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久しぶりにブログを書いてる。書き物は孤独な作業だから独身時代は出不精の私にもってこいのツールだったが、いまは毎年作っている夫婦の写真アルバムの下書きのようになってる。スマホ写真がクラウド保存されていれば、いつ何時どこにいたかも記録してくれているから、アルバムに載せるキャプションの下書きみたな使い方だ。それもツイッターで事足りることもある。世の中どんどん進歩して楽になっていく。そのうちAIがキャプションも書いてくれる時代がくるかもしれない。だがAIに私と同じ妄想話ができるかな?という気持ちだ。
今日はK-POPグループのSUPER JUNIORが来日し、ベルーナドーム(西武ドーム)でライブを行うので昼から妻が外出している。夜まで帰らないので久々にブログを書いてみようと思った次第。妻がK-POP三昧なら私は中島みゆき三昧といこう。
●時代と猫と中島みゆきの距離感
今月44枚目のオリジナルアルバム「世界が違って見える日」が発売された。後半ではこのアルバムの楽曲のひとつ「童話」を肴に妄想話を展開するつもりだが、久しぶりの中島みゆきさんの話題なので、そのまえにもうひとつ個人的には興味深いテーマ“猫と中島みゆき”について書き残しておきたい話題を。
私が「猫と中島みゆき」を意識し始めたのは、MOOK『ねこみみ』でコラムを依頼されたときからだ。そのときの経緯はこちらに書いている。猫だけでなく中島みゆきの歌詞に出てくる動物については楽譜集に付箋を貼ったりして研究してはいた。猫だけを特別に意識したのはこのムックからだったが、そこで「世情」と「猫」について書いたときに、はっきりと猫と中島みゆきと時代(楽曲の「時代」ではなくていまそのときという意味の一般的な時代)との距離感について意識しはじめたのだった。もちろん妄想でしかないが。
そのときに欄外にこんなことを書いていた。実際のページから画像にしてみた(クリックで拡大)。
ちょうど2012年「常夜灯」という39枚目のオリジナルアルバムが出る前だった。この最後のところに「10月の新譜『常夜灯』に猫は住んでいるでしょうか?」と問いかけていた。そして発売された「常夜灯」のなかには猫が出てくる歌詞はなく、それはある種予測したことであるとひとくちメモにしたり顔で書くポップンポール、つまり私がいた。
しかし、2016年に発売された21世紀ベストセレクション「前途」の中に、アルバムのタイトル曲「常夜灯」が収録され、そこに珍しく中島みゆきさんご自身が楽曲のライナーノーツを書かれていた。
そこに衝撃的な話があった。最後の一行だけ引用する。
その猫に「あたし」という1人称で名乗らせた曲。
なんと、常夜灯の主人公は、三毛猫だったのだ…。
ここに衝撃を受けたのは世界広しといえども私くらいかもしれないが、アルバム「常夜灯」に猫は住んでいないと思っていた4年間が覆された瞬間だった。重要すぎるくらい重要な三毛猫がしっかりと住んでいたのだった。
そうなると、私の妄想は反省するどころかますますグルーブするのだった。なるほどと。「世情」をライブで歌い始めた時代との「ピアニシモ」な距離感は、実は「常夜灯」のなかにすでに潜んでいたのだと。「猫」と言葉に出さないでも「猫」が歌詞の(そしてアルバムタイトル曲の)主人公たり得たことに、中島みゆきの意識の変化と時代とのかかわりが繋がったのだった。もちろんすべて私の妄想だが。
「前途」発売からすでに7年経った。7年ひと区切りで生きる私にとって時代がひとつ回った。常夜灯の猫について執筆依頼があればしっかり書けるなと思い今日まで寝かせていたのだが残念ながらなかったのでブログに書いてみた(うそ)。ただ、この「常夜灯」の主人公が猫だという4年越しの種明かしは、中島みゆきさんから私への「きみきみ、わかってないね」というメッセージだったんじゃないかと受け止めている。妄想で。
●世界が違って見える「童話」
さて今年の新譜「世界が違って見える日」だ。この新譜に入っている楽曲はひとつひとつどれも深く思索の旅に出られる。ドラマ主題歌の「俱(とも)に」や他の歌手への提供曲セルフカヴァーもある。岡崎友紀が歌ってもよさそうな70年代ポップス風の「体温」では(入江剣名義ではなかったが)吉田拓郎のギターやコーラス(体温だけ~が頼りなの~)も聴ける。この曲は大瀧詠一風(つまりはフィルスペクター風ということだが)のアレンジも実に良い。とても幸せな気持ちになる曲。
これはある意味ベストアルバムだと思った。ヒット曲集という意味ではなく、1970年代から夜会を経て人類の未来をも展望する“うたづくり”の思索の旅、かつて訪れた音楽的系譜の再解釈とこだわりの再認識、そんな感覚で聴いた。サブスクでシングル全曲が解禁となった中島みゆきだが、アルバムを聴いてこそという感覚を持つ昔からのファンは多いだろう。シングルはよそ行きの顔、アルバムは身内にみせる顔、その心は誰にもわからない。ファンはただ妄想するのみだ。
音楽系まとめサイトのナタリーでのインタビューにも重要なコメントがあった。
「とにかくウイスパーは疲れる」
うおーっ!ごめんなさい。ピアニシモな中島みゆきが好きだったなんて言ってごめんなさい。疲れてしまうんですね。Biceファンでもある私はウィスパーボイスが大好きなんです。「島より」はウィスパー好きのための名曲でした。「天女の話」もフォークソングのようでもあり童謡のようでもあり、あらゆる感情を飲み込んで小さきものへの優しい視点に凝縮した声色の歌です。そんな様々な声色の使い分けの幅もありバラエティに富んでもいるアルバムです。いつのまにかですます調になってる…。
●「世界が違って見える日」から「はじめまして」へ
何度も通して聴きながらブログに書くにはという視点で聴いた曲は「童話」だった。発売から半月経っているがあまり語られてもいない気がするので。そしてこれは妄想家の特徴かもしれないが、ふと「はじめまして」という11作目のアルバムと44作目の今作、そして「はじめまして」のなかの「幸福論」と「童話」とが脳内でつながった。それでLPレコードや楽譜を出してきて写真を撮ってみたのが上の画像だ。
単にジャケットがモノクロつながりなだけという指摘はあると思うが、それなら「真夜中の動物園」ほかいくつかある。「童話」を聴いて「幸福論」とつながってからのジャケット回帰という思考の流れだ。
●「僕は青い鳥」+「幸福論」=「童話」
「童話」という曲はオルゴールの音のようなSEで始まるが歌謡ロックへと展開する。童話の世界と現実の世界との対比をし、それがあたかもきれいごとと冷たい現実、汚れた世界との対比のように感ぜられ、子どもたちに何をどう伝えることが出来るのかを逡巡するような歌詞になっている。ある意味ストレートでわかりやすい。
「はじめまして」収録の「幸福論」のほうは、冷たい現実のなかで他人の不幸を願ってしまう自我の歌だ。世間の幸福と自身の幸福とがまるでトレードオフの関係にあるかのような「僕」の心情をストレートに歌っている。
どちらの歌詞も解は提示されない。問題提起されている。メッセージソングともいえるかもしれない。発表時期は1984年と2023年とで約40年の歳月が流れている。この年月のあいだに世界はどう変わったのか、いや何か変わったのか、少しでも良くなったのかを考えずにはいられない。
「はじめまして」の1曲目は「僕は青い鳥」だった。私がはじめて中島みゆきの歌声を生で聴いたライブの1曲目でもある。立見席で直立不動で聴いた。まだタイトルも知らず聴いたこともないのに感動した。2曲目が「幸福論」だ。青い鳥の「僕」は狩人に追われる。その狩人も元は普通の人だったのに幸せの青い鳥を見つけた瞬間豹変する。そしてそんな青い鳥は実は狩人自身の姿でもあるのだ。なんという皮肉。なんという“童話性”だろう。そんな青い鳥の次に「僕」が「幸福論」をぶつわけだ。世間の不幸を笑うのだ。なんという“現実性”だろう。
「童話」の歌詞にも青い鳥が出てくる。しかしこちらの青い鳥は童話の世界の幸せの結末として。苦難を超えて戻った故郷にいる青い鳥だ。…と思っていると、いきなりその童話の後に現実の闇が待っているわけだ。「僕は青い鳥」からの「幸福論」という2曲の物語を「童話」のなかで表現してる。怖っ!そしてすごっ!!
そして「童話」のメロディというかコード進行もこの童話と現実とのギャップを表現している。童話から現実に戻ったところ、歌詞でいえば「片付かない結末」とか「不思議な現の闇」のところ。ここ素人がカラオケじゃ歌えませんよ。難しすぎて。この不安定さ、落ち着かなさ、音楽理論的には書かないが、ものすごい違和感を感じませんか。それまでのストレートな勢いが、現実に戻ったとたん不安定になる。その不安定さから「どうして 善い人が まだ泣いてるの」のメロディのストレートさが現実のやるせなさを倍増させるわけですわ。みごととしか言えない。ここに一番注目しましたね。
●妄想家の大きな誤解を防ぐ注釈に妄想する
そんな「童話」があって、噤(つぐみ)から心月(つき)と連続して「天女の話」をはさんで最後に「夢の京(みやこ)」ですよ。そして「心月」と「夢の京」に中島みゆきさんにとっては異例ともいえる作者註がつくわけです。意図を解説してる!これが山下達郎なら作者註があっても驚きません。原稿用紙何枚でも書いてくれと思いますが、相手が中島みゆきだとそうはいかない。妄想が暴走するどっかの輩(オレか?)に先手を打っているわけです。ナタリーのインタビューによれば「大きな誤解となってしまいかねないところだけ」注釈を書いたということです。
この言葉をうけて、大きな誤解とは何ぞやと、そう妄想家はまた妄想し始める。そして「童話」に戻る。いや「乱世」から「童話」への流れと言ってもいい。ここに戻る。すると現実の厳しさばかりが浮き彫りにされてくるわけだ。
「なんだかんだハッピーな物語をポップソングは歌ってるが現実に戻れば人生そんなもんじゃないんだよ」というメッセージと受け取られかねない。それはまさに「はじめまして」の「幸福論」の「僕」そのものの姿だ。その心性のまま「夢の京」を解釈されるととんでもないメッセージとして伝わりかねない。そこに待つのは現実逃避でしかない。
その誤解(妄想)だけは、いかに中島みゆきといえども看過できなかったのではないかと考える。それは常に未来を見て、希望を抱く人、自ら生きようとする人々に寄り添ってきたシンガーソングライター中島みゆきの矜持といってもいいと思う。これも私の妄想でしかないが、もし妄想だったとしても、中島みゆきさんに許してもらえる範囲に収まったベクトルだと思う。
●「はじめまして」と宇宙大統領中島は降りてきた
さて、ジャケットの話だ。まぁ、ぶっちゃけモノクロという共通点なんですけどね。もう一声なんかひねりだすとすれば「はじめまして」は森の世界から人間界に降りてきた妖精中島みゆきがこの世界に「はじめまして」と言ってるような感じがしたんですよ。妖精でなければ宇宙人。第一種接近遭遇の図なわけですよ。2023年のいまだったら、まさにコーヒーのBOSSのCMに出てくる宇宙大統領中島みゆきの出現みたいな。
「はじめまして」という歌のほうは「はじめまして 明日」とリフレインしてます。何度も書いてますが中島みゆきはメタモルフォーゼするんです。何度も。「はじめまして」というアルバムもそんな意気込みを感じたアルバムでした。新しい服をきて明日に挨拶する。
そして40年経ったいま、宇宙大統領となって風船配ってる。この風船が地球かもしれない。この風船につかまって夢の世界に飛べる人もいれば、簡単に割っちゃう人もいるんでしょう。それはこの風船をもらった人類次第。だけど宇宙大統領中島みゆきは、繊細な風船を未来の人類に託そうとしてる。そんな「童話」を妄想して今回はお開きに。書き切った!
