積木くずし
今日は「積木くずし真相(後編)」というドラマを見た。前編は見れず後編だけ見たが、しっかり作られている印象を受けた。
「積木くずし」といえば、オレらの世代にとっては同時代真っ只中であり、渡辺典子(映画)の顔がすぐに思い浮かぶ。当時のドラマ(高部知子)も映画も、あの独特な雰囲気はまさにあの時代のひとつの風景だったと思う。いま安達祐実で、というのはまっとうな人選だったと思う。
由香里さんが亡くなったことは2年前ニュースで知った。そのとき生前の穏やかな映像を見たことがいまでも印象に残っているのは、少なからずオレ自身にも「積木くずし」が影響していたからじゃないだろうか。
闘病生活については知らなかったし、由香里さんの手記の内容もこのドラマで初めて知った。どの程度の脚色がされているのかもわからない。これで由香里さんや家族が救われるのかもわからない。
ただ「積木くずし」を一生背負って生きざるを得ないその重さは、視聴者ひとりひとりに自分の人生がコントロール可能なのか否かを突きつけてくる。出版によって傷を露出させた家族の顛末という特異な環境を目の当たりにしながら、オレらの世代は生きてきたのであるし、自分たちもそうなる可能性を持っていたからこそ「積木くずし」に吸い寄せられたのかもしれない。
積木がくずれはじめた原因としてのイジメやリンチ、そして教師の誤解、そういったものはどの地方にも少なからずあったと思う。学校はどこも荒れていた。オレも中一のころ、他校の中三の不良にカツアゲされた。妹も染めてないのに茶髪を教師に指摘されたと言っていた。
オレはカツアゲされたとき「カネは持ってない」と言ったが、一緒にいたS君が持っているとバラしたためウソつきのオレだけ殴られた(笑)。まぁ、殴ってくれたおかげでその傷から足がつき、カツアゲ野郎は特定された。「ドラゴン桜」でも言っていたが、世のなか先に手を上げたほうが負けるのだ(笑)。そのような小さな暴力は常に身近な存在だった。
「積木くずし」の持つ独特な雰囲気は、穂積家だけでなく、どの家庭にも訪れる可能性があった。穂積家は俳優の父によって出版されてしまったことで、最後の糸がプツンと切れてしまったのかなとも思う。子どもにとって、理解されない憤りと、一生「積木くずしの...」とレッテルを貼られて生きるのは、想像を絶する環境じゃないだろうか。
だが誰にも程度の差こそあれ、「積木くずし」的な重荷はあるように思う。普段は心にフタをしていても、人生の岐路で必ず顔を現すその重荷を、どうコントロールして生きていくのか。いま崩れゆく日本に生きるうえで、重荷とのつきあい方がますます重要なことのように思われた。
「積木くずし」の表層にとらわれず、自分自身の内面、そして家族との距離、そういった己を考えるときにこそ「積木くずし」がこの世に存在した意味もあると思う。
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コメント
コメント&TBありがとうございました。
本当に、由香里さんが誰にも理解されず、苦しい思いを胸に秘めてなくなられたことを思うととても悲しくなりますね。
誰の家庭にも起こり得ること…ほんと、そうですね。
あの当時はいじめや家庭内暴力が話題で、ほんとうにどの家庭に起きても不思議ではなかった。誰しもが、親に理解されない苦しみをなんらかの形で発散していた時があったかもしれないですね。
でも、今の子供って、外に発散するより、ウチに鬱屈させる傾向があって、よけい怖いかもしれないですね。
投稿: 京女 | 2005/09/05 10:53
> でも、今の子供って、外に発散するより、ウチに鬱屈させる傾向があって、よけい怖いかもしれないですね。
これって、そうですよねぇ。鬱屈したままいきなりキレてしまったり、自己の葛藤だけで外部との葛藤がない感じがしますね。リアルなコミュニケーションができなくても、ヴァーチャルな世界に逃げ込んでしまって、そこで膨らんだ妄想とともにリアルな現実世界に戻ってきて、いきなり友達刺しちゃったりとか...。根っこはコミュニケーションなのかも知れないですけれどねぇ。
追記)今朝の他局のワイドショーで、杉田かおるが久々に記者会見に姿を見せたからこのドラマが好視聴率だったみたいなことを言っていたんですが、そんな見方しか出来ないテレビ人や芸能レポータも悲しい...。
投稿: ポップンポール | 2005/09/06 23:42