個人の心 個人の自由
言いも言ったりだよな。一貫性ということなら、確かに政局サイボーグ・コイズミの一貫性はここに一番現れていた。個人の心の問題か。個人の自由か。それを言うなら郵政民営化造反議員の発言の自由はどうなるのか?
政治的な優先順位の極端に低かった郵政民営化で他の政治家から自由を奪っておいて、国益の危機ともいえる靖国問題では個人の自由を持ち出すチグハグさ。コイズミにとっては逆なんだろう。
神社の参拝なんてたいした話じゃない。たしかにそうだ。個人の問題として考えればな。だがそれを個人の問題として考えるセンスが問題なのだ。最高権力者が個人の自由なんて話を持ち出せば、これはもう何でもありの世界だ。権力者は何でも出来ると言っているに過ぎない。権力者にも個人の自由はあるだろう。しかし権力者はその権力そのものによって制限される自由があって然るべきだ。それを自覚できない権力者がしばしば道を誤らせる。
コイズミははぐらかしの天才だった。それは認める。しかしそんなはぐらかし体質がいま日本を覆い始めている。プチ権力連中にもはぐらかし、ごまかし、責任転嫁、そういったものが蔓延している。無責任ピラミッド構造だ。昔からあったかもしれない。だが、そんな風潮が大手を振ってまかり通るのはコイズミ以来だ。加速させた責任はある。ただ本人はごまかしと思っていない。
権力者は自身の自由を加速させ、教育を骨抜きにし、扱いやすい民を増産する。そのレールをしっかり作り上げたのもコイズミの“成果”だと思う。そして愛国の安倍っちにバトンタッチだ。安倍っちにはパフォーマンスやら小手先のユーモアがなく、また優秀なブレインもいないだけにボロも出やすいだろう。それがせめてもの救いかもしれない。歴史はしばしば誤るが修正もされると信じたい。その渦に飲み込まれて死んでいく民も多いが。死んでも靖国じゃ会えない。
最近、政治家の記者会見で傍若無人な発言が相次ぐ。その会見の音声を大きくして聞いていると、記者席からの笑い声が聞こえる。別に政治家がジョークを飛ばしているわけではない。あきれての笑いか皮肉の笑いか賛同の笑いかは知らない。だが、まったく危機感のないマスコミには何も期待できないということだ。
靖国神社参拝に関しては、日本の民が近隣諸国以上に怒ってもいいはずだと思う。去年もコイズミ特攻隊で書いたが、今年も書いておきたい。
戦犯(これは東京裁判がどうだとか言う前に日本人自身が受けた仕打ちや裏切りに対する戦犯=指導者・権力者のことだ)が合祀されている。死んだらみな神様というヤツがいるが、それが心の問題への回答なら神様なんてクソくらえだ。
犯罪被害者が加害者と同じ墓に入っている。
そこへ遺族はお参りにいかなければならない。
死んでなお、
指導者に殺されてなお、
屈辱を受け続けているのだ。
これを厚顔無恥なコイズミは個人の自由、心の問題で一蹴しようとする。決定的に心が欠けている。ただそれは5年前からわかっていたことではある。それを許してきたのもまた日本の民だった。
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