google-site-verification=o_3FHJq5VZFg5z2av0CltyPU__BSpMstXTEV1P8dafg ひとくちメモ: 2005年3月

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2005年3月の14件の記事

2005/03/29

三つ巴?

CX以外は、どの局もライブドアとフジテレビとSBIとの三つ巴の闘い(探りあい)になってきたと報道しているけれど、大丈夫か...。SBIが本気で出てきたら、フジだけの問題じゃなくなるぞ。メディアはいまこそ、明日は我が身を自覚して報道すべきじゃないかなぁ。

IT業界ってマイクロソフトの呪縛がまだあるような気がする。20世紀最高の経営手法であった収穫逓増、勝ち組だけがますます栄えるという方程式を体現したマイクロソフト社のやり方だ。それまでは、世の中はほぼ収穫逓減というのが常識だった(このあたりの概念説明はこちらで)。

みんながコンピュータの未来をハードで語っていた時代に、ソフトウェアだけに特化して漁夫の利(?)を取っていったのがマイクロソフトだったわけだ。

これをこの問題に当てはめて見ると、テレビやラジオのメディア事業というのは、コンテンツの競争(ソフトの競争)で成り立っていると現業の皆様が思っていたのに対し、実はスポンサー(カネの力)で成り立っているという本質を突くのがSBIという会社だろう。IT業界におけるハードかソフトかの時代を経て、ソフトなソフト(コンテンツ。ローカルなソフトといってもいい)かハードなソフト(カネ。グローバルなソフトといってもいい)かという時代が到来している。

まさにマネーゲームなのだが、マネーという究極のコンテンツには境界がない。フジテレビと日本テレビの違いもないし、もしかしたらNHKとの境界すらないかもしれない。SBIはメディア業界のOSとなろうとしているように見える。

ただ今回はSBIがメディアに露出しすぎるのが不可解だ。その戦法はプラスなのだろうか。まあ、とりあえず「どこでもドア」を持っているのはほりえもんだけじゃなかった。ジャイアンが出てきた(笑)。他局の皆様も、面白おかしく報道するより、足元を固めた方がいいと思うが。他人事ですけど。

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2005/03/26

Hawaii行きたい病

ポップン・ハワイイ紀行まりあさんの「ハワイのお仕事」にトラバ。そうかー、ロイヤルハワイアンの焼きたてパンケーキ&生ジュースの朝食かー。食いたい...。朝の日差しを浴びながら波の音をBGMに食いたい...。またまたハワイ行きたい病の発作が始まりそうだ!

だが、そんな時間がどこにあるのだ...。くそー、誰かまた結婚しないかなぁ(笑)。ぜひハワイで挙式をあげてくれよ。そしたら大手を振って行けるのだが。

よくサラリーマンのサボる言い訳で「兄が危篤で」とか、親戚縁者を殺してしまうのが常套手段であるが、まさかお葬式をやりにハワイへとか言えんしな。ハワイは祝い事でなきゃ口実にならない(^_^;)。んっ、兄をハワイへ住まわせればいいのか!?(ちなみにオレに兄がいるかいないかは問題ではない)

というわけで、最初にハワイに行ったのは友人の結婚式でだった。そのときに感じたファースト・ハワイの感想はこちらで。このときに出会ったシェイに会うためにシェイの店があるホテルを予約して後年行ったのだが、一年後という約束もとうに過ぎていてすでにシェイは居なかった...。傷心のハワイ旅行記は...ないっ!

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2005/03/25

ニュータイプの時代へ

ニッポン放送がライブドア傘下になったら降板も検討するという大物タレントが出始めたようだ。タモリ、欽ちゃん、中島みゆき、ゴジラ松井などなど。中島みゆきのオールナイトニッポンが聴きたくて上京した過去を持つ私(だが上京とともに終了した悲しい思い出だ...)なので、このニュースはショックだった。

ソフトバンクの関連会社がフジテレビの株を借り受け、ライブドアの影響力を排除する作戦に出たニッポン放送。この話題でワイドショーは持ちきりだが、ボクにとってはそんな話よりも、メディアと芸能人との関係の方が大ニュースだ。

ニッポン放送社長の亀ちゃん(もとDJ)は、経済の話は苦手かもしれないが、コンテンツ(番組)や編成を通じて育ててきた出演者との人脈とか、そっちで闘うのは正解だと思う。ラジオはクラブ活動的な制作環境があるだろうし、それは企業買収などとは本来無縁な世界だったはずだ。

