アニメが漫画映画だった頃のおはなし
2004年3月に享年82歳で亡くなられたうしおそうじ(鷺巣富雄)さんの著書「手塚治虫とボク」が今年出版されました。うしおさんは、東宝動画部から児童漫画家に転じ人気を博し、その後アニメやテレビまんがに進出、日本で最初のカラー特撮テレビ番組「マグマ大使」を世に送り出した人です。ボクら世代ではうしおさんのピープロ制作「怪傑ライオン丸」とか大好きでした!
うしおそうじさんと手塚治虫さんとは、1952年(昭和27年)以来の付き合い、それも単なる仕事仲間・ライバルという以上の深い友情で結ばれていたようです。漫画家時代には二人で自主カンヅメ(旅館などに篭ってマンガを描くこと)をやったりして。
当時この深いつながりは業界でもあまり知られておらず、マグマ大使が虫プロ(手塚作品を一手に制作する)以外で、それもアニメでなく実写で映像化されることは不可能だと思われていたそうです。その誕生秘話へとつながっていく手塚治虫さんとうしおそうじさんの友情物語は、当時の社会状況をきっちり踏まえて書かれており、大変面白いです。
この著書はうしおそうじさんが亡くなったのち原稿だけが残っており、それを長谷川裕さんが再構成されて出版にこぎつけたそうです。第三者の眼で再構成されていることでさらに読みやすく、また編集過程で時代考証や事実確認をされています。
「あとがきにかえて」のなかで長谷川さんはこう書かれていました。「本書には等身大の人間手塚治虫が記されている。」
まさにその通り。もっともアクティブで時代の寵児だったころの手塚治虫を友人として回想する、うしおそうじさんだからこそ書けたおはなしばかりでした。
またこの著書にはもうひとつ特筆すべき点があります。それは手塚以前、鉄腕アトム以前の漫画映画を作った人々についてかなり詳細に書かれていることです。
当時、共産主義の嵐が吹き荒れるなかで東宝争議などが起き、それもあって東宝をやめて漫画家うしおそうじが誕生するわけですが、戦前・戦後の動乱のなかで、漫画映画がどんな人々の手でどのように作られ、それが手塚治虫のアニメまでどうつながってきたかの貴重な記録になっています。
うしおさん自身も海軍航空隊の教材として使用された「水平爆撃理論シリーズ」を担当されていました。その頃からの仕事仲間にはウルトラマンの生みの親、円谷英二さんがいらっしゃいます。このとき既に日本の特撮技術の芽が生まれていたわけです!
日本のアニメ業界というと、むかしむかしあるところに、アニメを作りたくてしょうがなかった手塚治虫という男がいて、その想いゆえあまりにも安く受注したばっかりに、その後のアニメーター残酷物語が始まった...という定説があります。
それも確かに事実なんですけれど、手塚以前からアニメ作りというのがいかに難事業だったかが、この本を読むとわかります。第十章「漫画映画に殉じた人びと」に出てくるアニメーターの祖先みたいな人々は大変興味深いです。その頃のアニメをまとめてDVD-BOX化して欲しいよ。海軍の教材もさー。
というわけで「手塚治虫とボク」は回想録として以上の価値があるので、うしおファンや手塚ファンだけでなく、日本のアニメの歴史に興味がある諸氏には大変貴重かつ有意義な一冊になってると思います。
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