2022年末のことしの漢字を書き終えて、ようやく備忘録に取りかかれる。2021年末は12月30日に書いていたので、その翌日から。大晦日はコンラッド東京のアフタヌーンティへ。前にフレンチのコラージュさんには食事に行ったことがあったけどアフタヌーンティは初めて。沈みゆく2021年末の夕陽を眺めていました。
年が明けて1月には日比谷OKUROJIにあるエイトベースへ。我々夫婦とK氏O嬢の四人でVリーグを見に行く予定だったけれどコロナ禍で試合が中止になり急遽飲み会となりました。如空という地酒が美味しかった。
二酸化炭素濃度を測るメーターも購入。飲食店では800前後が正常レベルというけれど、閉め切っているとすぐに1200レベルを超えます。でも5分も窓を開けておくだけで700くらいまではすぐに減少します。これを肌感覚で知れたことは良かったな。1月には財布も新調しました。
2月にはメインのテレビを買い替え。置き場の寸法を測って行きSONYのブラビアを購入。画面の明るさが断トツに良かったのとテレビ台に置く脚の位置も決め手でした。良い買い物でした。最近のテレビは完全に通信機器なのでwifi必須ですが、wifi機器が増えすぎてテレワークをするには同時使用機器を考えてやらなければならなくなりました。ブラビアコアクーポンも期限までに使わなければ。妻は2月にアメリカン・コッカースパニエル風のパーマをかけました。
中銀カプセルタワーが50年目の今年取り壊されると聞き、一目見ておこうと出かけました。黒川紀章のメタボリック建築の傑作です。この後、北浦和まで足を延ばし、そこにあるカプセルのモデルルームも鑑賞しました。
この時は見学者はほとんどいなかったのですが、4月に再度訪問したときには写真撮影に来ている見学者が結構いらっしゃいました。年末にはもう更地になっています。一等地ですからこの後どんな建物が立つのかな。
3月には箱根へ。正月に何気なくネット予約サイトを見ていたら、いつも取れない保養所が空室になっていたので思わず予約し勢いで行きました。毎回箱根で巡るルートは決まっていてポーラ美術館ともうひとつくらい美術館(今回は岡田美術館)を巡り、海賊船やロープウェイで移動して餃子センターで餃子を食べるというのが基本です。しかし今回は富士屋ホテルあたりを散策してカフェ・ド・モトナミさんでかき氷などを食しました。また、宮ノ下あたりに行くならと松本清張の『蒼い描点』の舞台のあたりを散策しました。坂道で結構大変でした。
5月4日には森の美術館へ。亀山裕昭さん初の個展で在館されている日だったのでご挨拶くらいは出来るかもと行ったのですが、信じられないくらい充実した日になりました。そのときの様子はブログにも書きました。亀山裕昭さんの作品は今後もずっと注目していきたいですね。
5月11日に上島竜兵さんが亡くなりました。ダチョウ倶楽部についてはひとくちメモでも何度か書いてます。竜兵上島のオチのない話とか竜兵会の書籍とか。太陽さまと呼ばれた明るいキャラクターだったのでその死は衝撃のひとことでした。5月には松山千春さんのコンサートにも行きました。正直、声は出ずらくなっていたチー様ですが、そのしゃべりは健在です。
5月28日にはガレリア表参道原宿店へ月乃カエルさんの個展を鑑賞に行き、Ammonaite Blue に一目ぼれしました。売約済みだったのですが、お店の方から直接カエルさんにその場で電話してもらい作っていただけることに。感謝感激です。月乃カエルさんの作品もアジア中心に人気が出そうですし、これからも注目したいと思います。
このあたりまでは昨年の夫婦アルバムには収録済みなので、ここからが備忘録の本番です。長かった(笑)。
●2022年後半
7月に月乃カエルさんの Ammonaite Blue 2022 が届き飾りました。うちの壁は結構多くの美術品が飾ってあり空間が少ないのですが、今回は小品なので毎日目につくところに飾れました。
7月29日は岩手県盛岡市の山下達郎ライブに行く予定でしたが、10日前に山下達郎さんのコロナ感染が公表され中止になりました。当時の隔離期間は10日間だったのでライブが中止になるかどうかギリギリの日程でしたが2日前に中止が発表されました。しかし新幹線のチケットも宿も取っていたので妻と相談し旅行と割り切っていくことにしました。そして江口寿史「彼女」展を鑑賞できたのでした。迷わず行けよ行けばわかるさの精神で正解でしたね。
翌日は平泉まで南下して金色堂を鑑賞しました。妻は初めてでした。私は震災の年(2011年)の9月に被災地を回った後に訪れて今後の復興を祈ったことがありました。今回は純粋に観光で訪問し、川瀬巴水の絶筆版画「中尊寺金色堂」になりきり写真を撮ったりしました。
8月はJALのマイルを消化する必要もあったので宮崎県まで飛行機で飛び高千穂峡に行きました。そこからバスで博多へ行き、久しぶりに山口県の実家にも寄れました。この旅行記は(1)から(12)まで詳細に書きました。8月はほぼこれだけしか書いてませんが…。
9月17日には静岡の妻の実家に帰省しました。その帰りに今年2度目の箱根泊。ポーラ美術館では開館20周年記念のピカソ展「青の時代を超えて」を鑑賞しました。22日には曼殊沙華の群生地で有名な巾着田に行きました。私が2009年にスーパーカブで遠征(?)した懐かしい場所です。妻はもちろん初めてです。そこから途中で雨に打たれつつ高麗神社まで歩きお参りしました。
10月1日(土)妻は友人たちとラグビー日本代表のオーストラリア戦を観戦に。私はテレビ観戦しながら自宅で弾き語りしまくり。でもこの日、アントニオ猪木さんが永眠されました。闘病生活までも映像で残し偉大な昭和のプロレスラーが旅立たれました。猪木さんの「道」は何度も暗唱しました。ひとくちメモでも「1976年のアントニオ猪木」「アントニオ猪木はトランスナショナルの体現者」でリスペクトしています。
10月8日(土)には江の島と茅ヶ崎へ。私は茅ヶ崎で暮らしたことがありますが江の島上陸は初めてでした。とても気持ちがいい島でまた行きたいです。茅ヶ崎では「THE 新版画 版元・渡邊庄三郎の挑戦」を鑑賞。こちらが本命でした。箱根で川瀬巴水の「あけび橋の月」を見て新版画に興味を持ち、その創始者の渡邊庄三郎のことも知りました。そのときのことも2016年にひとくちメモで書きました。その流れでどうしても見ておきたかった美術展でした。素晴らしかったです。
10月15日(土)妻は友人たちと仙台旅行へ。ショーパブなどにも行ったようで、めっちゃ羽を伸ばして帰ってきました(笑)。その間、私は南沙織が歌う筒美京平作品を大音響で聴いたり、複素数平面について考えたり、スタンリートゥリッチの映画が見たくなり「スーパーノヴァ」をアマゾンプライムで鑑賞したりしてました。
11月に入りちょっと多摩方面に散歩しようと立川のグリーンスプリングスというショッピングモールに北欧展を覗きに行き、その後は国立の古民家カフェとして知られているカフェおきもとでフレンチトーストをいただきました。線路沿いを歩いて行ったのですが、店の周りだけがいきなり森のように風景が変わり、その静かな雰囲気がとてもリラックスできる空間でした。ただ人気店なので予約していく方がよさそうです。
11月16日(水)は王子にある北とぴあでナカハチ・オンタイム#36というお笑いライブへ。東京ボーイズが主催のライブでゲストにナイツ、細野晴臣、神田伯山、ねずっちという豪華な布陣でした。細野さん目当てで行ったのですが、神田伯山の講談には引き込まれてしまいました。これはチケットが取れないのもうなずけます。ぜひ単独ライブも見てみたいと思いました。
11月26日(土)には戸田駅前のスープカレーシーエスでスープカレーを食べ、まめしばコーヒーで一息ついた後、池袋へ。池袋は久しぶりでした。そこで妻がローズバッドのVEGANCODEという異素材ミックスジャケットコートを購入。色をみた瞬間に二人ともビビビッと来たのです。妻はどうやら異素材ミックス系の服が好きそうなのです。私もミクストメディア作品が好きだから、そういうとこの趣味が合うのかもしれないです。
妻のコートはこれ以外にオランダのコートブランドspoom.が今年20周年で出したハーフコートを通販で購入しました。セレクトショップで観てこれも二人とも気に入っていたのですが店舗展開しているサイズは1サイズだけだったので、店舗で確認した後にサイズ違いを通販で注文しました。JALともコラボしているブランドでした。
12月もいろいろイベントが多い年でした。12/9(金)は二人で休暇を取り銀座トトキで自然派フレンチのランチ。こちらの十時亨シェフは今年の料理マスターズ倶楽部でシルバー賞を受賞されたシェフ。ちなみにゴールド賞は2020年に宿泊した箱根のオーベルジュ・オー・ミラドーの勝俣登シェフでした。そんな縁も感じて食べに行ってみようと思った次第です。野菜が美味しかったなー。
その後、昨年末にアフタヌーンティを食べに行ったコンラッド東京を再訪。今回は宿泊で。この日しか予約できなかったからこの日休暇を取ったというのが真相ではあるけれど…。某ポイントを利用しての宿泊でした。エグゼクティブスィートルームにアップグレードが数千円で出来た(通常は2万円程度)のでアップグレードしました。通常なら二人でこの時期25万円程度の部屋にポイント+数千円で泊まれたのでラッキーでした。
夕食は隣のパークホテル東京にあるアートカラーズダイニングで。このホテルは全体が吹き抜けで美術館のような造りになっており現代美術作品を鑑賞できます(購入も可能)。その後、プリンス芝公園まで散歩してルイヴィトンが草間彌生さんとコラボしているオブジェを鑑賞しました。草間彌生さんの黄色い南瓜は、今年の夏旅の福岡市美術館や2019年の直島でも鑑賞していてご縁があるのでよい思い出になりました。
翌朝のコンラッド東京の朝食ビュッフェは納得の実力です。10:30まで食べられるのもありがたいですね。チェックアウトは11:00で、せっかくなのでエグゼクティブラウンジで無料のジュースを飲みながらチェックアウトしてみました。
その後、六本木ヒルズへ向かい、13:00から予約していたユーミンミュージアムへ。この展示は松任谷由実のキャリアを振り返りつつ、ステージ衣装や楽譜や歌詞の生原稿、美大生時代の絵画などを鑑賞できます。2019年に行った細野晴臣さんの「細野観光」と同じ場所でした。