30-35 Vol.0芸能はまさに感情の世界であって、同時代体験は一生モノだと思う。画像はCD付きマガジン「30-35(サンゼロサンゴー)」という、ボクらの世代にとっては涙モノの楽曲群オンパレードなモノだ。たとえば、どの世代でも同じだと思うが、こういう音楽や世相・体験を共有・発信してきたメディアに、いきなりニュータイプ(30-35やなぁ...)ともいうべきわけのわからない新人類(30-35やなぁ...)が現れて寝耳に水の闘いを仕掛けてきたら、そりゃ気分悪ぅ!と思うだろう。

ただもっと大きな視点でみれば、それらの人脈やタレントはすべて過去であるともいえる。ニュータイプの新人類が出てきたときには、ニュータイプの世界が創られていくものだ。世の中は動いているのであり、過去は過去として尊重されても、永遠ではない。それが芸能やメディアという浮世の夢ではないだろうか。

ほりえもんやライブドアも、いずれ駆逐されるときが来るだろう。因果応報などといわれる事態になるかもしれない。だが、私自身は走り続ける人間は嫌いじゃない。やり方に不満の声があるのはわかるけれど、多かれ少なかれ軋轢は生まれるものだ。それがなきゃ新しい価値は生まれない。

みんな良い子に育てられ、大人の言うことを聞く良い子ちゃんばかりなら、既得権を持つ旧世代は安泰だったと思う。しかし、旧世代にとってうまーくコントロールされてきたかのようなこの日本に、ほりえもんが現れたことは良かったと思う。誰にも理解される創造などありえない。成功するかどうかはまた別の話だ。実行している人間が常に時代をリードしていくし、それを止める側に身を置きたくはないと思う。

ニッポン放送はもう感傷に応えてくれなくなるだろう。それは甘んじて受け入れるしかない。新しい世の中に常に対応できる自分でありたいと思う。ボクにとっては、それはオールナイトニッポンからの卒業...。なんて小さいんだオレ!

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2005/03/20

相場小説

今朝のTBS「儲かりマンデー」はIPOの話題だった。昨日たまたまY嬢、M氏からIPOの話を聞いたばかりだったので、興味深く見た。IPOとは新規公開株のことだ。抽選で当たって買えれば、90%以上の確率で初値が値上がりするおいしい株だそうだ。

個人的には当てもの的な売買に興味が湧かないのだが、ちょうどいい機会なので面白い相場小説でも紹介してみようと思った。ここから先はIPOとはまったく関係ない話で恐縮です(^_^;)。

●京都議定書と「赤いダイヤ」

赤いダイヤ(上巻)ホントは京都議定書発効の時に書く予定でした。それは、排出権ビジネスという新しいビジネスが、環境問題を考えるための京都議定書によって産み出され、ボクの頭の中でこの小説とリンクしたからです。相場小説の金字塔「赤いダイヤ」の上下巻です。

いろんな業界や政治・経済の世界では「規制緩和」が広く叫ばれてますけれど、京都議定書はいわば数少ない「規制強化」であり、規制あるところには必ずビジネスチャンスがあるものです。なぜなら資本主義は差別化によって利益を生むシステムだからです。環境規制目標を守れる国と守れない国という差別化が起きたとき、その違い、狭間、エッジ、ニッチな部分には、ビジネスの匂いを嗅ぎつけた商魂たくましい人々が押し寄せます。

京都議定書の場合は、それが排出権ビジネスでした。排気ガスなどの環境汚染削減は各国に目標値があり、それを達成しなければならないけれど、それによって産業の停滞を招きたくないというジレンマがあります。そこでこの目標を軽々と達成できてしまう他国から、目標以上のあまった分を権利として買い取れるのが排出権ビジネスです。「君んとこで空気を汚さない分、ウチで汚させてっ!その権利クレッ!」というワケです。これでプラマイゼロになり、地球の空気の汚れる総量では目標達成という、なんだかキツネにつままれたような話なわけです(笑)。

この排出権ビジネスのようなビジネスを実践し、大儲けしたのが「赤いダイヤ」の主人公、木塚慶太(こづかけいた)です。小説は事業に失敗し自殺しようとしている木塚の姿からはじまります。でもかなり悲惨な状況にも関わらず、なぜかユーモラスなのです。これから死のうという男の言動がいちいち生気に満ちているといいましょうか。このあたりは作者・梶山季之(かじやまとしゆき)のうまさかもしれません。

