何のために学ぶのか
地理マニアの話を書いてから、さとしすさんの記事からリンクしてもらったりして、学習についてまた考えた。地理の話からは完全にそれるので、リンクもトラバもはばかられるのですけれど、まあ学習話マニアのたわごとと思って聞いてください(笑)。
> 地理を面白いと思わせる先生が、少ないのが問題なのでしょうね。
これは一理あると思う。教育業界では「動機付け」ということが常に言われているようだ。おもしろい授業とか楽しい授業とか、大人がない知恵を絞って学問の楽しさを作り出そうとする。だが、それはなかなか難しい。みんながみんな面白いと思うような内容を、教員を目指すような普通のまっとうな人に考え出せるわけがないのだ。そんなことをされては、芸人の商売あがったりだ(笑)。
画一教育にも面白くできない要因はある。エノケン、萩本欽一、セントルイス、ドリフターズ、ザ・ぼんち、ビートたけし、ダウンタウン...。どんな面白い芸人でもみんなに受け入れられることなんてありえない。もっとも欽ちゃんくらいに受け入れられれば万々歳といえなくもないが、そんな教師を何人も作るのは困難だろう。話芸も才能のうちで、教員資格の範囲外でもある。公務員からもっとも遠い世界だ。
●学問の個人的な目的を持つ
結局、学問の動機には目的なり目標なりが必要で、日本ではそれがたかだか受験というレベルでしかないことが学問の貧困を増大しているわけだ。それも受験というのは間接目標で、その先に何もみえてこない。がんばって国立大学に入っても、設備はふるいは、教授連中は学内政治で忙しいわ、世界には相手にされないわで、教授の声のかかった企業でサラリーマンにでもなるしかない現実が待っていたりする。保険であり保守的な装置だと思いつつもがんばってお勉強してきたが、全部幻想だったことに気づくことこそ一番の学習成果かもしれない。もっともそこから学び始めてもまったく遅くないのは救いではある。
保守的なシステムに沿って親を教育し、画一的なシステムを延々続けて子を教育しているのが日本という国だ。そこそこ賢い金太郎飴が井の中の蛙として競争する(競争といっても不平等な競争だが)。教育の貧困極まれりと見えないだろうか。
例えば将来商社マンになり企業戦士となって活躍したいという人ならば、外国語も地理も目標と合致する。だが、そんな職業の存在なり内容なりを知る機会など皆無じゃないだろうか。親がそのように育てようとしなければ、商社に入って何をやるかなんて、高校生でもわからない。もしかしたら異業種に就職したら一生知らずに過ごす。職人や自営業の世界にはあるかもしれないが、そういう情報と体験と目標とをもっと全面的に開示することのほうが、座学よりも有意義だと思う。
あるいは、どんな仕事に就いたら生涯いくらくらい稼げるか、というようなマネー教育もまったくされていない。カネの話を教育に持ち込むなんて、キーーーッ!という雰囲気がアリアリだ。そんなPTAに限ってカネにうるさいのだ。カネだけが生きがいじゃないとも言えるが、それは酸いも甘いも知り尽くしてから言えることであって、労働価値を貶める免罪符に使われているような気がする。労働対価についてもっと情報開示されていいと思う。
前にもベンジャミン・フルフォード氏の著作について書いたが、戦後の日本は第一世代が復興に努力して経済大国をつくり、第二世代のボンボンの皆様がそれを食いつくし、いま第三世代が知らないうちに教育されて滅びようとしている。労働対価を低く抑えたいという既得権益を持つ第二世代と第三世代との世代間抗争は皆無であり、それは戦後教育の成果だとも言える。ニートとは日本語では優等生と訳すべきなのだ。
●学問を武器として使う
学問は武器だと思う。今風に人生をロールプレイングゲームに例えてみよう。道の途中で様々な人と出会い、そこで情報を得たり武器を得たりする。その結果、それらを有効に使って目標を達成しようとする。これはじつは誤りだ。そこで得られた武器なり情報なりは一度使ったら御用済み、もう人生においてなくても困らない。まるで受験勉強と同じだ。
だが学問とは一生使い続け、磨き続ける苦労をいとわない、まさにマニアの世界の武器なのだ。その武器は人それぞれであって、押し付けられて身につけるものではない。自分から勝ち取るものだ。しかもそんな武器を何個も持てるようなスーパーマンはほとんどいない。せいぜいが3つくらいまでじゃないか。
ただし、1つでも2つでも極めれば、その周辺にはもっと広く関連付けられた情報なりスキルなり体験なり人脈なりが自然と生まれる。それらの総合力が自分自身の血肉となっていくように思う。貪欲に得ようとすれば、望まない学校なんかに行ってヒマつぶしてる時間がもったいなくなるはずだ。もちろん、学校サボッてゲーセンやラブホに行っているのも同様だ。だがそういう意欲に目覚めることを、日本の教育は最大限に怖がっている。なんとか封じ込めようと一所懸命だ。だからまじめな生徒もドロップアウトした生徒も同じワナにかかっている。この現状は、実は日本国の既得権益を持つ人々にとってはうれしくてたまらないのではないかと思う。
物心付かないうちに学校に閉じ込めて保守的に育てられるわけだから、そんなものだと思ってしまう。まさに「バカの壁」のなかで育てられるのだ。地球は丸いと知らないでいい昔の人々と同じなのだ。でも本心は人との違いをアピールしたい自分もいたりして、安全なブランド志向へとのめりこんでいくのだ。
しかし、そうやって育てられつつ、世の中は主に米国からの圧力でグローバル化(≒アメリカ中心主義)を迫られている。第二世代はモラルが欠如しているので、自分たちが逃げ切った日本なんてどーでもいいから、バカの壁をいきなり取っ払う腹づもりだ。そうなったら日本の教育に染まっていてはひとたまりもない。お陀仏だ。
だから学ぶのだ。もう、お勉強は卒業していい。自分で学ばないととんでもない大人になる。それを怖がるべきだ。もっとも、多くの人々は学ぶことの意味なんて考える必要はないと思う。逆らわなければそれなりにこの保守システムが守ってくれる。活かさず殺さずってやつだ。脱北に人生を賭けるような労力は必要ないし、逆に狭い日常のなかで、いきなりバイオリニストになれると思ったら大間違いだ。目標とは無限の夢でもないのだ。現実と目標とのギャップを埋めること、それが学問を武器として使うひとつの方法だと思う。
教育問題について語るのは不毛だとわかっちゃいるけどやめられない(笑)。誰でも議論できるサロン的なネタなので、教育について語るのは怖い。でも常に教育話に違和感を感じるのは、学習者としての立場がまったくないことだ。教育してやろうという第二世代のおせっかいな声ばかりで議論が粉砕することが多い。学習は個人のものであり、個人の学習をせめて奪わない環境を勝ち取りたい。それは日本では脱北レベルの困難さでもある。
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