そこから国立新美術館まで歩き「躍動する現代作家展」へ。コンラッド東京に向かう道すがら、銀座にある画廊「美の起原」の近くで月乃カエルさんとすれ違いました。妻が気づいたのですがすでに通り過ぎた後で確証が持てず声をかけなかったけれど、それをツイッターに書いてみたところ月乃カエルさんから「ワタシですたぶん」との書き込みが!また機会があればご挨拶したいです。
12月11日には坂本龍一さんの配信コンサートを自宅で視聴。闘病生活でライブ一本を通しで行う体力がないとのことで、NHKのスタジオで1曲1曲渾身の演奏を録画してモノクロ映画のような作品に仕上げられていました。この美意識はサカモト教授らしかったです。その後、来年の新譜「12」の全曲先行配信もありました。スケッチのようにつくられた楽曲群にいまの教授の心境が表れているように思えました。昼と夕方の2回視聴しました。
12月20日(火)、昔のバンド仲間から新宿御苑にあるオンリーイエスタディというフォーク酒場での忘年会的な歌会に誘われました。今年4月にも誘われていましたがそのときは忙しくて断っていたので今回は参加しました。主催は編プロのTさんと某出版社のM氏。M氏とも知り合いだったので緊張することもなく何年振りかのフォーク酒場を楽しめました。二次会では中島みゆきを歌いまくり。
12月25日(日)には朝から穴八幡宮へ。こちらも毎年恒例になった一陽来復御守をいただきに。2019年は冬至の日に行って3時間近く並んだけれど今年は20分もかからずお参りできました。コロナのせいなのか日付のせいなのかわかりませんがこんなに違うものかと思いました。その後、ニューオータニまでこれも恒例となりつつあるバーゲンセール。私の出る幕はなく荷物持ちに徹します。昼食は赤坂サカスまで行きましたが行列店か食指が動かない店かしかなくグーグルマップを開いたところ、前に行った永田町のハンバーガー店オーセンティックまで歩いて8分で着くことがわかりそこにしました。ここのベーコンチーズバーガーは食べやすいし美味しい。
というわけで結構旅行もしたりコンサートに行ったりイベントは多かった気がします。山下達郎ライブは来年2月16日(木)に延期されました。平日の盛岡まではさすがに行けないかとキャンセルするためにチケットをダウンロードしたら前から5列目という信じられない席で置かれた状況が変わりました。キャンセルせずなんとかやりくりすることに。今度は流れませんようにと祈りながら、夏とおなじ盛岡のホテルを予約した年末です。
2022年の年末。コロナ狂詩曲とでもいいたくなる場当たり的な政治や行政の数年間がいまも続いている。あまり年末という気分でもないが、毎年6月頃に印刷する夫婦アルバムのための備忘録として一年間を振り返ることにしている。それと今年の漢字を選ぶもの何気に楽しいし。私家版ことしの漢字は「数」にした(画像は毎年おなじみの漢字辞典オンラインさんから引用してます)。 長くなるので、ことしの漢字エピソードと私的な出来事の備忘録は分けて書くことにする。まずは固い話から…。
●外国為替・暗号通貨における「数」
数字や数値に翻弄された年だった。米国FOMCによる4会合連続0.75%の利上げに伴い、金利差取引によって年初115円台から10月には151円を超える円安に(この動きは市場原理)。その後は財務省・日銀による為替介入(円買い)で11月には137円台、更に12月には日銀黒田総裁の口先介入(YCCを0.25%から0.5%までに緩和)で130円台まで円高に突っ込んだ(これは為替操作的)。
これほどの投機的な動きは近年になく140円越えは24年ぶり、130円台は約20年ぶり。来年前半には米国に景気後退が観測されるだろうが、日米金利差を日本側から埋めるべく動くことは日銀が自分の首を絞めるだけであり米国の金融政策頼みの漂流は続く。
投機的といえば暗号資産(仮想通貨)の動きも輪をかけてボラティリティが高く投機的だった。代表的なビットコイン(BTC)は2020年5月の半減期に100万円だったが、2021年10月には先物ETFが登場し700万円台に達した。Web3.0がもてはやされた時期とも重なる。しかし2022年11月には大手取引所FTXの破綻などもあり220万円台まで下落する。まさにジェットコースター相場だ。次の半減期まではこのままだろうか。
米ドルなど法定通貨にペッグしたステープルコインも登場したがまったく安定しない。登場したばかりであり収束するまでには時間がかかるとの見方も出来るが、これは実験室の出来事ではない。仮想空間で起きている数字の動きでしかないが現実社会で生活者を直撃する。仮想空間が現実社会を浸食し始めたともいえる。
Web3.0を担うはずのナスダック企業も株価は軒並み下落。個人的にはこの危機を乗り越えた先にあるWeb5.0あたりでようやくビジネスツールとして新興勢力が登場してくれるのではないかと期待はしているが、こちらの寿命が間に合うか…。生きる時代は選べない。現在進行形のいまを生きるしかないのだ。
●政治における「数」
数という漢字にはくわだて、たくらみ、運命といった意味もある。前者は「権謀術数」の数だか、これらの言葉が似合う安倍晋三が7月に奈良県で選挙応援演説中、暴漢の手製銃で撃たれ死亡した。安倍晋三が祖父岸信介の代から広告塔を務めていた新興宗教団体(旧統一教会)への恨みからの犯行だった。暴漢の生い立ちには永山則夫を連想させる壮絶さがあり、ドラマ「北斗」そのものだとも思った。安倍晋三にはこんな死に方をしてほしくなかった。ちゃんと獄につながれてほしかった。
2月にはロシアがウクライナ侵攻を開始。戦闘は長引き、年末にも終結の糸口は見えない。資源大国どうしによる紛争は資源輸入国の経済にも大きな影響がある。ウクライナ侵攻があり得ることはずいぶん前からゴルバチョフ元書記長も指摘しており、米国を中心とした西側諸国が避けようとすれば避けられたと私は考えている。
西側諸国では一方的にロシアこそ悪の帝国だとレッテルを貼りがちだが、火に油を注いでこの紛争を利用したのは米国だ。米国を中心とした西側諸国はロシアが侵攻しても早期に終結可能だと見誤ったのではないかと思う。 だからこそセーフティゾーンからウクライナを利用して政治的優位を保とうとした。ウクライナが東から西へ軍事同盟を寝返ろうとしていることを利用しロシアとの紛争回避の道を取らせず、ウクライナを生かさず殺さずの立場において武器を供給し続けた。
その結果、ロシアは想定通りに侵攻し、扇動家ゼレンスキー大統領が率いるウクライナとの平和的な第三の道は閉ざされた。ロシアにも米国にもウクライナにも戦争回避をしなかった責任はある。もはや平和的解決はないかもしれない。核兵器を持つロシア、中国、北朝鮮、太平洋上の米国に囲まれた原発大国日本という極東情勢は深刻度を増す。核の傘には穴が開いている。いつ降り注ぐかわからない。
悪政支配や収奪を暴力で解決しようとするのは人類のもっとも根源的な動物性なのかもしれないが、それを克服しようとするのが民主主義という“どんくさい”手法であろう。社会主義的自由主義といういまだ真に実現したことのない政治的可能性も模索していく必要があると思う。
しかし人類は強欲資本主義こそが自由主義だと考え始めている。強欲な者ほど得をする社会こそが自由だと。それが地球そのものの崩壊につながる人新世の時代を生きていることを今一度立ち止まって考えるときが来ている。ただそれをしないのが人類の多数派だろうとも思う。民主主義は少数派や弱者に耳を傾ける多数派のための規律であり多数派の暴走を許す手法ではないと思うが、すっとぼけた権力者による数の力が暴走している。その暴走によって地球が壊れていくこともまた数字で読み取ることが出来る世の中だ。
●読書における「数」
今年は数学系の読み物を多く読んだ年だった。その最初は数学系というには多少遠いが『コードガールズ』だったか。大戦中の暗号解読に従事した米国女性たちの日常といった趣き。日本人としては敵対国の諜報活動の裏話であり忸怩たる思いもあるが読み物として面白い。この書籍を読む前にテレビで映画「ドリーム」を見ていた。こちらはNASAの宇宙計画で計算を担った女性たちの物語で共通性があったから目についたのだと思う。
たまに理系書目を読みたい年があり、2008年前後もそういう年だった。ただ買い込むだけ買い込んで読んでいなかった書籍もあり、それを引っ張り出して読んだりしている。そんななかから読んだのが『素数の音楽』で、この面白さが今年数学系にはまった決定打だったと思う。いま読んでいる『異端の数ゼロ』も昔から積読状態だったが、こんなに面白かったのかと思いながら読んでる。『数学する身体』や『四色問題』、『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』などもまだ読み切れていないがこの流れで読める気がする。
新たに購入した書籍や文庫もある。『でたらめの科学』は面白かった。デタラメ(乱数)を作ることがいかに難しいか。メルセンヌ・ツイスターなんて言葉はついつい言いたくなる(笑)。賢そうにみえる。『宇宙と宇宙をつなぐ数学』は最先端の数学の入門編のさらに入口といった読み物だった。こういう最先端の話を中学生に話してから数学を教えた方がいいのではないかと思う。『経済数学の直観的方法』は中心極限定理について手っ取り早く読みたくて購入したがこれも面白かった。説明がスパッスパッと切れ味よくてスラスラ読めるのがいい。
挫折しそうな書物もある。ポアンカレ予想のアンリ・ポアンカレ著『科学と仮説』は笑ってしまうほど難解だった。日本語なのにさっぱり頭に入ってこないこの感覚はある意味新鮮。それでも半分くらいは読み進めた。すこし積読しておくとまた次のタイミングが来るのではと期待している。
タイミングって大事だよ。特に知的好奇心には。だから学校教育って嫌い。カリキュラムどおりに好奇心なんてわかないっつーの。そんな時に何か月も勉強したって身に着かない。それほど素直じゃないし頭良くないし飽きっぽいんだ。
しかしほっとくと年月だけが過ぎていく。だから受験ツールとしてだけ使えるツールと割り切ってみんなやってる。それこそ無駄な時間の使い方だと思うけどそれで未来が開けると思ってる人が多い。画一教育が生んだ画一価値観で同調圧力だらけの隣組社会だから、それに耐えた人間にご褒美的に労働と報酬を与える。不条理この上ないが、その幻影の信者がいまの総理大臣岸田文雄だ。その中でうまくやっていくのが人生ならそれでいいけど。ボクはやらなかった。それだけのことだ。
いまになって振り返ると、ひとつでも好奇心を満たせるものに出会えたならそこに自身のリソースを集中したほうがいい。結局人生を豊かにするものって自分の知的好奇心に導かれて身に着けたものだけなんだよ。知らんけど(=2022年の流行語)。