赤いダイヤとは小豆(あずき)のことです。この小説は小豆相場の仕手戦を舞台に展開され、そこでの主役・森玄こと森玄一郎と、ドラマ化するならぜひ三浦理恵子に演じて欲しい(笑)井戸美子など、人間臭い人々が次々と登場します。小豆相場を知らなくても、その人間臭さだけで充分に面白いのですが、木塚慶太の商魂には思わず笑っちゃいます。商才を取ったら何も残らないヤツだけど、こと商売に関しては「この男だきゃ...」と、ついつい小説だということを忘れてあっけにとられてしまいました(笑)。

その木塚慶太が目をつけたのが特割外貨ビジネスというもので、まさに規制が生んだビジネスなんです。「赤いダイヤ」は小豆相場の小説ではありますが、この木塚慶太の新ビジネスがめっちゃ利いてる!この小説が相場小説の金字塔と呼ばれるのは、こういう分厚いサブストーリーがあってこそだと思います。それらがすべて絡み合っていく様は、まさに大衆小説の金字塔でもあるわけです。

読み進むうちに木塚が自殺しようとしていたことなんて完全に忘れそうになるんですが、ところどころでそれを思い出させるのも作者のうまさ。なんだか気分が高揚してきて、読者が元気になれる小説です。ただ大衆小説という分野や時代背景もあるのでしょうが、女性読者が女性の描き方に不快感を抱く可能性はありますね。井戸美子の人生って、時代や男に翻弄されて、でもその発端は欲に目がくらんだ計算高い彼女自身の言動の結果であって、救いようがありません...。そこを他人事として読めたら大丈夫です(笑)。

版元のパン・ローリングは、相場を張る人間にはおなじみの出版社ですが、なかなか一般の方はご存知ないかもしれません。パン・ローリングから復刻小説が出るとは思わなかった!さすが目の付けどころが違うよね。ありがとうと言いたい。このシリーズは続けて欲しいなぁ。

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2005/03/19

伝統芸能三者三様

今年は歌舞伎、落語、狂言と伝統芸能の世界のニュースが多い。それほど詳しいわけではないのだが、その中心人物のポジションは三者三様で興味深い。そんなワイドショーの見方をしつつ、オレもナンシー関師匠を襲名したい衝動に駆られる(恐れ多い!)。

なんといっても中村勘九郎さんの勘三郎襲名はビッグニュースだった。勘九郎さんの役者として印象深かった最初は、NHKドラマ「バラ色の人生」だったが、まさにバラ色の人生を地で行っている。息子の酔っ払い事件もあったが大勢に影響なし。それはひとえに勘三郎さんの人柄でもあると思う。

それに比べて狂言の和泉元彌はどうだろう。口を開けば「宗家」「伝統」というワードが飛び出すけれど、伝統を守る責務はアンタにあったのを、伝統に守られようとしている態度が情けない。何年の歴史だか知らないが、創業者の偉業を台無しにしてしまうボンボン息子という構造も、また日本のお家芸だ。君はそっちの伝統を守っているから安心しなさい(笑)。心配なのは奥さんになってしまった羽野晶紀ちゃん。「ムイミダス」の頃からファンなのだが、まさか夫にムイミダスな人を選んでしまうとは...。人生って何だ!?

そして落語の林家こぶ平。林家正蔵を襲名するというのだが、なんでワイドショーで流れる画面から悲壮感が漂っているんだ!?落語だよ落語。笑いだよ笑い!重責に余裕がないのはわかるけれど、そのウルウルした泣き出しそうな瞳と、ものすごい硬い表情や物々しいセレモニーの映像は「落語」にとってどうなのか...。

と、辛口批評してみましたけれど、こぶ平さんの高座がちょっと流れたのをみて安心した。なんか観に行きたくなるオーラが出てた。落語はいわゆるいまどきのコントや漫才とは違った喜怒哀楽の世界があって、時流と異なる時間軸や空間軸を持っている。テレビタレント林家こぶ平が落語家林家正蔵として変身するには、このくらいの物々しさが必要だったのかなと、なんかこっちが説得されてしまったのだ。そのオーラに期待したい。

まだまだ道は長いから、ボンボンキャラは和泉君にバトンタッチして(相手は独走状態だけども)、インターネット時代の伝統芸能を見せて欲しいと思った。歌舞伎の場合はナントカや〜!とか屋号を叫ぶけど、落語もそういうのあるんでしょうか?寄席に行ったらぜひ「ヘイ!ニッキー!」と叫んでみたい。

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2005/03/16

ニッポン放送

うーん、何の因果か(?)、近々ニッポン放送を訪問することになってしまった。あんまり悪口いうのやめよう(^_^;)。ボクって弱腰だからすぐ取り込まれちゃうのだ(うそ)。

