パッケージの限界
週刊文春出版差し止め事件でボクが感じたことは、人権か表現の自由よりも雑誌出版というシステムの限界だった。雑誌とは、出版に間に合う期限で入稿された様々な記事をパッケージングして印刷し販売するメディアだ。その中の1本を不具合だと判断する人(裁判官)がいて、そのすべてを差し止めしろと命令する。連帯責任かよ!一人の著者が書いた単行本の出版差し止めとはここが決定的に違う。
その他の記事にとっては、とんだとばっちりだ。他の筆者にとっては、たまたまこの時期に書いてしまったというだけで、まったく無関係の騒動に巻き込まれ、記事も世に出る機会を奪われる可能性がある。これを言論に対するテロといわずして何という。
だが、雑誌メディアというものが紙媒体でパッケージ化されていなければ、こんなことは起こらずに済むかもしれない。今回の記事とそれに対する差し止めへの賛否だけを問題に出来ないという部分に雑誌パッケージの限界を感じる。これが電子配信だったら、その記事だけを配信保留なりして議論すれば済むことじゃないのか(もちろん電子メディアでもメールマガジンやROMではダメで、サーバアクセス型のライセンス契約を指す)。
これはたとえば、教科書のミス問題などにもいえる。出版にミスは付き物だ。そこに無謬性を持ち込むのではなく、発見された時点で即刻修正し、そのことを知らせるシステムを作ればいい。雑誌大国でもある日本が電子立国を目指すなら、そこに手をつけるべきだ。
ボクは政党政治に対しても、まったく同じ感想を抱いてきた。政党というパッケージで、あらゆる問題が判断される時代はもう終わりにしないと。個別の問題が、すべて政党という枠で語られることの無意味さと、雑誌パッケージの限界とはまったく同じだ。政党政治の限界を語るための良い比喩がみつかったという点で、個人的には今回の騒動は意味があった。
蛇足だが、島田紳介がかつて、ぶしつけな記者会見では放送禁止用語を随所に挟んだる!という旨のアイデアを出していた。これは雑誌にも有効で、政府がどうしても発表したがっているちょうちん記事を常に準備しておいて、その発表と同時にきわどい記事を載せるというのはパッケージを逆手に取るには多少有効かもしんない。
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