直近読み終えた『数学小説 確固たる曖昧さ』も大変面白かった。数論や幾何学の歴史を小説仕立てで読める。小説としてもとても面白かった。現代数学には物理学が不可欠というか、そこに行かないと面白い読み物が広がらないので、来年は物理学にも視野を広げて読んでいく予定。『すごい物理学講義』はすでに購入済みだ。『時間は存在しない』(未読)の著者による講義だが「はじめに」だけ読んで期待大。
徳山の実家に帰るか埼玉県まで帰るか、高千穂峡に着いた時には決めていなかった。しかし8月13日には首都圏に台風8号が上陸確実だった。そんな夜に壊れたスーツケースを持って歩きたくないなとも思ったし、せっかく九州まで来たので三年ぶりの帰郷にしようと実家に寄ることにした。事前に帰るかもいれないことは伝えていたので一泊できることに。
そうと決まったら、後は帰るだけ。と思っていたら「Tシャツ買うの忘れてるでしょ?」と妻。そうだった。南蔵院でおそらく竜神に水をかけたときに飛び散った水で妻の白いシャツが茶色く汚れてしまっていたんだった。
そこで目の前にあったキャナルシティのユニクロに寄ることに。入口前で8月9日に発売されたモンスタースーパーコーラを無料配布していたのでそれをもらう。ユニクロではモスグリーンのTシャツを購入。ざっくり着たいからとメンズを購入した。レジですぐに着替えたいというと、レシートを試着室で見せれば着替えられると言われたので、ユニクロで着替えた。ありがたい。
あとはほんとに帰るだけなので、話は少しそれるがカエルの話を。キャナルシティ博多イーストビル前には、ラッキー・フロッグというカエルのオブジェがある。今年はカエルと縁のある年だなぁと感慨深かった。そこでこんな写真を連ねてみた。
5月にガレリア表参道原宿に月乃カエルさんの個展を見に行って、そこでビビビッと来た Ammonite Blue という作品があった。すでに売約済みだったのだが、ギャラリーの方にその場で月乃カエルさんに連絡をとっていただき、Ammonaite Blue 2022 という作品を作ってもらえた(左から2枚目の写真)。それが届いたのが7月だった。いつも目に付くところに飾ってる。
7月には岩手旅行で平泉に行った。平泉のマスコットはカエルのケロ平だ(右端の写真)。平泉駅にもしあわせカエルという地味な石像があった(左端の写真)。
そして今回の九州旅行。南蔵院には3匹のカエル像があった(中央の写真)。見ざる・聞かざる・言わざるのカエル版か。個人的には見て帰る・聞いて帰る・言って帰るな性分の私だ(猿の場合は、そむけざる・ふさがざる・だまらざる)。
で、キャナルシティ博多のラッキー・フロッグ(右から2枚目の写真)。5月から8月まで毎月のようにカエルと遭遇していた。
というわけで、幸せのかえるを見たところで、実家に帰るため、15:10頃、預けていたスーツケースを取りに三井ガーデンホテル福岡祇園に戻った。チェックインの列に並び、荷物の受け取りだと告げると奥から出してきてくれたが、ここでもちょっとハプニング。フロントの女性の時計のベルトが私のリュックサックに引っかかって取れない。おそらくステンレス鋼の網目のベルトだ。それでフロントの女性は腕時計を腕から外して、ハサミを取ってきますとフロントに戻った。その間に私がちょっと時計をずらしたらハサミでリュックの繊維を切ることなく外れて事なきを得た。
博多駅について緑の窓口の切符販売機へ。博多駅には新幹線の始発があり、徳山までならこだまで帰れるので、自由席でも必ず座れる自信はあった。ただスーツケースがそこそこデカく、ハンドルが2つとも壊れているため、網棚に載せるのは厳しい。そこで置き場を確保すべくドア前の指定席を確保した。特大荷物は別料金だが、特大ではないが荷物置き場を使いたいという希望を券売機に入れると車両の端の席だけが選択肢に出てきたので、無料で置くことができた。
乗車券は東京まで購入。博多からなら片道6日間途中下車できるためだ。15:54発のこだま号があったので、それに乗り16:37着で徳山(周南市)の私の実家に帰った。実に3年ぶりだ。妹と妹の3女が車で迎えに来てくれた。
実家にはダックスフンドがいた。3女はトリマーだが動物取扱責任者の免許も持っている。ブリーダーから繁殖引退犬を譲り受けたとのこと。繁殖引退犬だからかほとんど鳴かない。しかしとても元気な犬だった。3女が子どもの頃から動物にめっちゃ好かれるところを見てきているので天職だなと思った。長女も次女もそれぞれの特技で仕事についていてなかなか頼もしい三姉妹に育ったものだと感じた。
両親も元気でなによりだった。父は足が悪く杖をつくことが増えたといっていたが、体調は良さそうだった。母も声の張りは昔のままで十年くらい前に手術した足の調子もよさそうだった。たった一日の帰郷だったが3年ぶりだ。帰って良かったと思う。翌日は昼食をおごらせてくれと、妹の運転で両親と妻の5人で鐘楼亭に行き、御膳を食べた。
その後、徳山駅に寄り、東京行の新幹線のチケットを買うことにした。博多駅のような始発はないが、昨日調べた感じでは、座れないことはなさそうだった。しかしこの時点で並んで座るにはグリーン車しか空いておらず、グリーン券を購入し、いったん実家に戻った。
その途中、ヤマト運輸にも寄って壊れたスーツケースを自宅に送った。5年前にチャージしたヤマトメンバーズカードが今月切れるらしいので、それを使った。184円残ってしまったが仕方がない。ほとんど使わないのに口車に乗せられて5年前に作ったカードで2000円超を無駄にせずに済んだ。チャージして5年で没収というメンバーにはもうならない。
15:38発の徳山発ののぞみ号で東京駅19:54着。ずいぶん早くなったものだ。新幹線で6時間という時代との比較だが。宮崎・博多・山口を巡った夏旅2022夫婦編はこうして終わった。翌日から福岡や中国地方にも線状降水帯が発生し豪雨になった。天候には恵まれた旅だった。これから毎年気候変動が厳しくなることだろうが、こればかりは運次第。トラベルはトラブルの精神で乗り越えたい。
南蔵院を出たのが、12:32だった。次の電車は12:35だが、さすがに間に合わないと思いその次の12:53に乗るかと思いつつ駅のホームに向かったらベルが鳴り始めた。12:38だったが3分遅れで発車した電車に乗れた。この日の乗客はそれほど多くなかったが、多少余裕を持って乗せてくれるのかもしれない。とりあえず良かった。
13時過ぎに博多駅に戻ってきて、その足で南岳山東長寺に向かった。空海(弘法大師)が最初に開山したお寺だそうだが、木造座像としては国内最大級の福岡大仏がある。無料で見ることが出来るが、蝋燭と線香を買って参った。また福岡大仏の台座の中にも入れる。そこは地獄極楽めぐりと呼ばれ、様々な地獄絵図を見た後に、真っ暗な通路を通って外に出る。この暗さが尋常じゃない。漆黒の闇なのだ。
まずは夏旅2019で行った直島の南寺か。ジェームズタレルと安藤忠雄とが作った南寺は、まさに漆黒の闇をアート作品として体感する寺だった。今年の瀬戸内芸術祭は行けないので代わりに読んだ『直島誕生』には家プロジェクトについても詳しく書かれており、読み応え充分だった。
福岡大仏のほうは、手すりを左手で触ったまま進み、右手で途中にある仏の輪を触ることが出来れば極楽に行けるという趣旨だった。私は危うく素通りするところだったが、後ろから妻が「輪、輪!触って」と叫んだのでギリギリ触ることが出来た。どうやら私は妻なしじゃ極楽に行けないようだ。
暗闇を手すりに沿って進むというのは、2001年にハワイでダイヤモンドヘッドのなかに入った時を思い出した。そこも暗闇だった。体勢を崩して右手を出したところに外国人のおばさんがいて、なにやら叫ばれたことがある。それも思いだした。パードンと言って先に進んだ。パードンは映画「ラ・ブーム」で覚えたセリフだった。
もうひとつ暗闇といえば、知人がやっていた暗闇体験イベントもある。真っ暗闇の中で精進料理を食べるというイベントで、五感を研ぎ澄まして食べることに集中するという変わったイベントだった。これもどこかの寺でやっていて誘われたが遠慮した。もう20年以上前の話だ。
暗闇というものは様々なことを思い出させる(違うか?)。この福岡大仏は撮影NGだったので写真がなく、思い出話が長くなった。
福岡大仏を後にして、遅めの昼食は、博多とんこつラーメンだ。博多に来てとんこつラーメンを食べずに帰るわけにはいかない。どのラーメン屋が良いか前々から考えていたが、いま人気があり、歩いて行ける距離に博多一双祇園店があったのでここにした。ホテルまでの途中でちょうどいい。
覚悟はしていたが14時過ぎでも行列していた。スーツケースを持って並んでいる客も多い。ハーレーダビッドソンが2台並んで横づけしていた。横浜ナンバーだった。30分強並んでようやく順番が回ってきた。
前のギャル2名が麺の固さを聞かれて「カタめで」と言っていたが、その後「麺の固さ変えられますか?バリカタに」と注文し直していた。しかし我々は「麺の固さは?」「ふつうで」「両方、ふつうですか?」「ふつうで」
おそらくラーメン好きなら豚骨ラーメンを固さ「ふつう」で食べるなんて素人丸出しなんだろう。店員さんも一瞬ためらったように感じた。私もラーメン行脚をしてきた身であるからそのくらいは知っているが、腹が緩くなることも知っている。健康のためにも、もう麺カタを食べることはないと思う。とんこつに限らず。時は流れる…。
一双の味玉チャーシューメンは美味かった。それほどハードなとんこつでもなく、とてもまとまりの良いスッキリとんこつだった。替え玉はしなかった。妻は本場での初とんこつラーメンだっかが「思ったよりはあっさりしていて食べやすかったけど、もっとハードなのも食べてみたくなった」という感想。最初に魁龍とか大砲ラーメンとか、そういうイメージを語り過ぎていたから、一双のすっきりとんこつにそんな感想を持ったのかもしれない。また「食べるのが遅いから、この細麺なら麺固めでも良かったかも」とも。麺固信仰に与するわけじゃないが、それは一理あるな。今度はくっさいとんこつラーメンを食べに行こう。麺固めで。
8月13日(土)朝は三井ガーデンホテル福岡祇園のレストランで朝食ビュッフェ。これは予約していた。今日も歩きそうなので、しっかり食べた。
10:00前にチェックアウトしたが、荷物は預けて出かけた。当日中であれば預かってもらえるので助かる。博多駅に向かい、在来線の北福ゆたか線で城戸南蔵院前まで約30分の電車移動。途中見える道路は大渋滞だった。お盆でもあり南蔵院を目指す車の渋滞なのは間違いない。