村上ファンドの人なんて「経営陣はクズ!」なんて言ってたそうだが、そんな発言とんでもない。せめて「経営陣はグズ?」くらいにしとこう。

訪問したときの雰囲気とか、そういうネタはやりません(笑)。

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2005/03/14

マネーゲーム

ニッポン放送が次に打つ手として、ポニキャニの株を放出するという作戦が、まことしやかに流れている。焦土作戦というらしい。もしこれが実行されたら、いったい何を考えているのか、その非論理性・非人間性に愕然って感じだ。

ほりえもん攻撃をしてきた政治家や経営者は、やれマネーゲームだ、やれカネの暴力で乗っ取りだと騒いでいたが、では自社を無力化して株主を裏切り従業員を不安に陥れることはいいとでも言うのか。いったいどっちがマネーゲームをやってるのかと言いたくなる。

ニッポン放送の経営陣は、もう少し冷静に現実を直視すべきだ。そして、せめて最期くらい経営者らしい判断を下して欲しいと思うばかりだ。

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コーチング

オフコース先週の土曜日に近所のクリーニング屋へ行った。新しいバイトさんで、「次の土曜までに出来ますよね?」と聞いたら、カレンダーを見て、笑みを浮かべつつ「大丈夫ですよぉ」とおっしゃった。

そして次の土曜、受け取りに行ったら、そのときは店のおばさんだった。私の番号を見るなり、待ってましたとばかりに衣類を差し出す。そこには「特急」の文字が...。

「土曜までにって言ったのに」とこちらが言うと「新しいバイトさんだからぁ。一週間あれば大丈夫ですよ」と。いつも一週間待たせるクリーニング屋だから聞いたまでのことなのだが。

しかし反省した。先週の土曜バイトさんは、もしかするとオレがその日を土曜と思っておらず、翌日にでも出来上がるなと念押しして帰って行ったなどと勘違いした可能性はある。対面商売は口約束だ。もしこれで明日出来上がってなくて叱られるのはゴメンだと思ったかもしれない。

もし先週の土曜日、「いつまでに出来ますか?」と聞いていたなら、カレンダーを見つつ「えっとぉ、11日金曜ですぅ」と答えたかもしれない。そしてオレが「じゃ、よろしく」と帰って行けば、特急にならずに済んだのだ。

特急は洗い方が雑になる。急ぐときはいいが、通常でいい場合は損した気分にもなる。コーチングでは相手に「Yes/No」で応えさせてはいけない。相手が持っている答えを引き出すことが重要なのだ。

なんで画像がオフコースかって?そりゃ「Yes-No」の話題だから(笑)。オフコースのYes-Noはコーチング的にはアウトだけど、楽曲としては名作です!

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2005/03/09

ほりえもん騒動をアニメ化して欲しい

ほりえもんとニッポン放送の騒動で、にわかに株式業界用語らしき知識が広まっているような気がする。竹中大臣もお慶びでしょう(笑)。これだけ連日流されるというのは不思議だ。騒動として面白い、登場人物が面白い、テレビ業界が明日は我が身と思っている(身内の問題に過剰反応するのもテレビ業界、ダヨネー)。いろんな要素があるんだろうな。

面白い映画に出来たらすごいと前に書いた「電車男」がいよいよ映画化されるそうで。どんな映画になるのか楽しみだけど、このほりえもん騒動もアニメ映画化すべきだ!なぜアニメかって、そりゃドラえもんのパロディだから。未来から来たほりえもんが、21世紀初頭の人々に「どこでもドア」を説明しようとして誤解され、バッシングを受けるって感じ。

林輝太郎さんの本などを読むと、そもそも株やってるくせに「カラ売り」を知らない人がいるらしい。そういう人に「売りから入って」とか、そういう説明ってまったく理解不能だというのだ。さすがに最近はそんな人いないと思うけど...。せっかくだからこのニッポン放送株問題をアニメ化して、日本人の株知識の水準を上げてみてはどうだろう。ほりえもんは「経営者はもっと勉強しないとダメですよ」と言っているが、いまの人々はもういいので、次の世代にアニメで学んでもらおう!

