あしたのジョーの、子どものボクら
ドラマ「ハゲタカ」最終回を観たテンションのまま、ETV「あしたのジョーの、あの時代」を観た。なんだか貴重な、そして胸を打つ番組だったなぁ。団塊の世代の心とリンクしてあったマンガだということが時系列によくわかった。
昨年秋に私的あしたのジョーツアーをやってひとくちメモに書いた。拓郎&かぐや姫の31年ぶりつま恋コンサートにも参上した。ボク自身は団塊の世代の子ども世代といえる(数年の差はあるが)。でも不思議と団塊の世代の文化のなかで育ってきた。
山口県だったから情報が遅れていたわけではない(笑)。全共闘世代のパッションへの憧れはフォークソングにはまっていくなかで自然な感情だった。音楽に導かれてさまざまな価値観や世界を知り、またその世界が新しい音楽や世界を教えてくれる。そんな生活を送りながら、1980年代以降を過ごしてきた。
ボクにとってマンガは少年時代の最優先事項ではあったが、それは中学時代までのことで、そこから先はマンガよりも文学や音楽やポストモダンやジャーナリズムにのめりこんでいった。だから「あしたのジョー」もマンガと自分との関係性ではなく、その後の様々な知識とともにボクのなかに入ってきた文化のような気がする。
番組のなかでの猪瀬直樹の発言だったと思うが、「(矢吹ジョーは)非日常を一直線に生きた」という言葉に妙に納得し共感してしまった。ボクは日常はいらないと常々書いてるけれど、どこかに日常でない世界を生きることへの憧れを持っている。それを実践しようとして日常を生きてる。
団塊の世代の多くは高度成長の渦のなかで、おそらく日々変化していく日常を生きていた。学生運動も企業戦士も、挫折と成長の乱高下のなか、心の支えに「あしたのジョー」を置いて、ポストあしたのジョーの世界を生きてきたのだろう。まるで力石なきあとの矢吹ジョーのように。
あしたのジョーなき“あした”がどうなったかを、企業戦士の定年退職とともに振り返っておく意味はあるかもしれない。彼らが勝ち逃げ世代に見える現代。しかし彼らは決して勝ってばかりはいなかったし、まだまだ何十年と生きるのだ。人生の収支はまだわからない。
企業戦士が論理を置いてきた世代でもあると思う。論理的でなくても生活できたからかもしれない。だがこれからは攻めるも守るも理論と論理とが必須だと思う。この部分が彼らの忘れ物であり、その宿題が社会のひずみとともにクローズアップされるだろう。もっとも松下政経塾的な優等生になるとダメだが(笑)。
あと、どーでもいいが昔の残間理江子はかわいいな。女性が25歳定年制というのもすごい時代だ。そんな時代からまだ30年しか経っていないんだから、柳沢発言も仕方がないのか?私事だが、うちの母親はそんな時代からダブルインカムで2輪の限定解除免許を持っていたんだからすごい。いつの時代も手に職を持つことは大切なんだなと、そんな気分にもなった。
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