駅に着いたら、帰りの電車の時刻表をスマホで撮影し、お寺に向かった。なかなかの人混みだ。ここはブロンズ製としては世界一ともいわれる巨大涅槃像が有名だが、観光地ではなくお寺なので、供養で来られている家族も多かった。
巨大涅槃像までの散策も見どころが多く見せ方上手なお寺だ。順路(?)に沿って歩き、階段を上ると涅槃像の頭部が見えてくる。これは一見の価値ありだ。
涅槃像の中には入ることも出来る(有料)。また、涅槃像のなかでだけ販売されている足裏をデザイン化したお守りもある。ここの住職は宝くじで1億3000万円当てたことでも有名で、宝くじ祈願に来る人も多いお寺だ。このお守りのなかにもスクラッチくじが1枚入っていた(外れた)。
涅槃像の足裏の文様も観光客が溜まっていて人気スポットだった。涅槃像の体内から出たところで、突然の雨が降ってきたので、建物内に避難した。本降りかと思ったが20分もするとすぐに止んだので、再度涅槃像のところに戻った。仏像というのは雨にぬれても美しいものだから。あらためてぐるりと回ったのち、不動明王側に降りて、売店でお菓子を買って帰った。
高千穂バスセンターを出て3時間17分、ごかせ号は14:27に博多バスターミナルに到着。さすがバス路線が発達した博多のターミナルはデカかった。ホテルのチェックインは15:00からだったが、多少早くても荷物くらいは預かってもらえるだろうと予約していた三井ガーデンホテル福岡祇園へ向かうことにした。壊れたスーツケースを一刻も早く置きたい。
ホテルに着くとすでにチェックインの列が出来始めていた。混雑する時期でもあり、15時を待たずにチェックイン出来た。部屋に荷物を置いて外に出る頃には行列になっていて、20分程度でも早めに来て良かったと思った。
博多は今日の午後と、明日の日中観光をして、明日の夕方に実家の山口県に向かうことにした。ここからは何もチケット予約をしておらず、得意の行き当たりばったりで気楽だ(笑)。
まずは大濠公園にあるジャックというお菓子屋を目指した。ここは福岡在住のMりんに事前に聞いていた名店だった。すでに夕方で買えるケーキも少なくなっていたが、とりあえず店名と同じジャックとシューアラクレームは2個ずつ買えた。あとは日持ちするドゥミセック(半乾き菓子)のケークオランジュとガレットブルトンを買った。保冷剤は一時間分なので、先を急いだ。
大濠公園のなかにある福岡市美術館の2階に草間彌生さんの黄色い南瓜があることは事前に調べていた。ここにある黄色い南瓜は、草間彌生作品の初めての野外彫刻作品だそう。黄色い南瓜といえば、2019年の夏旅で出会った直島の南瓜が有名だが、福岡市美術館の作品もぜひ見ておきたいと思って訪問した。
都市独特の照り返す暑さのなか、大濠公園を歩いて福岡市美術館についた。広い外階段を上ると黄色い南瓜が見えてきた。このフォルムの存在感には恐れ入る。しばし南瓜と戯れて建物に入って涼んだ。時間も遅いので有料展示には入らなかったが、インカ・ショニバレCBEのウインド・スカルプチャーや、KYNEのデカい壁画(12月までの限定公開)などを見ることが出来た。
保冷剤も切れるので、ホテルに一回帰ることにした。護国神社を通ってバス停まで出てキャナルシティ博多までバスで移動。高千穂ではほとんど使うことがなかったSuicaが使える。これは助かった。都市以外に国内旅行に行くときは小銭が欠かせないが、都市部はカードでほぼ事足りるのがとにかく便利に感じる。オートチャージは使えないので、博多駅に着いたとき若干現金でチャージしておいた。
ホテルに戻り、ジャックのケーキを食べて一休み。夕食をどうするか検討した。結構歩いたので疲れてもいて、あまり遠出をする気はなかった。たまたまホテルの隣に「もつ鍋二代目楽天地」があった。博多名物のもつ鍋でもあるし、妻も初めての福岡の夕食に地元名物というのは興味ありということでここに行ってみた。混雑していたが、カウンターなら座れたのでカウンターで食べた。隣は韓国人の女子二人組、向かいには中国人っぽい男子二人組と日本人カップルという布陣。さすがに国際色豊かだ。
8月12日(金)2泊したソレスト高千穂ホテルを10:00にチェックアウトして高千穂バスセンターに向かった。何度も通った道だ。スーツケースと大きなリュックサックを担いで緩やかな坂道を上っていく。
高千穂でのあらゆる予約チケット(JAL,JR,バス,ホテル,貸しボート,高千穂神楽)からの解放感に浸っていた。これだけのチケットがスマホや紙やメールに散らばっているので、それらをGoogle Spreadsheetで行程表にしておき、関連情報とともにリンクを張っておいた。妻にも共有した。この作業をしていなければここまで順調には回れなかったと思う。旅慣れた人にはふつうのことかもしれないが。準備のおかげで濃厚な二日間を過ごせた。
ソレスト高千穂ホテルではチェックアウトしたあとに、記念撮影をしていただいた。混み合っていない時間帯だったので、ホテルのロビーだけでなく、外の人工池に張り出した桟橋のような舞台に立ったり、その池に面したレストランの外テーブルに座ったりして。スマホ写真の得意な社員さんがいてカメラの露出とかにこだわって次々と撮ってもらった。どうもありがとうございました。
顔出しNGなので、高千穂神楽の「御神体の舞」から伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)のお面で記念写真を加工してみました。
高千穂峡から先の行程は、宮崎に向かう前にずいぶん検討した。最初はバスで熊本に出ようと思っていたが、調べるとコロナ禍もあってか2便あるはずの熊本行の高速バスが1日1便、しかも夕方高千穂発で熊本駅20:00着だった。これでは1日無駄になるので、他のルートを探した結果、博多バスターミナル行が11:10発だったので、これをWEB予約しておいた。博多には14:27着予定だった。
この宮崎交通の高速バス「ごかせ号」は1×3列シートで実に快適だった。空いていたので窓際が良ければ移動してもいいと言われたが、真ん中の席も快適だったのでそのまま真ん中に座った。妻は左の窓側に座った。スーツケースのハンドルが破損していてちょっと困ったのは、バスのトランクにスーツケースを載せるときくらいだった。
バスは延岡から出発して、ここ高千穂を経由し、熊本側から高速に乗って博多へ向かう。途中の北熊本SAで20分の休憩が入るので、ここでトイレに行き(バスにもトイレはついているが)、くまモンを撮影し、2種類のカレーパンを買ってベンチで食べてバスにもどった。バスが走り出すとすぐに豪雨にぶち当たった。天気予報アプリを見ると、ちょうど集中豪雨のなかだったが、すぐに通り過ぎた。最近の天気予報は宇宙から見てるからよく当たる。実にありがたい。博多に着いた時、道路に水たまりは残っていたが、空は晴れていて暑かった。
運転手さんも実に温和で気持ち良い3時間ちょっとのバス旅だった。
前日、荒立神社からの帰り道に、二十躰王宮(にじったいおおのみや)という案内板があり、探鳥コースともあったので、そちらに寄り道してみた。王宮跡らしき案内板はすぐに見つかったが、その先がどこまで続くのかわからなかったので、そこで引き返した。高千穂町観光協会のサイトを見るとこの場所にも鳥居があったようだが、このときは鳥居はなくなっていた。災害かなにかがあったのだろうか。王宮というプレートが柵に立てかけられ、鈴も柵にかけられていた。ひっそりと脇道に置かれた王宮の文字に悠久の時の流れを感じた。地味だが天孫降臨を感じるパワースポットかもしれない。
天孫降臨というと、私にとっては昔読んだ『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』(NHKブックス)をまず連想する。おそらく「聖徳太子は実在しない」という説が盛り上がったころに購読した。途中まで…。藤原不比等が生みだした聖徳太子という偶像と、神話を藤原氏に絡めて歴史を“作り出す”というプロジェクト…だと思うが、基本知識がないままに読んでいたのでまったく頭に残っていない。ただ、天孫降臨についてこうして触れる機会があると、必ずこの書籍を思いだし、再読してみようかなと思う。しかし手ごわいので毎々挫折している。ある意味ライフワークか。
ついでに、この田園風景と神社との組み合わせに映画「旅の重さ」を感じた。この映画の私への影響力をあらためて感じる。何度も機会があるごとに見直したい映画だ。
●朝の高千穂神社へ
さて、翌8月12日(金)の朝、チェックアウト前に高千穂神社まで歩いた。この日は朝食ビュッフェの電話はせず、昨日コンビニで買ったものを食べ、8:00頃にホテルを出た。商店街もまだシャッターが閉まっていたが、シャッターアート(?)はこういう時間帯しか見られないので、それも楽しい。高千穂神社にはすぐに着いた。
朝の高千穂神社では、神職の方が掃き掃除をされていた。ご挨拶をして階段を上っていく。高千穂神社は美しい巨樹が何本もあった。私は大木や巨岩が昔から好きで、その影響もあって神社巡りとか川にバイノーラル録音に行ったりしてきたようなところがある。
スピリチュアルといえばいえるが、いわゆるスピリチュアル系の人間ではないと思う。あえていえばアース系?いま大地とつながる(裸足で歩くとか)アーシングという言葉も聞くが、野口体操にもシンパシーを感じる。地球と身体との連続性とか、フラクタルのなかに万物流転の法則性を感じるとか、ある種の精神性と論理性との邂逅を探し続けているような気がする。年を取ると余計に。
これまで見てきた神話の神々は非常に人間的だったが、荒ぶる神と退治する神と両方がいて、荒ぶる神をも祭ってきた和人の精神性にも興味がある。祟りを恐れるという面だけでなく、荒ぶる行為にポジティブな意味を持たせ積極的に祭るとか、その暴力の道具だった巨石まで祭るなど、清濁併せ飲む精神性があったように感じる。神話への興味は古代人の(現代に通じる)精神性への興味ともいえる。
高千穂神社の裏手には遊歩道があり、高千穂峡に通じているようだった。遊歩道に入ってみると、沢がすぐ下にあるかのように川の流れる音が聞こえる。しかしそこまで近くないことは、昨日の貸しボートの山道を歩いて知っているので、種田山頭火の句碑の少し先まで行って、すぐに折り返した。