ついでに、「個人投資家」という言葉もよく見かける。それを言うなら個人投機家というべきじゃないだろうか。そんなにわかに個人投資家が増加するわけがない。そして分かっている人たちは、みんなほりえもんが投機をやると思っているわけだ。でもほりえもんは投資をやろうとしているという主旨の反論をする。その真偽は分からないけれど、投資と投機とをごっちゃにして議論してもカラまわりするだけじゃないかと思ったりする。

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2005/03/07

ソニーの思い出

ソニーの出井会長兼CEOが退任するというニュースは、ちょっとさびしかった。学生の頃、就職したい企業のトップグループに常にあったのがソニーだ。とくに出井氏は大抜擢で登場し、インターネットで社長日記を公開したりして、新しさをアピールするには絶好の人材だったように思う。

ただ、当時からボク自身のソニーに対するイメージは「入りたい会社かもしれないが、買いたい商品がない会社」であった。いわゆる“ソニータイマー”にもつながる品質の問題は昔からあったように思う。

ソニーを踏み台にした男たちそんな気分を代弁してくれるような本もある。「ソニーを踏み台にした男たち」(集英社文庫)がそれだ。

もちろん、ソニータイマーの話ではない(笑)。ソニーという創造的な環境を存分に利用して実績をあげ、ソニーの枠から飛び立っていった人々の話だ。ソニーという“環境”が作り手にとって非常に魅力的だということがよくわかる。

しかしその独創性やオジリナルへの固執がソニー製品の弱さでもあったと思う。耐久性がおろそかにされていたのかもしれないが、詳しいところはわからない。ソニーは実験は得意だが、製品として練れてない。そんなイメージがソニータイマーという噂につながっていったのかもしれない。

ソニー製品は実際に買って結構壊した。ソニーだけが壊れやすいのかどうかそれはわからないが、実際壊してきたので、ほとんど買わなくなった。だがソニーという会社にしかない、オリジナルにこだわる気風はやはり必要だ。入りたいけど買いたくない会社ソニー。これが松下のような会社になったら今以上に厳しくなるような気がする。ソニーはやはり実験精神あってこそソニーだ。

昔、ビデオテープに音声のみなら24時間録音できる(テープが6トラックに分かれており、4時間×6トラック=24時間)というビデオデッキがあった。もちろん一瞬で消えた。こんな商品はソニーでなきゃ出せないと思った。ソニーは超大会社になってはいけなかったのかもしれない。とんがった技術と発想とをカタチにするマニアックな技術屋であって欲しかった。

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2005/03/06

何のために学ぶのか

地理マニアの話を書いてから、さとしすさんの記事からリンクしてもらったりして、学習についてまた考えた。地理の話からは完全にそれるので、リンクもトラバもはばかられるのですけれど、まあ学習話マニアのたわごとと思って聞いてください(笑)。

> 地理を面白いと思わせる先生が、少ないのが問題なのでしょうね。

これは一理あると思う。教育業界では「動機付け」ということが常に言われているようだ。おもしろい授業とか楽しい授業とか、大人がない知恵を絞って学問の楽しさを作り出そうとする。だが、それはなかなか難しい。みんながみんな面白いと思うような内容を、教員を目指すような普通のまっとうな人に考え出せるわけがないのだ。そんなことをされては、芸人の商売あがったりだ(笑)。

画一教育にも面白くできない要因はある。エノケン、萩本欽一、セントルイス、ドリフターズ、ザ・ぼんち、ビートたけし、ダウンタウン...。どんな面白い芸人でもみんなに受け入れられることなんてありえない。もっとも欽ちゃんくらいに受け入れられれば万々歳といえなくもないが、そんな教師を何人も作るのは困難だろう。話芸も才能のうちで、教員資格の範囲外でもある。公務員からもっとも遠い世界だ。

●学問の個人的な目的を持つ

結局、学問の動機には目的なり目標なりが必要で、日本ではそれがたかだか受験というレベルでしかないことが学問の貧困を増大しているわけだ。それも受験というのは間接目標で、その先に何もみえてこない。がんばって国立大学に入っても、設備はふるいは、教授連中は学内政治で忙しいわ、世界には相手にされないわで、教授の声のかかった企業でサラリーマンにでもなるしかない現実が待っていたりする。保険であり保守的な装置だと思いつつもがんばってお勉強してきたが、全部幻想だったことに気づくことこそ一番の学習成果かもしれない。もっともそこから学び始めてもまったく遅くないのは救いではある。

保守的なシステムに沿って親を教育し、画一的なシステムを延々続けて子を教育しているのが日本という国だ。そこそこ賢い金太郎飴が井の中の蛙として競争する(競争といっても不平等な競争だが)。教育の貧困極まれりと見えないだろうか。

