uti no FM
古河建純 インターネットBlog: FM TOWNS(その1)
日本語で入力してると、変換のつもりがアップされてしまって困る。今回2度目。トラバしたりpingサーバに反映されたりするときは間違いが残るわけでしょ。くやしいから、変換しないでタイトルにしてやった(^^;)。2バイトネイティブパソコン作って欲しいよ。
ま、それはともかく。ウチにもあるぞ。TOWNSじゃなくFM−7が(笑)。厳密には実家にある。中学1年のとき、担任教師の自宅に遊びに行ったら、NECのPC8801が置いてあり、クラスの成績処理の現場を見せてもらった(サマワから逃げてたわりに結構仲がよかったという衝撃の事実!)。コンピュータってすごいと思ったけれど、右脳人間のボクには緑色の文字がカタカタ出てくるその“テレビ”はそれだけのものだった。
ところが妹が買ってもらった富士通のFM−7は違った。ウチの妹は高額なおもちゃをよく買ってもらっていた。FM−7、ピアノ、ファミコンなど。だがファミコン以外はオレの方が上達したと思う(笑)。FM−7では簡単にカラーで絵が描けた。音楽が作れた。FM-7で最初に書いた絵は日の丸だったと思う。パソコン初心者が最初に国旗を描くなどアメリカ人には到底出来ない芸当だろう(笑)。
ベーマガを見ながらダンプリストを必死に手入力して英単語テスト&AtoZタイピングプログラムなんかを作っていた。当時中学生のボクはAからZまでを3秒かからず入力してた。FGHキーを人差し指を滑らせて時短入力を図るワザまで開発したのだが、ウチでしか披露できないワザに終わった(笑)。
高校2年のときには、赤川次郎原作の「一番長いデート」を脚色して映画を作った。そのオープニングを飾ったのがFM-7で作った幾何学模様だった。正方形が残像を残しながら回転し、監督・助監督・脚本(オレ)の名前を表示するのだ。なかなかかっこよくできた。
ただしパソコン画像をビデオに取り込む術など知る由も無く、ディスプレイをビデオカメラで撮影していた。エンドロールにいたっては、一度映したビデオ画像をテレビに映し、その画面の前に、透明プラ板に白マジックで書いた出演者リストを2人がかりで手作業でロールさせ、それをビデオカメラで撮影した。いまの高校生には考えられないような手作業の世界だ。
ちなみに原作に無い登場人物(女性)を登場させ、大好きだったコに出演してもらい、そのシーンだけメイン監督したあげく、「アフレコがあるけーウチに来てくれーや」とまんまと自宅につれてくることに成功したのも、この映画のおかげだ。ありがたいことです。だがその後の人生に大きく影を落とすことになったのは皮肉なことだ(泣笑)。
うーん、FM−7の思い出のつもりが、自主制作映画の思い出になってきた。コンピュータに戻そう。ボクのコンピュータの思い出は「ギーガガガガッ」という音の思い出である。データをカセットテープにセーブしたりロードしたりするとき発する音だ。これがかなりデカイ音で、これに比べればいまの冷却ファンの音なんて全然静かだ。
ボクにとってこのガガガガって音こそ、未来を指し示す音だった。コンピュータそのものだった。
ボクは20代後半にデジタルハリウッドという専門学校に通っていたのだが、入学を決めたのはヒッピーのような風体の(笑)杉山校長の著作を読んだからだった。そのなかに、スーパーコンピュータに自分のプログラムを流し込み、コンピュータルームに寝そべってその音を聴くというくだりがあった。自分のプログラムがマシンのなかをリレーしていくのを体感するのが快感だったという。こういう感覚を持てるヒッピーに興味を持ったのが入学のきっかけだった。
杉山校長とはレベルが違うが、ボクのコンピュータ体験もすべてはガガガガというカセットテープの音から始まっている。「体感できるマシン」それがコンピュータだった。容量もなく、できることも限られていた当時の“マイコン”だが、このコンピュータ体験の影響は計り知れず大きかったと思う。
ボクは子ども達にハードウェアをもっと触って欲しいと思っている。ソフトウェアは受動的にも遊べるが、ハードウェアは能動的にやらないとわけがわからない。ハードの仕組みを知り、実際に動く機械を見ることは体験学習にも有効だと思う。だから古いマシンを学校に導入して解体・組み立てなどをガンガンやって欲しいと思っている。実はそんな内容の投書を教育新聞に出したら掲載された(笑)。
すべてがブラックボックス化していく時代。それは便利さへのキップでもあるが、子どものうちにその便利さの起源にちょっとでも触れてみることは、きっと心に残る体験になるのではないかと思う。コンピュータがあたりまえの時代だからこそ、ますますそういう思いが強くなっている。ま、ガッコのように強制はしない(笑)。