高千穂神社を出て、ソレスト高千穂ホテルに戻る途中、鬼八塚(首塚)に寄った。ホテルを横切ってすぐ左側にある。鬼八というのは悪い奴で、いわば誘拐犯だ。若い娘を誘拐監禁していた。それを退治したのが高千穂神社に祭られている三毛入野命(みけいりのみこと)だ。鬼八はいったん退治された翌朝、息を吹き返すほどの生命力があり、三毛入野命は鬼八の身体を三つに裂いてとどめを刺した。その首塚がここにある。
ということだが、鬼八は渡来人であり、誘拐犯ではなくその娘は鬼八の妻だったという伝説もある。その妻を見初めた三毛入野命が鬼八を殺害したと。そうなると話は真逆で、何が真実かわからなくなる。紛争には双方の言い分があり、歴史は勝者のものであり、真実は覆い隠される。その片鱗がこうして史跡として残るのみだ。
天岩戸神社ツアーから高千穂バスセンターに戻ってきたのが16:30頃だった。時間はまだ早いし、高千穂峡の3神社巡りを目的に来ている妻は、ここから荒立神社に行きたいと言う。そこで観光案内所で聞いてみると、歩いて15分程度だという。高千穂感覚での15分は結構ハードな気もしたが、夕方で暑さも収まっては来ていたので行ってみることにした。
荒立神社の御祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の夫婦神だ。いわゆる芸能の神々で、芸能人が訪れることが多い。私たちは芸能人ではないが、猿田彦命にはなんとなく親近感を持っていた。日頃飲んでいるコーヒーが猿田彦珈琲だからというわけでもないが、猿田彦命が祭ってあると何となくテンションが上がる。
荒立神社は音楽的でもあった。境内には板木がたくさんあり、6~7回それを願いを込めて槌で打つとよいらしい。木を叩く音が山に響き渡る。あちこちで叩いている音がしている。我々も山を歩きながら叩いたが、どこまで行っても終わらないので途中で切り上げた。
荒立神社からソレスト高千穂ホテルまでは歩いた。途中のスーパーで飲み物を購入。朝からボートにツアーにと歩きまわって相当疲れてはいたが、気分は良かった。昼飯も美味しかったし。疲れすぎるとあまり腹も減らないのか、二人ともガッツリ夕食を食べたい感じではなかったので、コンビニでおにぎりと菓子を買って戻り、ホテルの部屋でそれを食べた。高千穂峡では夜スポットライトで幻想的な風景が作られているはずなのだが、さすがにもうそこまで歩こうとは思わなかった。
3神社巡りは天岩戸神社と荒立神社を巡り、残すは高千穂神社だ。前夜の高千穂神楽は境内の神楽殿だったが、ほとんど直行で夜だったので参拝はしていない。ホテルから近いので、翌日のチェックアウト前にお参りすることにしてこの日は寝た。
12:25集合の天岩戸神社ツアーだが、ツアーとはいっても公共交通機関を使って自分たちで回る自由観光型ツアーだ。それもかなりゆるい設定で、よく言えば柔軟に行程を決められる。決まっているのは、3種類のチケットでタクシー1回乗車とバスの往復に乗れることと、チェックポイントに行くとお土産がもらえることくらいだ。
今回のツアープランはバスセンターから高千穂神社と高千穂峡を徒歩で回り、その後、高千穂峡の売店からタクシーでバスセンターに戻り、そこから路線バスで天岩戸神社へ行くというものだった。もし最初に歩くのがきつければ、自腹でタクシーで移動もできるという。観光案内所の職員さんはとても親切でいろいろと相談した。
午前中にすでに高千穂峡ボートに乗って来たので、あの蛇行した山道はもう歩きたくない。高千穂神社は行く予定だがホテルから近いのでいま急いで回る必要もない。そうなると高千穂峡の遊歩道を散策して高千穂峡を上側から観光して戻ってくるのがよさそうだった。そこで自腹タクシーで遊歩道入口まで行き、そこから遊歩道を歩いて売店に戻り、お土産を貰ってからツアーチケットのタクシーでバスセンターに戻ることにした。
タクシーの運転手さんに埼玉から来たというと、運転手さんも学生時代に浦和に遠距離で付き合っていた彼女がいて、浦和のあたりはよく行ったという話になった。相当昔の話のようだったが。遊歩道手前から幻の滝が見えるとかそんな話も聞きながら遊歩道に着いた。思いがけなく我々のタクシーが来たのを見つけて、速攻で手をあげる人がいた。確かにもうかなり暑い時間帯だ。谷底からの帰り道は、自家用車がなければバスかタクシーになるわけで、同じ立場だったらこのタクシーは命綱に思えたかもしれない。タクシーも帰りの乗客がすぐに見つかりよかった。
この遊歩道も楽しかった。今朝乗った貸しボートを逆側の視点で見ている感じで、観光パンフレットに載る写真はこちらから撮ったものが多い。撮影スポットは渋滞していた。
売店について少し休み、タクシーを呼んでもらった。最初の予定より10分早いだけだった。この時、最初のプランが結構きつきつだと気づいた。あの通りの行程で神社も巡り、遊歩道を歩いていたら相当駆け足になる。ツアーとはいえ、天岩戸神社行のバスは路線バスなので遅れるわけにはいかない。地元の人の足なら大丈夫なプランなのかもしれないが、かなり厳しいはずだとおもった。
帰りのタクシーの運転手さんも埼玉県蕨市に来たことがあるという。横浜のタクシー会社にいたことがあるとか。宮崎県で蕨市という地名を聞くとは奇遇だ。ハワイのマイケルから入間市を聞いたことを思いだした。
高千穂バスセンターに戻ってきて天岩戸神社行のバスに乗った。このバスを逃すとその後の神社での説明会付き参拝に間に合わないから時間厳守だ。天岩戸神社につくと14:30からの説明会付き参拝参加者の待合所で座って待つ。神職による説明は20分程度だが、この説明に参加しないとご神体である天岩戸の洞窟は見ることが出来ない。一日に何回かある説明会なので、もし行くなら必ず参加したほうがいい。
その後、天安河原まで歩く。この場所は天岩戸に隠れた天照大神を呼び出す方法を神々が集まって相談したという場所だ。その相談の結果が、岩戸のまえでどんちゃん騒ぎをして天照大神の気を引くというイベントだというところに、日本の神々のお茶目なところがある気がする。
天岩戸神社の紹介では、天安河原の写真のほうが有名かもしれない。西本宮から見える天岩戸の洞窟は写真NGでもある。天安河原は写真もOKなので観光目的でも歩く価値はある。というよりここに来なければ来た気がしない。そんなパワースポットだ。結構歩くから飲み物は必須。
ツアーからの帰りのバスも路線バスだが、一時間に一本程度なので逃すわけにはいかない。この日は16時台のバスのあとに17時台の最終があったが、そこまでいる場所もないので行程通りのバスで帰ることにした。時間が若干あったので、東本宮の鳥居のあたりまで行ってみた。鈿女(うずめ)の舞の像が立っていて、人が横切ると回る仕掛けになっていた。鳥居まではあまり遠くはなかったが、さすがに上まで登る元気も時間もなかった。
バス停まで戻って時間をつぶすのに大変ありがたかったのが、バス停の向かいにある「天岩戸交流センターあまてらす館」だ。ただテーブルとイスがあるだけの空間だが、飲み物持ち込みOKでとにかく涼しい。熱射病予防にここでバスを待つことにした。助かった。
8月11日(木)山の日、ソレスト高千穂ホテルは2泊中の1泊目だったが、素泊まりだったのでフロントに朝7:00に電話をして朝食ビュッフェが食べられるか聞いてみた。しばらくして、いますぐか8:00以降ならとの答えだったので、すぐに行くと伝えた。着替えも済ませていたのですぐにホテルのレストランに向かい、朝食にありつけた。この日は一日中予定が入っていたので、ここでしっかり食べられたのは助かった。
貸しボートはWEB予約で9:30を予約していた。この日は終日予約だけで完売だった。少し早めにつけば早めに乗れるかもとボート乗り場9:00着を目指して出発した。歩いて17分と書かれていたが、その道は蛇行した山の道路だった。ボート乗り場は沢だから歩いて蛇行した坂道を降りていくのだが、帰りにこの道を歩いて登るのはきついなと思った。
9:15くらいまで待って、ボート乗り場でスマホの予約画面を見せて乗り場に行くとすぐに順番は回ってきた。ボートを漕ぐのは久々だったが、観光地のボートでそれほど失敗することもなく柱状節理や真名井の滝などを川面側から鑑賞した。午前中は暑さもほどほどで木漏れ陽も差し始めて美しかった。
30分間のボートなので時間的には短いが漕ぐ立場からするとちょうどいい。マイナスイオンもたくさん浴びた気がする。
その後、売店でお土産を購入。たくさん買ったのでここでもお土産を貰った。買った菓子の箱と同じ大きさの菓子箱。九州にはお土産文化が根強く残っているような気がする。
ここからどう動くか。あの蛇行した山道を登りたくないと思っていたら、シャトルバスがあることが判明。20~30分おきにバスが来る。一方向に周回しているバスなので遠回りにはなるが、神殿(こうどの)まで行けばソレスト高千穂ホテルの目の前だ。これに乗った。快適だった。
ホテル前までもどったら昼食だ。まだ11:00だったが、この日は12:25から天岩戸神社ツアーに予約していたので、それまでに食べ終わる必要があった。そこで目星をつけていた「ともえまる食堂」に向かった。歩いて2分くらい。しかし満席だったので外に並んだ。1番札だからそれほど待たずに順番が来た。
高千穂牛あぶり丼とチキン南蛮が名物らしいので、丼を二人前と南蛮を1つ注文した。これも美味かった。どっちももう一回食べたい。並んでも食べて良かった。
12:00くらいに店を出て、天岩戸神社ツアーのスタート地点の高千穂バスセンターに向かった。
高千穂バスセンターから数分歩いたところにある、ソレスト高千穂ホテルに二泊した。とても綺麗なホテルで高千穂神社にも近い。食事付きプランはすでに予約できなかったのだが、夕食が食べられないか聞いてみたところ、やはり予約で満席だった。朝食も朝フロントに電話して空いていれば食べられるかもという状況。夏の混み合う時期だからこれは想定内だった。ホテルのまわりで食事ができるお店の地図を貰い「電話して予約されたほうが確実ですよ」と助言ももらって、とりあえずチェックインした。
初日(8月10日)の夜は、高千穂神社で20:00から行われる高千穂神楽も予約していた。開催カレンダーを見ると翌日の夜はお休みのようだったので、初日に予約しておいたのだ。そうなると、ここから2時間以内に夕食を済ませる必要があった。人気の宮崎牛の店は水曜定休で予約もできず、とりあえずバスセンターあたりまで歩きながら、めぼしい店を探すことにした。