例えば将来商社マンになり企業戦士となって活躍したいという人ならば、外国語も地理も目標と合致する。だが、そんな職業の存在なり内容なりを知る機会など皆無じゃないだろうか。親がそのように育てようとしなければ、商社に入って何をやるかなんて、高校生でもわからない。もしかしたら異業種に就職したら一生知らずに過ごす。職人や自営業の世界にはあるかもしれないが、そういう情報と体験と目標とをもっと全面的に開示することのほうが、座学よりも有意義だと思う。

あるいは、どんな仕事に就いたら生涯いくらくらい稼げるか、というようなマネー教育もまったくされていない。カネの話を教育に持ち込むなんて、キーーーッ!という雰囲気がアリアリだ。そんなPTAに限ってカネにうるさいのだ。カネだけが生きがいじゃないとも言えるが、それは酸いも甘いも知り尽くしてから言えることであって、労働価値を貶める免罪符に使われているような気がする。労働対価についてもっと情報開示されていいと思う。

前にもベンジャミン・フルフォード氏の著作について書いたが、戦後の日本は第一世代が復興に努力して経済大国をつくり、第二世代のボンボンの皆様がそれを食いつくし、いま第三世代が知らないうちに教育されて滅びようとしている。労働対価を低く抑えたいという既得権益を持つ第二世代と第三世代との世代間抗争は皆無であり、それは戦後教育の成果だとも言える。ニートとは日本語では優等生と訳すべきなのだ。

●学問を武器として使う

学問は武器だと思う。今風に人生をロールプレイングゲームに例えてみよう。道の途中で様々な人と出会い、そこで情報を得たり武器を得たりする。その結果、それらを有効に使って目標を達成しようとする。これはじつは誤りだ。そこで得られた武器なり情報なりは一度使ったら御用済み、もう人生においてなくても困らない。まるで受験勉強と同じだ。

だが学問とは一生使い続け、磨き続ける苦労をいとわない、まさにマニアの世界の武器なのだ。その武器は人それぞれであって、押し付けられて身につけるものではない。自分から勝ち取るものだ。しかもそんな武器を何個も持てるようなスーパーマンはほとんどいない。せいぜいが3つくらいまでじゃないか。

ただし、1つでも2つでも極めれば、その周辺にはもっと広く関連付けられた情報なりスキルなり体験なり人脈なりが自然と生まれる。それらの総合力が自分自身の血肉となっていくように思う。貪欲に得ようとすれば、望まない学校なんかに行ってヒマつぶしてる時間がもったいなくなるはずだ。もちろん、学校サボッてゲーセンやラブホに行っているのも同様だ。だがそういう意欲に目覚めることを、日本の教育は最大限に怖がっている。なんとか封じ込めようと一所懸命だ。だからまじめな生徒もドロップアウトした生徒も同じワナにかかっている。この現状は、実は日本国の既得権益を持つ人々にとってはうれしくてたまらないのではないかと思う。

物心付かないうちに学校に閉じ込めて保守的に育てられるわけだから、そんなものだと思ってしまう。まさに「バカの壁」のなかで育てられるのだ。地球は丸いと知らないでいい昔の人々と同じなのだ。でも本心は人との違いをアピールしたい自分もいたりして、安全なブランド志向へとのめりこんでいくのだ。

しかし、そうやって育てられつつ、世の中は主に米国からの圧力でグローバル化(≒アメリカ中心主義)を迫られている。第二世代はモラルが欠如しているので、自分たちが逃げ切った日本なんてどーでもいいから、バカの壁をいきなり取っ払う腹づもりだ。そうなったら日本の教育に染まっていてはひとたまりもない。お陀仏だ。

だから学ぶのだ。もう、お勉強は卒業していい。自分で学ばないととんでもない大人になる。それを怖がるべきだ。もっとも、多くの人々は学ぶことの意味なんて考える必要はないと思う。逆らわなければそれなりにこの保守システムが守ってくれる。活かさず殺さずってやつだ。脱北に人生を賭けるような労力は必要ないし、逆に狭い日常のなかで、いきなりバイオリニストになれると思ったら大間違いだ。目標とは無限の夢でもないのだ。現実と目標とのギャップを埋めること、それが学問を武器として使うひとつの方法だと思う。

教育問題について語るのは不毛だとわかっちゃいるけどやめられない(笑)。誰でも議論できるサロン的なネタなので、教育について語るのは怖い。でも常に教育話に違和感を感じるのは、学習者としての立場がまったくないことだ。教育してやろうという第二世代のおせっかいな声ばかりで議論が粉砕することが多い。学習は個人のものであり、個人の学習をせめて奪わない環境を勝ち取りたい。それは日本では脱北レベルの困難さでもある。

