google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg セックスと嘘とビデオテープ: ひとくちメモ

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2006/07/08

セックスと嘘とビデオテープ

1989年、スティーブン・ソダーバーグ初監督作品。実は昨日初めて見た。公開当時観ようと思いながら結局見れず、DVDも昨年買っていたけれど観るタイミングがなかった。ホームシアター環境になったいま、やっと観たいというモチベーションが上がっていたのは確かだ。

昨日はひさしぶりにカレッタ汐留へ行き、カリフォルニア・キュイジーヌのThe Seasonerでディナー。そこでこれまた超ひさしぶりに映画や欧州貧乏旅行の話なんかをして、なんとなく忘れかけていた感覚を思い出した。先週は心理的に不安定になることが多く、感情の起伏の激しい一週間を送ったような気がする。相場に入っているときは常に冷静なので、それ以外の時間を感情的なはけ口とするよう脳が身体をコントロールしている感じだ。

そういった、ちょっとした右脳への刺激、静かな興奮、アンビエント、たぶんそんな気分ともっとも合致しそうに思えたのが「セックスと嘘とビデオテープ」だったのだと思う。そして、その欲求は完全に満たされた。もっともソダーバーグらしい作品かもしれない。

低予算というのは天才の想像力をかきたてるのか。この映画もかなりの低予算映画だと思うが、構成力と言葉とテーマとによって映画はいかようにも作れる。淡々といびつな感覚(だがすぐ隣に潜んでいるような感覚)を男女4人の関係性を使ってあぶりだしていく。

妻の妹と不倫する夫、その夫婦のもとに現れた夫の学生時代の友人。この友人が8mmビデオテープで録画し続けている女性へのプライベート・インタビュー。このインタビューが通常表に出てこない人間の性(さが)を映し出す。“自分語り”の装置としてのビデオテープという着想は、この映画の後に亜流がたくさん作られたように思う。

セックスも嘘もビデオテープも、いまのボクにはあまり関心がない。だが、この三題噺で作られたこの映画がいまの精神状態に響いてきたのはなぜだろう。終盤に初めて男に突きつけられたビデオカメラは、ある種の感覚を持った観客自身にも向けられている。それはソダーバーグが「ソラリス」をリメイクした感覚にたぶん通じている。

オレはソダーバーグの映画では「ソラリス」だけを映画館で観ている。SF古典のリメイクで予算もあったと思われるが、いま思い返すと「ソラリス」は「セックスと嘘とビデオテープ」のリメイクでもあったのではないかと思えた。手塚治虫が「火の鳥」で人間の性(さが)を時空を越えて描いてきたように、ソダーバーグもまた、その感覚を描ける数少ない監督だと思った。

オーシャンズ11」(豪華キャスト)とか「トラフィック」(渋くてかっこいい!)とか「エリン・ブロコビッチ」(観たくてたまらないがまだタイミング待ち)が有名だが、「セックスと嘘とビデオテープ」で初めて見せたこの感覚こそ、原点でありライフワークではないかと思う。こんな映画、最近観れていないなとも思った。それは作品がないのかオレが怠惰なのか...。おそらく両方だろう。

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