那覇どこどこ?
映画「涙そうそう」を観た。どーでもいいけど、映画館の窓口で「なみだそうそう」って言った人が日本中で何人いるかなと思った。「なだそうそう」はそのくらいに浸透している森山良子さんの歌詞が原案となった映画。
キャスティングは申し分なし!主演のブッキー(妻夫木聡)とマッサミー(長澤まさみ)は、今はなき永遠の気まぐれ天使マシュー南つながりだし(オレだけ?)。テーマは異父兄妹の絆。先日見た「幸福のスイッチ」は父娘の和解がテーマだったけど、最近こういう日常の幸せを描いてる日本映画がとてもいい。
「涙そうそう」は様々な別れも重要な要素になっている。主演2人の笑顔と涙とが随所に現れ、70年代の日本映画へのオマージュ的な感覚にとらわれた。かぐや姫の「妹」「赤ちょうちん」「神田川」的な四畳半フォークな感覚。それはとっても懐かしく(ってリアルタイムじゃなかったけど)、昭和の匂いのするいい映画だった。
それなのに、なぜか違和感がある。キャスティング、音楽、画、プロット、それぞれには大変よかったのだが、どうしても心の底から感動しない。なぜなんだろう。なぜなんだろうという気持ちを持ったまま映画館を出て、歩きながらずっと考えていた。
まず思いついたのは、カオル(長澤まさみ)の本当の父親(中村達也)が、内田裕也とか近藤等則風にしゃべるロッカー(しかもトランペッター)だったからじゃないかと。しかも妻(小泉今日子)を捨てておきながら「死んだんだってな。アイツはいい女だった」みたいな、教科書どおりの不良ミュージシャンぶり。アホかってシラけた。
だがそんな部分だけじゃなく、そこには沖縄がなかったからじゃないかと気付いた。いや、舞台は確かに沖縄で、離島から那覇へやってきてけなげに生きる兄妹なのだが、沖縄でなくても成立したドラマではなかったかとふと思ったのだ。
沖縄の映画というと「ホテル・ハイビスカス」を思い出す。この映画にも、かつての日本映画の懐かしさを強烈に感じた。だがもう一方で、きっちりと沖縄そのものを描いていた。沖縄である必然性があったわけだ。
比較することが正しいのかどうかはわからない。しかしおそらく「涙そうそう」には沖縄である必然性が希薄だったために、沖縄の映画だと意識して観に行った私には違和感が残ったんじゃないかと思う。記号としてのオキナワじゃなく、たとえば「ホテル・ハイビスカス」の沖縄、山之口貘の沖縄、そういった沖縄そのものがもっと見えて来て欲しかった。
もっとも、昭和の日本映画に感じた清く貧しく美しくといった気分が、オキナワに色濃く残っているという意味では、テーマと合致した場所だったとは思う。「涙そうそう」はBEGINの曲でもあるわけだし。
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