最初は居酒屋に目を付けたがすでに今夜は予約で満席の張り紙が。その後、高千穂牛ステーキのある予約不可の店に行ってみたが休業中。結構あせってきた。地元の飲み屋っぽい店2つに絞り込みどちらに行くか妻と協議した。酒が飲めない妻は、ディープな感じの飲み屋には抵抗がありそうだったが、たまたま若いカップルが入っていくのを見た「けんちゃん」という店に入ってみることにした。
店構えはまさに地元の飲兵衛が集うディープな飲み屋だったが、入ってみるととてもフレンドリーなオヤジさんの店で実に居心地が良かった。しかしすでに予約席がひとつあり、先程のカップルと我々、その後もうひと組入ってきて満席になった。ギリギリセーフ。先に入ってくれたカップルに感謝した。
高千穂牛や手羽先を注文し、山に来たら山のものを食べたらと進められて、おすすめのミョウガとか豆腐揚げ味噌も食べた。焼酎も天孫降臨を飲んだ。飲みやすい。帰りには天孫降臨のカップ酒を土産にもらった。
店を出ていったんホテルに戻り、次は高千穂神社の高千穂神楽へ。ホテルで座布団を貸してくれた。高千穂神社は歩いて5分といった距離。すでに多くの観覧客が入っていた。
高千穂神楽は本来33番を一晩かけて舞う夜神楽のなかから代表的な4番「手力雄の舞」「鈿女の舞」「戸取の舞」「御神体の舞」を約1時間で鑑賞できるダイジェスト版。神話というのは、結構下世話な話で大衆歌劇といった感じで楽しめる。日本の神々は実に人間的であり全知全能ではまったくないところがいい。
観終わってから、ちょっと高千穂峡のほうも行ってみようと、ホテルとは逆方向に歩いた。15分程度と聞いていたが、真っ暗で道も間違えていたようで、途中で引き返した。ただ、この予行演習が翌日のボート乗り場以降の行動にとても参考になった。
宮崎空港の荷物受取口を出て右に歩いていき、つき当たりで外に出るとJR宮崎空港駅の乗り場へ通じるエスカレータがある。JRの特急ひゅうが4号は13:09発だったので、駅弁でも買おうかと駅に向かったが、ベンチと改札だけしかない。空港接続駅だから駅弁は空港の中にあるんだなと思い、再びエスカレータを降りて空港ビル内に戻ったが、探せど探せど駅弁がない。スーツケースの故障よりも、こっちのほうがよっぽどトラブルだ(笑)。
観光地には駅弁があるものだというアンコンシャスバイアスを持っていた。空弁はあったが、食指が動かなかった。空港内で食べるには時間もないので、売店にあった地元豚のカツサンドと焼き鯖寿司とマンゴーカップを購入した。
ひゅうが4号ではグリーン車を予約していた。乗客は多くはなかったがグリーン席は私たち夫婦ともうひと組だけだった。1つの車両が指定席とグリーン席とに分かれていて、間にドアがついている。ほぼ個室状態で、小型ジェット機よりも広くて快適だ。ドアの横の席だったのでテーブルも広く寝心地も最高だった。
日向灘沿いを北上する特急なので、さぞかし美しい海岸線の風景が堪能できるだろうと期待していたが、ほとんどは防風林、防砂林ばかりで海が見える区間は限られていた。これはもったいない。防風林は大切だろうが、もっと風景を工夫したほうが観光列車としての価値は高まる気がする。ほとんど寝ていた。
ただ高鍋駅に着いたとき「孤児の父」という石碑があって、少しテンションが上がった。これは石井十次のことだとピンと来て写真を撮った。
石井十次とは、大原孫三郎をパトロンとして日本初といわれる孤児院を通った豪傑のことだ。ひとくちメモでも何度か書いたが、人間的魅力にあふれる人物で、いつかその足跡をたどってみたいと思っている。今回はそのプロローグのような感じだった。続いて通過した都濃町や美々津町のあたりは、私の父親の生誕地だと実家に帰った時に聞いた。ここから北上して山口県にたどり着き結婚して私が生まれたわけだ。
14:38延岡駅着。ここから高千穂峡まではバス旅になる。バスが出るのは15:45なので、それまで駅前のスタバで涼む。バス停前にはオリンピック選手の手型・足型のモニュメントがズラッと並んでいるのでそれを見た後、バスに乗り込んだ。高千穂バスセンターには16:57に着く。
JAL、JR、バスのチケットをそれぞれ予約したが、JALはスマホアプリでタッチアンドゴー、JRはえきねっとで事前発券、バスはQRコードを印刷して持参とそれぞれ準備するのは大変だった。こういうがっちり行程を決めた旅行はあまりしたことがないもので。20年間、夏旅は男4人のクルマ旅、行き当たりばったりの旅をしていたわけで。これ以外にも、ホテルの予約、高千穂峡の貸しボート、など予約できるものは予約した。乗物がひとつ遅延するだけですべてが崩れるというストレスはあったが、とりあえず高千穂峡までは予定通り到着できた。
8月10日(水)の朝8:45ごろ東京モノレールで羽田空港に着いた。今年はJALのマイルの期限が迫っていたため、夏はマイルの消化をしようと思ったが、いまだ日本は一週間の感染者数世界一レベルのコロナ禍にあり、海外旅行という選択肢はほぼなかった。そこで静岡県出身で九州に行ったことがない妻の要望で九州旅行にしようと思い、いくつか候補地を検討して、高千穂峡(宮崎県)に決めた。
なぜ高千穂峡なのか。OLの王道を行く妻は神社仏閣といったパワースポットが大好きなのだ。私は山口県人だし九州は結構行っているが高千穂は未踏だった。また父の生誕地が宮崎県でもあるし、今年は新興宗教の問題が喧しいので、ここはひとつ古代神話の地でも訪れて宗教に触れてみるのも乙なものかと思った次第。
ここ数年の夏の天候不順は悩みの種だった。台風や集中豪雨などが日本列島を襲う。今年は北陸から東北、北海道にかけて線状降水帯が発生して豪雨被害も起こっていたが、九州方面は好天続きだった。こればかりは運としかいえない。昨日(8/16)には西日本にも線状降水帯が発生している。
JAL689便で10:21出発。機材はエンブラエル190(E190)という小型ジェット機だ。妻はジャンボ機に乗ったことはあるが小型機は初めてだそうで若干不安そうだった。空を飛ぶのにデカいほうが安心感がある、まさに文明とは人間の感覚に影響するものだななどと思いながら乗り込んだ。そんな不安も、飛び立てばすぐに富士山が見えてきてそれに釘付けとなって忘れたようだ。
11:53宮崎ブーゲンビリア空港着。ここからJRの特急と路線バスを乗り継いで高千穂峡に向かう。高千穂峡に向かうのは阿蘇くまもと空港経由のほうが近いのだが、レンタカーでなくバスを使うことや出発時間などさまざま考慮して宮崎空港にした。電車の発車時間までは一時間程度あったのだが、ここで早くもハプニング発生。
預けておいたスーツケースが出てくるのを待っていると、空港職員にフルネームで名前を連呼された。何かまずいものでも入れていたかなと手を挙げて近づくと、スーツケースのハンドル(取っ手)が折れたとのこと。それも短辺、長辺ともに折れていた。短辺は運んでいる最中に折れ、それを見た空港職員が長辺側を持つとそれも折れたそうだ。
アメリカン・ツーリスターのテクナムで、4年前のハワイクルーズの前に買ったものだった。コロナ禍でもあり、このサイズのスーツケースを使う機会はめったになかったため今回が2度目の使用だったがもう壊れた。それもハンドルが両方だ。チャチなスーツケースだったのか…。
とりあえずキャリーバーとキャスターは生きていたので、持ち運びの支障は最小限にとどまりそうだった。JALに預けて修理するのも困難、代わりのスーツケースを貸してくれるとの話もあったが、帰りは飛行機ではないのでそれも困難、結局ハンドル2つ分の修理代をもらって決着した。修理代といっても純正で付け直せばもらった額の3倍くらいはかかるから交換部品代くらいの金額だった。まぁ空港職員さんの応対も良かったので、事を荒立てることもせず、帰宅後にDIYで治せるかどうかを検討中だ。
旅の初日からトラブル発生ではあったが、致命的なトラブルではなかったし、不運は運の裏返しだと思って動き出した。
今年の夏は歴史的な夏だった。トピックスを書いておきたい。
コロナウィルスの第7波が全国に広がっている。当初武漢株といわれたウィルスもオミクロン変異株(BA5J)と呼ばれる別物に変異し、私の周りでも毎日のように感染者が出ていた。2~4回のワクチン接種を行った人も次々と感染している。同一ワクチンの多接種は抗原原罪と呼ばれる現象を起こし変異株への新規免疫の獲得を阻害し生命の危険もある。過ぎたるは及ばざるがごとし。要注意だ。しかし行動制限はされず、ほぼ3年ぶりに旅行会社や航空会社が活況で、お盆の帰省渋滞も復活した。
7月8日には、安倍晋三元総理大臣が街頭演説中の奈良市で、山上徹也という男の自作銃に撃たれ死亡。政治的な思想犯でも暴力団による襲撃でもなく、容疑者は母親が新興宗教(統一教会系)に搾取された家庭に育ち、この宗教団体の広告塔となっていた安倍晋三を襲撃したという衝撃的な動機だった。この事件を発端として、統一教会と政治(特に自民党)との関係(癒着)がクローズアップされ、連日ワイドショーで報道されている。
自民党は安倍晋三の祖父岸信介の時代から統一教会と関係を持っていた。統一教会は敗戦国日本から富を収奪するために米韓インテリジェンスの出先機関として存在しており、岸信介が自身の命乞いをして日本国を売り飛ばした結果と考えられる。戦後復興とは朝鮮半島や米国が富を搾取するための強制給餌(フォアグラ生産法)だったと思う。
バブル時代をピークとしてその後は30年間の超長期停滞社会だが、安倍晋三は下野した時期に統一教会に政治的命乞いをして復活した。売国右翼の誕生だ。いや、おそらく小泉純一郎とともに北朝鮮訪問をしたときにも統一教会ルートを使っていると考えられる。その太いパイプを小泉も評価したのではないか。小泉純一郎は米国インテリジェンスの傀儡だったが、そこに統一教会を持ち込んだのは、岸信介の孫安倍晋三だろう。
統一教会といえば昭和世代なら誰でも知っている霊感商法と合同結婚式だが、子飼いの下村博文を使って教団の改名を許可し信者獲得を助長させたのは安倍晋三だった。教団からは秘書や選挙スタッフも送り込み、政治との連携を強めていくわけだが、そもそもの目的が教団の傀儡政権を日本に造り収奪システムを完成させることだから一貫していた。
むしろ嫌韓をあおり、右翼を装い、日本人でありながら日本民族から富の収奪を率先して実践したのは安倍晋三だった。それを選んだ国民の無知はメディアの責任でもある。植民地統治の手法が次々と機能した。敗戦国としての77年、安倍晋三の討死は想定外だったとは思うが、敗戦第一世代がリタイアする時代に植民地支配の総仕上げが始まった。
