google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg 石井十次没後94周年: ひとくちメモ

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2008/01/30

石井十次没後94周年

今日1月30日は石井十次が永眠した日だ。1914年のことだから94年前になる。ここ数日、たまたま岡山孤児院物語を読んでいて今朝読み終わったのだが、それが1月30日だったことに何か縁を感じて書き留めておきたいと思った。

石井十次については、2005年に「石井のおとうさんありがとう」を紹介した。この映画もDVD化された。石井十次について広く知られることは有益だと思う。

社会福祉の父とよばれる石井十次だが、48年という短い生涯のなかで、人間にはこれほどの仕事ができるものなのかと思う。22歳のとき、お遍路の女性から男児(前原定一)を預かったことに始まり、最大で1200人もの孤児を育てた。

あまりに石井十次の強烈なリーダーシップあるいはカリスマ性によって運営されていたために、ほぼ一代限りの大偉業だった。また、信仰心(キリスト教)に基づく蓄財の否定によって、財務状況は常に火の車。大原孫三郎の資本への依存度も高かった。

大原孫三郎は、倉敷紡績ほかいくつもの事業を展開していた大資産家でありながら、労働者や教育への投資・寄付を惜しまない偉大なる散財家でもあった。私のもっとも尊敬する財界人だ。風貌はイチローに似てる(^-^)。

最初は大原孫三郎を中心に石井十次をイメージしていたので、とにかく金を借りる天才という感じを持っていたが、信念に従って孤児院を運営していく様は、やはり大事業家の素質はあったと思う。大原孫三郎も石井十次の嗅覚や才覚、そしてその篤い信仰心に影響を受けていたのかもしれない。

最終的に岡山孤児院は岡山県から宮崎県の茶臼原へと移住していくのだが、あのあたりは武者小路実篤による日向新しき村もあるのではないか?自立して生きようとする人間、吾唯足知という生き方、大地とともに生きる共同体、そういう実験精神あふれる場所にも思える。

宮崎県は今が旬だし、十次の足跡を辿ってみたくなった。と、書いているうちに1月30日もあと5分となった。今日アップしなきゃ意味ないので、とりとめもなく終わる。石井十次と大原孫三郎、乞食の親分と大実業家の親分の友情といわれたこの関係、それだけでもワクワクするような関係じゃないだろうか。興味は尽きない。

1914年、大正3年のことだ。いまよりも志の高い人々が確かにいた。

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コメント

お久しぶりです。

今年の正月に倉敷に行きましたが
大原美術館を作った人と、その関わりのある石井さん
そういうお話があったんですか。美術館入っておけば良かったです。
クラボウ跡には氷で作った2008年ねずみのオブジェがありました。
タイガーマスク、もしくはモデルになった
メキシコの覆面レスラーを彷彿とさせるお話ですね。

で、昨日ゴッドタンのマジ歌選手権4も見ました。
松丸アナもいまだに角田さんの名前があやふやって、また天然伝説が(笑)
歌舞伎タンは反則です。

投稿: せる | 2008/01/31 20:48

せるさん、こんちは。

大原美術館は奥が深いですよー。画家児嶋虎次郎(石井十次の娘婿)が集めた絵画だけあって質が高いのですが、児嶋虎次郎自身の絵も遜色ないすばらしい絵です。

>メキシコの覆面レスラーを彷彿とさせるお話ですね。

暴風神父フライ・トルメンタかな?フライ・トルメンタが来日したときには友人作曲・ポップン編曲の孤児院の歌をリング退場時に会場で流してもらったことあるんですよ。ダチョ・リブレならぬナチョ・リブレのモデルです。

松丸アナは確か角田さんが一番好きとブログで言ってなかったかな?それがそんなテイタラク(笑)。劇団ひとりにはフルアルバム作って欲しいですね。全部同じコードだから難しいけど...。

投稿: ポップンポール | 2008/02/01 07:46

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