出版不況か…
友人で某出版社役員S氏のブログで知ったのだが、あの草思社が民事再生法の適用を本日申請した。
草思社といえば「間違いだらけのクルマ選び」が有名。ボクも昔はこの本を参考にしていた。定期的に出版でき、しかもメガヒット本でもあり、固定客もいたであろう。このシリーズの刊行が、2006年の最終版を持って終了したのは痛かったように思う。
個人的には「カッコウはコンピュータに卵を産む」(クリフォード・ストール著)が印象深い。当時ハッカーを追跡していく過程をハラハラしながら一気に読み終えた。世界的ベストセラーでもあったから、覚えている方も多いだろう。
書籍は生き物であり永遠ではない。また出版業は水モノでありギャンブルに近い。
前にも書いたが、毎年30万部クラスのヒット本を2,3点ずつ出し続けられるのは超優秀な出版社であり、メガヒット商品を持っていると、どうしてもそれ頼みの経営になってしまう。
出版に限らないが、メガヒットを持つことは諸刃の剣だ。特に情報発信業であるメディア企業にとって、メガヒット商品中心に会社が動き始めると思考が硬直化してしまい、メディアの仕事を忘れてしまうように思う。発想が狭まればジリ貧だ。一度枯渇した沼には、なかなか新鮮な湧き水は湧かない。
昔は本の雑誌社から別冊「活字中毒者読本」なんて本も売り出されてたし、ボクも読んでいた。マンガも文字を追って読んでいた。
活字を追うには想像力が不可欠であり、逆に画像をイメージできるような活字媒体に感情移入できた。現代はネットやモバイル上に文字はあふれているが、それらはもはや体系を持たない意味の断片でしかない。「活字」ではないように思う。文字もレイアウトも美しくないし。それが当たり前になる次世代とはきっと感覚の断絶が訪れるだろう。
そんなギャンブルのような出版業をあえて続ける意味はどこにあるのだろう。「情報を発信したい」という欲求はインターネットを使えばかなり安く実現可能だ。モバイル全盛の現在パソコンすらいらない。ヒット小説もぞくぞく誕生している。
わざわざ原稿をあえて紙に印刷してまたコストをかけて流通させて、そのうえ売れなければ返品され断裁されてこの世から消えていくこの書籍という物体は、書店で常にリスクを背負ってコンテストを受けているようなものだ。デッド・オア・アライブな生き物なのだ。
だがそんなリスキーな生き物であるからこそ、紙に執着する人々がまだ多いのかもしれない。生き物だから出会えなければ二度と出会えないし、買わなければ二度と手に入らない。あなたが購入して読破した書物は、あなたという審査員に選ばれた超ラッキーな入賞者なのだ。はかない偶然の産物がいま手元にある書籍たちなのだ。
この伝統的美人コンテストに対して通信はしょせんヴァーチャルなもの。読み捨てられるテレゴング投票みたいなものだ。お気楽だが確かなモノがない。確かなモノを欲しがる、確かな何かがないと不安になる。それは昭和な感覚だけど、所有する動物=人類の本能でもある。
人類はいま物質(リアル)から精神(ヴァーチャル)への価値の大移動をはじめている。精神が物質を超える日が来るだろうか?「確かなものなんてなくていいんだ!それでもボク、大丈夫!」というコンセンサスが出来上がるだろうか?その葛藤を出版は常に抱えている。
確かな物体を所有したいという欲求に耐えうる書籍であれば売れるはず。ただしメガヒットは狙わない。届けたい人が作り届くべき人に届く。そういうシアワセな関係こそが出版の魅力ではないか。だから“産業”を目指さない。伝統工芸のような業界になっていくのではないかと思う。いつの日か「書籍という物体」がレトロな雰囲気をかもし出す。
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