私、時代屋の観方です。
そもそも子どもにわかっていたのかこの渋さが。子どもの頃テレビで見た「時代屋の女房」って映画は、「私、プロレスの味方です」の村松友視原作だから見た。新日本プロレスの理屈っぽさが好きだったから。だけど夏目雅子の美しさとともに、なんとも暖かい時代屋の雰囲気を覚えていた。
戦国自衛隊に引き続き「時代屋の女房」を持ってきた日テレのドラマ・コンプレックス。いいじゃんいいじゃん、よかったっすよ。子どもにはわからない大人の日常生活のあれこれと、非日常としての大塚寧々の登場。この大人のファンタジーは、いま見るとずいぶん印象が違う。「SF」とつかないファンタジーは最近なかなか見れない。
わけもわからず見ていた子どもの頃は、なんで突然女がやってきて居ついてしまうのかという疑問がずっとあったが、大人になって見た今回も結局わからなかった(笑)。野良猫のように居ついた女の過去に始まって、断片的なエピソードは出てくるが、あらゆるエピソードが途中から始まり中途半端なまま終わる。泉谷しげるがなんであんなにかっこいいのかとか。あえて説明しない。でもわからなくていいこともあるんだってことがわかった。それが日常で、それが大人になったってことだと思った。
そして「私、プロレスの味方です」の著者が原作だから見ていた子ども時代のオレって結構鋭いなと思った(笑)。この「時代屋の女房」の構造は、まさにプロレス絵巻と同じなんじゃないだろうか。昭和のプロレスにシンパシーを感じていた人には、このファンタジーがすんなり入ってくるように思うのだ。言葉にしなくても、あ・うんの呼吸でわかりあえる。物語は突然はじまり、なんとなく終わる。この人肌のぬくもりこそが昭和だったし、プロレスだったし、時代屋だったように思う。
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