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スポーツマンシップ

死語かな。パチンコ&喫煙のダルビッシュ、クラブで泥酔&暴行の里谷多英

スポーツを生業とするクセにこのテイタラク。まぁ、喫煙の害を説きながらテスト採点中にスパスパ喫煙している体育教師もいたりするわけで、そんなスポーツ教育の建前なんてクソくらえってことだな。スターシステムに凡人が乗ってしまえる程度のレベルにしかないってことかもしれないし。

ボクは、仕事が忙しい忙しいと飲み屋でグチを言う人間すら嫌いだ。忙しいくせに飲んでる時間があるんだぁと思ってしまう。飲んだ翌日の仕事の効率を考えたら、週2回飲んだだけで一週間の非効率が生まれる。もともと効率的かどうか疑わしいうえに飲み屋でグチるなんて。サラリーマン社会を敵にまわすような発言ですけど(笑)。

だから、プロスポーツ選手(里谷もモーグルを媒介にして社会から利益を得ているプロと言える)のクセに、タバコ吸ったり泥酔したりできてしまう選手は認められない。もっとも本人は、その程度でスキルは落ちないと思っているかもしれないし、それでダメになるのはご自身なので、喫煙体育教師より害は少ないかもしれないが。

画像はVol.1だけどリンクは青雲編BOX Vol.2昨日、たまたまカートゥーンネットワークを見ていたら映画版「巨人の星」をやっていた。高校入学当時の星飛雄馬のワガママぶりは相当なもんだった(DVD-BOX青雲編Vol.2のあたり)。しかし星一徹が監督としてやって来て飛雄馬の弱点を突くと、すぐに反省する。傍若無人な子に育てておきながら、野球で矯正していく星一徹の教育問題はおいといて、スターシステムによる教育問題はいまに始まったことじゃないことがわかる。

つまりスポーツにおいては、優越感との闘いの方がよっぽど難しいということだ。スポーツマンシップとは優越感との闘いではないだろうか。正々堂々と闘うなどというが、スポーツとは敵の裏をかき、だまし、勝利することが前提だ。ルールに沿っていれば何をしてもいいのだ。いかにうまくだませるかがスポーツの醍醐味なのだ。

だからこそ、スポーツマンシップなどというキレイごとを設けることで、人間的なゆがみを矯正しようとしているのがスポーツ教育の建前だ。建前は崩れるのが世の常。特に日本の中央集権的な社会主義運営をしている運動教育系組織においては、建前が壊れかけたハリボテになってしまっている。最近、堤義明(元JOC会長)が逮捕されたのは象徴的だ。彼のやってきた経営手法こそスポーツの醍醐味に通じるだましのテクニックだった。強ければいい、うまければいい、そういう空気がドーピングも生むわけである。

もっともドーピングやり放題のプロスポーツも、承知してやってるならあっていいと思う。それがホンネのスポーツ業界なんだから。何度も言うがクスリで速く走れたり、高く遠く飛べたりする化学反応・人体実験はやって出来ないことではない。同意があればいいわけだ。酒やタバコのような、ある意味堕落の道とは真逆のスポーツマン精神の延長にあり、スポーツマン精神として健全だとすら言える(ビジネスも絡んでくるわけだが、それはプロとして当然)。

だが、そこに縛りを設けることで、人間としての破綻を防ぐというのがスポーツマンシップというキレイごとなのだ。人類の自己防衛本能が生み出したセーフティネット、「強くなれるけど死んでどうする」ということだ。グー(クスリ)はチョキ(競技)に勝てるけど、パー(人生)に負けるという、循環論法(?)をスポーツに持ち込んでいる。それが人類の英知スポーツマンシップによる歯止めなのだ。

本人が自分自身のために勝利しようと思えば、スポーツマンシップは自己管理ということになる。世間でいうキレイごとは捨ててかまわないと思うが、自己管理できなければどの世界でも通用しない(特に勝負の世界では)。これは失敗してこそ学べる一段上のレベルの話だ。普通のサラリーマンは飲み屋でグチってればいい。許す。そういう意味で、今回のテイタラクも学習途上のスターにとっては良いチャンスだったと思う。スポーツマンシップの欠落も一回目は許す。オレって何様だ(笑)。

あびる優に続き、ダルビッシュ有の不祥事で、「ゆー」が危ない!
ダルビッシュも「老舗ダルビッシュ有伝説」をレコーディングしとくか?
ダルビッシュユーの連呼は、ちょっとヒップホップっぽくなりそう。さすが現代っ子だ。
それか、ゆーめのデュエットかな。決め台詞は、やはり「だぶるゆーでしたぁ」(ダブルユーのパクリ)。