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コメント
僕にとっての初代パソコンも、富士通の
FM77-AV40EX
でした。
(小学生の頃です)
F-BASICで、簡単なプログラムを作ったりもしましたが、ほとんどゲーム機として使ってましたね…。
(あと年賀状を作ったり宛名を印字させたり…、でも、当時のプリンタは、今のモノとは比べ物にならない程印字速度が遅く、手で書いたほうが700倍早かったですねw)
今はどこに行ってしまったのか、わかりません。
(しかし、カセットテープにデータを読み書きしてた、というのはスゴいですね、FM77-AV40EXには、ダブルフロッピードライブが搭載されてましたよ…HDDは…なかったんでしょうね、たぶん)
あの頃から考えると、すごい時代になりました。
今の子供達は、一体パソコンをどういうふうに捉えてるんでしょうね。
…僕も、FM77を残しておいて、娘に触らせてあげれればよかったのに、と少し後悔w
投稿: たろー。 | 2004/03/05 11:54
ゲームもカセットテープで売ってましたね。デゼニランドってゲームを覚えてます。ディズニーランドのダジャレ。
ゲームはもっぱら自宅じゃなくスーパーマーケットの軒先でやるものでした。100円が普通だったけどスーパー大王では20円で出来るって情報が飛び交ったり。いつも来ている安田くんをゲームセンター安田と呼んで、ボクは「ゲームセンター安田」という漫画を描いて回覧してました。その後、ギャラクシーアンが自宅で出来るようになってかなり衝撃的でしたね(笑)。
3.5インチフロッピーなんて見たのはついこの間のことのようです(笑)。まるで走馬灯のように思い出すな。ボクが始めて社会人になったときでさえ、HDDなんてなかったですね。40MBハードディスクがついて100万円以上してたんじゃないかな。覚えてる機種はIBMの5530とか。
FM-77はタモリさんがCMやってた記憶がありますね。
いまの子はネットワーク世代だから、コンピュータはボクらのテレビのような感覚かもしれないですね。そのうちユビキタス社会があたりまえになったとき、どういうオトナになってるか楽しみですね。
投稿: ポップンポール | 2004/03/05 17:28
「総天然ショック(色)」とかいうキャッチフレーズが世間をにぎわした時代でしたね。というかポップンボールさんと同様、「べーマガでダンプリスト打ち込み」派でした。初めての曲は日本語で「湖上の煙」というタイトルだったような。ああ、なつかしや。
投稿: FFへんしゅ~ちょ | 2004/03/05 17:48
その頃から富士通はダジャレ王国だったんですね(笑)。社風はかわらないのかなー。
ダンプリスト打ち込み派は全国にたくさんいたでしょうね。いまでもでそういうことやってる人いそう。10年前くらいにN88-BASICのWindows版がフリーウェアで出たときは、ちょっと懐かしかったです(笑)。
投稿: ポップンポール | 2004/03/05 17:55
懐かしさから思わず記事書いてトラックバックしちゃいました。
僕も体験できるハードウェアというのは重要だろうなと思ってます。
最近はプラモデルもないしね。
今のものはあまりに完成されてて、面白くない。それでもベイブレードやバトルギアとか、真剣に改造している子どもらの姿は、気持ちいいです。
古いパソコンなどを整備して動かすのは、パーツの寿命とかいろんな問題があって難しいかもな。指導できる人もいないだろうし。
なんにしても、中学生くらいになったら、道具を使うから作るへ、高校生、大学生で道具を創るへ後押しできる教材って欲しいね。
投稿: くっきも | 2004/03/06 22:14
くっきもさんは、相当パソコン好きのご様子ですね。私は中学生のころ某高専に見学に行ったことがあって、そのとき学生さんがコンピュータの基盤やら配線やらをイジリまくってたんですよ。ロボコン大会に強い高専なんで、ロボット作ってたのかもしれません。それ見て、なんかすごい面白そうだったのを覚えてます。
高専行きたかったけど落ちちゃって(笑)。ウチの中学からは推薦の人しか入れなかったなー。クラスで受けたのは5人だったけど、担任に全員廊下に呼ばれて「全員不合格!」と一言いわれて終わりました。ボクと仲良かった女の子は女子でただ一人推薦入学したけど、その後会ったら、かなり変わり者になってた(笑)。高専には女を変える魔性が宿っていると思いましたね(多少偏見入ってます^^;)。
そういえば、一時期チョロQの改造とか流行ってましたね。
投稿: ポップンポール | 2004/03/08 00:31