く声。

いかに石原がダメ男でも、こんな子どもみたいな質問があるか、バカ。

こんな記者しかおらんのか日本のマスコミには!カスやんけ。

ウソついたらハリセンボンのーますって言ってるようなもんやアホ。

巨悪がはびこるわけやな。記者なんかやめてしまえボケ。

記者も学校秀才ばっかりになってしまったってことなのか...。

100%保証のある生活しかしとらんのやないかマスコミ諸君?

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道路特定財源を正当化しよう!

道路特定財源。いまやコドモでも知っている言葉だが、その使い道はオトナにもわからない...。

道路以外に使っていたことが次々と明るみに出ている。

つい先日は、職員旅行に行っていたことが民主党の調べでわかったとか。

屁理屈検定2級レベル(笑)の官僚体質な人々は悔しい思いをされていることだろう。

そこでオレは考えた。

彼らには道路になっていただくのがいいのではないだろうか!

日本には人柱という、一般人にとって怖い怖い風習がある。

一般人には怖いけれど、自己正当化が最優先事項の彼らなら出来る!

次々とコンクリートに身を投げて高速道路になっていただいたらいい。

(そんな道路、誰も怖くて走れないっつーの!)

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2008.03.02

どうして?どうして「ひとくちメモ」なの?

ドラマ「エジソンの母」の花房賢人くんみたいなタイトルになってしまった。

いまどーしても紹介したい美味しい通販モノがある。

それを紹介しようとしたら、そこもアフィリエイト・プログラムを導入していた。

せっかくなので、そのアフィリエイトの審査に応募してみた。

すると応募フォームに自分のブログの紹介を書く欄があったのだ。

それも必須項目で。

はたと立ち止まってしまった。

この「ひとくちメモ」とはいったいなんの「ひとくちメモ」なのか!?

そもそも、ヒトコトギャグ的なネタ集として始めたわけだ。

最初のサブタイトルは「ふたくち禁止。」だった(笑)。

そのうち長文化し、そのなかにネタをちりばめる方式に変化してきた。

ふたくち禁止だがみくち以上はOKという石破センセーもびっくりな論理で(笑)。

言葉の断片じゃなく長文の中で面白さを見つけていく。

きっと活字離れの日本の教育にも役立っているに違いないぞ!

無理やり読ませたって活字離れは進む一方だ。

コンテンツが面白くなきゃ活字離れは防げないのだ。

だからニッチな分野への好奇心をブログに展開しているのだ。

ブログはニッチな情報がピンポイントでつながるパーソナルメディア。

マスでもローカルでもない。かつてないメディアだ。

かつて「出版」が目指した最もピュアな展開がいまここにあるのだ。

というわけで「ひとくちメモ」がどんなブログかを説明する一文を考えた。

世相や旬なネタをオリジナルな視点でウォッチしレポートし続けているブログ草創期からの老舗個人ブログ

どうだろう。

自分でもそうだったのかって思いだ(笑)。

老舗って言ってみた(^_^;)。

どう転んでも時間は逆転しない強みだろ。

というわけで「ひとくちメモ」とはそういうブログなんだぞ。

へーーー...

追記:アフィリエイトの審査員がここへ来て、最初に見る記事が「あげげろ醜し」じゃあまりに品がないからこれを書いているわけでは決してないっ!

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あげげろ醜し

卒業式であおげば尊しを歌ったら、次は進学先や就職先での新人歓迎コンパの様子を情感高らかに歌ってみましょう。

あげーげろー みにーくしー
うたーげのーあとー

トイーレのー ゆかーにもー
はねーた ひーまつー

おもーえばー のみーすぎー
このーすうーじかーん

せなーかをー さすーられー
げろーげろーげろー

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2008.03.01

石破センセーの現代日本語講座

みなさーん、石破茂センセーの現代日本語講座の時間ですよー!

「現在のところ」って言い回し、知ってる人手をあげてー!

ひぃ、ふぅ、みぃ...たーくさんいるねー。

じゃね、その意味知ってる人はどのくらいいるのかなー?

いかん、いかん。この口語体じゃ膨大な時間がかかりそうだから、普通に書くことにしよう。

25日の予算委員会で石破茂防衛大臣は「現在のところ乗組員に接触していない」と言いながら、事故当日にヘリコプターで航海長を呼び出し話をしていたことが判明。それを民主党の前原副代表に詰め寄られて「現在のところと言った。乗組員から聞き取ることは問題だと考えていない。」と答えた(新聞記事はこちら)。

この「現在のところ」って、これまでのボクの日本語力では「事故発生時点からいま現在までのところ」という意味以外は考えられない。前原議員もそういう認識だった。だが石破防衛大臣の日本語の意味はまったく異なり、おそらく「現在、いまこのときに限り」という意味らしいのだ。

つまり「現在のところ乗組員と話していない」という日本語の意味は「過去はどうあれ、いま現在に限れば乗組員と話していない」ということなのかな?そりゃいまそのときには大臣は予算委員会で答弁をしている真っ最中だったわけだから、乗組員と話はしていないわな。

たぶん普通の日本語では石破大臣のこういう言動のことを「屁理屈」っていうんだよね。こういう日本語の曲解というか破壊は、コイズミ総理の時代から特に顕著になってきた。それは責任回避とセットになり、国会に定着した。

国会では現在のところあさっての方向を向いてしゃべるのがブームなのだ!

これが通るなら答弁はすべて無意味だ。それよりも日本語力の弱い人が防衛大臣をやっていることの恐怖。まぁ、日本の(日本語の正しい意味で)宗主国たるアメリカでは英語のあやしいブッシュが大統領なんだから、現在のところ仕方がないか。

日本語検定ってのがあるけれど、政府主導で「屁理屈検定」ってのを創設したらどうだろう。1級は国会議員レベルみたいな(笑)。

権力を象徴するひとつのパワーは「強大な暴力の所有」だ。
それを握る面々を列挙してみると...

防衛大臣:石破“日本語破壊男”茂 :お国を守って民を守らず
国交大臣:冬柴“官僚原稿棒読男”鐵三 :官僚のお犬様
法務大臣:鳩山“暴言失言貴族”邦夫 :友達の友達がテロリスト
総理大臣:福田“地盤看板鞄男”康夫 :お家を守って民を守らず

こんな感じだ。そもそも「防衛大臣」って日本語の意味も曲解してたりするのかも。彼らは日本国土は守るけど日本国民は知らないよって思ってるかも。まぁその国土も破壊が進んでいるわけだけど。利権と既得権益がすべてに優先するってことなんだろう。

こんな人々だから日本軍による集団自決への関与はなかったなんて平気で言える国家なんだろうな。自衛隊がウソにウソを重ねるのを見ていると、かつての日本軍だって似たような(あるいはそれ以上の)風土を持っていたのでは、と思えてくる。


はーい、きょうはここまでー!

石破センセーにごあいさつしましょーねー。

センセー、さようなら。みなさん、さようなら。

はい、よく出来ましたー!よい子はマネしないでねー

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