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2005/03/05

吹雪の時間

昨日、東京の3月に数年ぶりの雪が積もった。そんな翌朝、例によって録り溜めしていた今週のドラマからまず見たのは「優しい時間」。残雪に導かれて見るにはこれしかないだろう。というより、もう今期クールは「優しい時間」に釘付けだ。

今回は猛吹雪の到来とともに、マスターの知らなかった息子の過去を知る人物の登場や、その話を知ったことによるマスターの心の変化、そしてアズちゃんのリストカットという現実までもが運ばれてきたかのようだ。ドラマの転換ポイントが猛吹雪とともに訪れた。

特に泣かされる場面でもないところで、なぜか涙が出てきた。これみよがしに泣かそうとするドラマや映画が多いなか、マスターばりに偏屈なオレ(笑)に涙させる要素は何なのか?涙しながら、人間の心なんてフィクションで描けてしまうくらい単純なんだなとか、いや日常があまりに起伏がなさ過ぎるからフィクションで涙してしまうのだとか、そういうことがアタマをよぎりつつ、家族について考えていてハッとした。

「家族って恥ずかしい」

昔、井上陽水氏がそんなことを言っていて、妙に納得したことがあった。家族って恥ずかしい。日本語としていろんな取り方が出来る言葉だけど、ボクは家族のまえで本当の自分(らしきもの)を見せることが出来なかったし、いまも出来ているとはいえない。本当の自分なんてものはないわけだが、しかし自分なりに思うには、演じ続けていたし、家族といる時間は苦痛だったりする。他人といるときのほうが楽だ。自分を演じるにも楽なのだ。

一人暮らしの気楽さも、積極的に選択してきたような気がする。孤独にしか安らぎを求められない。それは家族という恥ずかしいものから逃げているともいえる。旅人でありたいと考えた青年時代から、考えてみれば贅沢で平和ボケした話だ。空気のような存在としての家族があったからこそ、こんな偏屈な理屈がひねり出せたのかもしれない。

昨年の夏、祖母が倒れた。元気な姿しか覚えていない。共働きの両親の代わりに育ててもらった。病院で会った時、これがあの祖母なのかと愕然とした。「100まで生きる」が口癖だったあの祖母なのかと。そのときから、さすがのオレも家族について、考えるようになった。自分の成長とともに家族も年老いてゆく。その現実からも逃げていた。

「優しい時間」は、父親と息子、亡くなった妻と夫、そしてマスターの孤独。そういう関係を通して家族について考えさせる。たぶん今回は、ドラマの内容にではなく、そこから派生した自分自身に涙していたのだろうと思った。

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2005/03/02

調味料

むしょうにウスターソースを食べたくてトンカツを買った。ドボドボかけて食ったらうまかった。やはりウスターソースにはトンカツがあうな。昔はトンカツには中濃ソースしかありえないと思っていたが、いまやさらさらなウスターソースがメインになってしまい、そのうちトンカツも必要なくなるかもしれない。キャベツがあればいいみたいな。

トンカツ以外にウスターソースを惹き立てる食材がないかと、カボチャのテンプラも買ってみた。カボチャのテンプラは大好きなのだが、これにウスターソースはあわず...。だがしょうゆとかだししょうゆにこのまま移るのも、なんだか常識に屈するような気がして、梅こぶ茶をつけて食ったらうまかった。

うめマヨネーズそういえばオレは「梅こぶ茶」を梅こぶ茶として飲んだことは数えるほどしかない。ほとんどがマヨネーズに混ぜて調味料として使ってきた。最近でこそ「うめマヨネーズ」は商品として売っているが、昔「マヨネーズと梅を混ぜて...」と言うだけでいやな顔をされたものだ。だがオレの味覚はすでにうめマヨネーズを超え、梅こぶ茶マヨネーズに進化しているのだ。ついでに言えば、味噌マヨネーズもかなりいける!それこそキャベツがあればいい。うまい調味料とキャベツがあれば、それだけで事足りる昨今であった。キャベツがなけりゃ、調味料だけでもオヤツになる...。

マヨネーズはケチャップ、うめ、味噌と何とでもコラボできるが、マヨネーズとウスターソースとのコラボレーションは試したことがないな。知らない間に皿の上で混ざっていたことはあったが...。その記憶からか、あまりうまそうな予感がしない。両雄相並び立たず、か?

オリジナル調味料コラボ提案募集中。採用された作品はボクが食べた感想をアップして、その独創性を褒め称える(笑)。採用基準は安上がりなこと。

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