二人の稀有な“憎まれ役”
元たたき上げの“抵抗勢力”国会議員野中広務氏と、元たたき上げの“生涯一捕手”野村克也監督がタッグを組んで出版した『憎まれ役』(文藝春秋刊)を読んだ。ボクは自民党もプロ野球もほとんど興味がないのだが、このお二人には昔から注目していたから。
いわゆるたたき上げが好きだ。エリートコースでない人生、キャリアに乗らない人生、そういう人生のスタートをきる生き方は望んで出来るものでもないし、望む人も少ないだろう。
しかし、どんな生き方をしようと時は刻々と過ぎ、出会う人々や事象も限られる。この時代に生きて、どんな生き方をし、そして後進の指導をする立場となったとき何を伝えられるか。これは後戻りの出来ない一度きりの勝負だ。
このお二人は「嫌いだけど信用できる」という頑固オヤジタイプで、まさに憎まれ役だ。
正義の味方が本当の正義か正義の単なる味方か、という疑問を抱いた時期があったけれど、憎まれ役は単なる憎悪の対象ではなく「役」であり、その役を演じる土台には情と学習、そして経験がある。そこから導き出されたいくつかの確信・信条には説得力がある。
二人の前には政局サイボーグコイズミと、ミスタージャイアンツ長嶋監督とがいつも立ちふさがっていた。このある種天才的な嗅覚だけで生きてきた太陽に照らされながら、自らの情と論理とを元に日陰に、しかし堂々と、あるいは凛として立つ姿。そちらに惹かれるのは、ボク自身も真昼間の太陽が苦手な天邪鬼だからかもしれない。
この本のオビにある7つの論、危機論、リーダー論、機会均等論、戦略論、組織論、人材論、人生論は、実績に裏打ちされたものだ。説教くさくもない。淡々と自分語りを聞くかのように読み進んだ。対談でもない。往復書簡といったほうが近いと思う。お二人の生の声でオーディオブックにして欲しいとも思った。
太陽にも実績はあるが論理がない。輝きに論理は不要なのかもしれない。特にコマーシャリズム全盛の世の中において。太陽から見た世界には、ある意味「オレ様」しかいない。しかしその「オレ様」の輝きに、輝けない人々が歓喜し酔いしれることもある。
だが、誰もがその太陽の輝きだけに酔いしれたとき、集団は思考停止状態に陥り、感情だけに突き動かされる。下手すると集団ヒステリーへ発展してしまう。そんな状態で小選挙区を戦えば、明らかに国はバランスを失うだろう。国家運営は短期決戦ではないのだ。
情は論理を伴って初めて理性となる。ときには輝きをさえぎり、心静かに考える時間が必要だ。日陰からのたたき上げには、その時間がある。また、考えなければ勝ち上がれない。
ボクも含めた多くの人にとって、真に聞くべき言葉は太陽からではなく日陰から発せられる。好きか嫌いかではなく、理性によって受け止めることが出来れば、自分自身の思考回路もまた回りだすことだろう。
| 固定リンク | 0
コメント