音楽体験を応用して生活してるかも
ちょくちょくひとくちメモにもコメントしてくれてるsleepyさんの小さな赤い鶏ブログ「スランプ」に触発されて自分と音楽についてちょっと考えた。
現在アマチュアバンド歴十余年の私だが、昨年新大久保で約7年ぶりの復活ライブをやった(笑)。それが何度目かの引退ライブだった(爆)。
最初はキーボードとして、その後ボーカルもやったしサイドギターもやった。はっきり言って全部素人芸だ。オレはただのテクノ系打ち込み君&フォークソング狂いのバカ息子だったのだから。でも楽しかった。
ライブの後は常に「もう引退だ」と思っていた。自分の思うレベルと現実のレベルとがあまりに乖離しているのだ。しかししばらくするとまたライブをやっている。誘われるままに演奏してきた。それが7年ぶりのライブだった。
7年ぶりのライブ終了後、またやろうと言われたが、このときもやはり「もう引退だ」と思っていた(笑)。いまもその思いは変わらない。まだ1年しか経ってないからな(^^;)。
年を重ねるにつれ音楽への渇望も薄れていく。どのジャンルも稽古事はそうだと思うが、時間的・精神的に若いころにしか出来ないのめり込み方があると思う。時間にはリアルタイムな時間もそうだし将来の時間も含む。精神的にも他にあれこれややこしいことを考える必要性が少ない(笑)。10代20代のころと今とでは比較にならない。
だがそうやって獲得してきたものは一生の財産にもなる。学校で教えてくれない財産だ。精神のバランスが崩れそうになったときに、ギターがあると弾きたくなる。歌いたくなる。観客は自分だけだ。それで充分なのだ。なにも重たい楽器を持って出歩かなくても充分満たされるのだ。プロはそれだけじゃフトコロが満たされないから演奏するのだ(>そんな決めつけていいのか?)。
また、のめり込んだ経験は応用がきくように思う。「何かに興味を持つ」というのもスキルだと思う。年を取ってから新しい趣味を探すという人がよくいるが、それも過去の“のめり込み経験値”の高さによってアプローチの上手下手が決まる。
だからいま、一所懸命になれるものがあるとすれば、そこには形を変えた“嗚呼青春の音楽のめり込み体験”がきっと活かされていると思う。楽器を弾いていなくても、音楽してる、グルーブしてるって感じることがよくあるのだ。相場の音を聴いているときとか(笑)。
飽きっぽい性格なので、音楽から離れたいときは他に興味が移っているときだったりする。絵を描いていたり、プログラムを組んでいたり、文章を書いていたり、バランスボールで遊んでみたり、たまに仕事もしてみたり(笑)。それらはすべてオレのなかでは同列だ。パソコンがそれらを同列にしてくれた。一日は24時間しかないので仕方がない...。
そして離れているとまためぐりめぐって音楽の時期もやってくる。そのときには、ぜんぜん弾きたい曲がなかったのに、思わずオフコースの「秋の気配」を歌いたくなったり、Soul II Soul をまた聴きたくなったりするのだ。実は最近がそうだった。Soul II Soul いま、めっちゃいい(笑)。
相場格言にちょうどいい言葉がある。「休むも相場」だ。音楽だってそう。休符がノイズを音楽にするのだと思う。生活も人生も常にそうだと思う(って達観するにはまだ若造だが)。休んでいるときも、これまでの音楽体験は通奏低音のように生活の端々に宿る。それでいいのではないかと思う。プロじゃないんだし。
山下達郎が楽曲の打ち込みするときに大変神経を使うのが休符のプログラミングだという。ひとくちメモでした(笑)。
| 固定リンク | 0
コメント