台湾有事もきな臭い。おそらく早晩激突すると予想するが、中国がどう対応するかにかかっている。中国の選択次第だろう。安倍晋三がロシアに売り飛ばした北方領土はもう戻らない。台湾有事の対応によっては沖縄も危ない。基地を持つ地域も危ない。原発を持つ地域も危ない。地政学リスクは戦後マックスであり、このタイミングで内政がガタガタとなった衰退国日本。ドル円も1990年代以来の130円台半ばで推移している。日米金利差は開く一方だ。
ここまで敗戦国日本はよく肥え太り、この先すべて(政治も富も国土も)を収奪されるかどうか、その瀬戸際に立っている2022年の夏。気候変動も怖い。豪雨災害、酷暑も年々激しくなっていく。未来の歴史家はこの夏をどう評価するだろうか。
7月29日(金)朝9:32大宮駅発の新幹線はやぶさで盛岡駅にやって来た。最初の目的は山下達郎ライブのはずだったが、達郎がコロナウイルスに感染して中止となってしまった。先々週の東京公演の後、21日に発表され、その週末の札幌公演2Daysが中止になった。このときはまだ、盛岡公演には言及されず、無症状なら28日から行動可能なのかもとの淡い期待もしたが、スマチケ引き換え日の26日に正式に中止が発表された。
すでに新幹線もホテルも予約しているし、久々の旅行でもあるので盛岡に来ることにしたわけだ。都内では3万人を超える感染者が出た。今月24日までの1週間当たりの新規感染者数は日本が約97万人と世界で最も多くなっているというニュースもあり、都会を脱出しようとも思った。都内感染者数が1日4万人突破のニュースを盛岡についてから知った。
山下達郎ライブがないなら観光をと思い調べると、岩手県立美術館で江口寿史イラストレーション展「彼女」が開催されていた。これは好都合。この展示に行こうと思った。
江口寿史「彼女」展の情報をtwitterで検索していたら、盛岡市に気になるレコードショップがあった。Sound Channel MUSIC STORE というアナログレコード中心に買取・販売をしている店だ。そこで配布している『CITY POP ON VINYL 2022』の表紙が江口寿史さんのイラストだったので、これも何かの縁かなとこのショップを訪ねてみた。
ビルの2階で、まさに「マニアックなレコードショップ!」という佇まい。階段をあがると目当ての小冊子が店頭に置いてあり、無言でもらって立ち去ることも出来たが、このマニアックな店の雰囲気に一期一会な感触を感じたのでドアを開けて入った。
店の男性がカウンターに独りいらっしゃるだけの小さな空間に、アナログレコードがびっしり置かれていた。山下達郎の「SOFTLY」のアナログ盤も飾り棚に置かれていてポスターも貼ってあった。
埼玉県から来て山下達郎ライブを見るはずだったことを伝え、いろいろ話した。観光だけになったのでこれから江口寿史展を観に行くことや、CITY POPの小冊子につられてやって来たことを話すと、額装された「CITY POP ON VINYL 2022」の表紙ポスターとか、大瀧詠一さんのロングバケーション40周年の江口寿史コラボポスターとか、うれしいものを見せてもらえた。旅先でのこんな出会いが大好きな私には、とても楽しい時間になった。小冊子はもちろんGETした。
その後、盛岡冷麺大同苑さんで仙台牛の幻ロース(友三角)、ネギタン塩、上タン塩、冷麺のセットランチを食べた。実はこれまで冷麺をあまり美味しいと思った経験がなかったが、大同苑さんで本場の冷麺を食べて印象が変わった。箸がどんどん進む。幻ロースもタンもすべて美味しかったなぁ。
昼食が済んだので、このまま美術館でも良かったが、完全に逆方向なのと、個人的には岩手県民会館を見ておきたいと思っていた。開催見送りの張り紙も、ある意味で旅の記念だ。そこで県民会館に向かった。まさに山下達郎が好きそうな規模のホールだった。そっけないお知らせを記念撮影し、幻ライブが載った7月の催事案内をGETした。このとき気分はもう観光だったから、こんな行動も何気に楽しい。
その後は、中津川沿いを街ブラしながら、啄木賢治青春館などを見学し、14:30頃に流しのタクシーを拾って岩手県立美術館へ向かった。
●江口寿史イラストレーション展「彼女」は圧巻!
美術館の入口を入った瞬間、来て正解だったと感じた。江口寿史のイラストには力がある。まさに時代のアイコンだ。だけど古くならない強さを持ってる。一枚の絵としての力と、それが一堂に介したときの圧倒される存在感。
撮影OKの展示だったので、ここでも記念撮影をした。展覧会の看板やポスターさえも作品の一部に見えてくる。場を吸引する力とでもいおうか。午前中に Sound Channel MUSIC STORE さんで見せてもらったロンバケ40周年コラボポスターも大判で展示されていた。また、吉田拓郎のアルバム「一瞬の夏」からジャケ裏と中のイラストを出力原画で鑑賞出来たのも嬉しかった。彼女というコンセプトの展覧会だからこの2枚だったんだろう。
『昭和45年女 Born in 1970』創刊号の表紙イラストの彼女も出力原画で展示されていた。以前、『昭和40年男』で私に「中島みゆきの歌に出てくる女たち」を依頼してくれた竹部さんがこの新雑誌の編集長なのだ。いや、なんかうれしいね。
原画も複製も出力原画もあったが、最終的には商業出版物に掲載されることを前提に描かれた作品群だ。それをこうして美術館という場所に置いてみることの現代性。現代アートともなにか違うイラストレーションのわかりやすさ。だが、この展示の面白さの裏にある徹底した作家性にグッとくる。
中島みゆき、佐野元春、山下達郎、大瀧詠一らのアーティストを語ろうとするとき、いつも作家性と書いてしまうが、個性というより作家性と言いたくなる作家がいて、その作家性の在り処に興味がある。ジャンルは違うが江口寿史もそのひとりといえる。
常設展も鑑賞し、お腹いっぱいな充実感とともに盛岡駅行きの路線バスに乗った。ホテルは開運橋近くのダイワロイネットホテル盛岡駅前だったので開運橋で下車した。
バスを降りたのは17:30近くだったが、妻が行きたがっていたお菓子屋さんが18:00までだったはずと、歩いて向かった。しかし残念ながら閉まっていた。時間が遅かったからではなく、このあたりの商店街でコロナ感染者が1名出たからのようで、シャッター商店街になっていた。こんなところにもコロナ禍の時代の空気が影を落としていた。
仕方なく北上川沿いをホテルまで歩いた。川沿いはライトアップされていて、ここに屋台がズラッと並んだら博多っぽくなりそうな雰囲気の道だった。屋台はなく、オシャレなお店がいくつか並んでいた。
ホテルにチェックインしてから着替えて、夕食を食べにまた開運橋を渡って繁華街へ。この日は良く歩いた。暑さも和らぎ、さいたま市と比べるとベタつかない乾いたそよ風が気持ちよかった。
夕食はヌッフ デュ パプ (Neuf du Pape)さんで。アメリカンドラマに出てくる飲み屋な雰囲気。エビスを飲みながら、メカジキのカルパッチョやイチボステーキ、ソーセージ、締めにジェノベーゼを食べた。美味しかった。帰り際に、ビルのなかに江口寿史「彼女」展のポスターを見つけた。ほんと、どこにあっても目を引くアイコンだなと思った。
今年のゴールデンウィークは3連休×2回+土日で平日を2回挟むが、全部つなげれば10連休だ。ま、我々夫婦は暦通りで、最初の三連休は買い物とスマホの乗り換え(通信費が半額になった)に使い、次の三連休は文化的生活をしようと考えた。
文化的生活の候補はいくつかあったが、そのひとつが画家の亀山裕昭さんの個展だった。流山市にある「森の美術館」は行ったことがなく事前予約が必要だったのでハードルは高かったのだけど、5月4日は亀山さんが在廊されているとの情報があり、あわよくばご挨拶くらい出来るかもと思って当日(5月4日)の朝電話してみたら運良く予約を入れられた。そして運の良さはこれで終わらなかった…。
●「香路」との出会い
亀山裕昭さんの作品との出会いは、ホキ美術館で2016~2017年に開催されていた第2回ホキ美術館大賞展だった。このとき、鑑賞者の投票で決まる特別賞があり、そこで私が選んだ作品が亀山裕昭さんの「香路」という作品だった。そのときのツイートにはこう書いていた。
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ホキ美術館ではいま第2回ホキ美術館大賞展を開催していて2月までは好きな作品に投票できる。1点だけ選ぶのはものすごく迷ったけれど、亀山裕昭さんの香路に1票入れた。懐かしい現代日本の原風景のようでもあるし、それでいて雪のなかに挿し込まれたパープルが効いてて、さすがメタルの人だなとw
午後8:14 · 2017年1月7日
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日本の原風景のようでありながら、何処か不思議な感覚に囚われた。その時は、雪の中に差し込まれたパープルがその原因だと考えた。そしてアンビエントハウスに感じた“過激な静けさ”を連想させた。もっとも御本人は嘔吐リバースというメタルバンドのベーシストで、アンビエントとは真逆だったのだが。音楽的な何かを感じたのは確かだ。
今回の個展にも「香路」は展示されていた。そして作家ご本人にお話しを聞くことができたのだった。
●亀山裕昭さんとの出会い
13:00から予約していたので、10分前くらいに森の美術館についた。武蔵野線からつくばエクスプレスに乗り継いで流山おおたかの森駅に着いたのが12:30前後。そこから歩いて20分ほど。森というので山の中かと思いきや、新興住宅街のようで整備されたとても雰囲気の良いところだった。小学校の側を抜けると、こじんまりとした建物が見えた。
建物の左側出入口の前にイーゼルが立っていた。そういえば今日は天気が良いから外で絵を描くと亀山さんがツイートされていたなぁと思って近づくと、係員の女性と亀山さんが建物から出てこられた。思わぬ展開だったが、とりあえず挨拶しようと「こんにちは」と声をかけた。思いがけず挨拶するというミッションコンプリート。しかし単なる通りすがりでないこともアピールしておこうと、予約していることを告げた。
これまで見ていた写真が嘔吐リバースっぽい長髪メタル系だったので、怖いのかと思いきや、亀山さんは終始にこやかだった。天気が良いから外で写生していると言われた。写真を撮ってよいか聞いてみると「どうぞどうぞ」という感じだったので、厚かましくもパレットの絵具や描きかけの絵画を撮らしてもらい、並んで記念写真まで撮ってもらった!
こうなると、私もファンであることを告げとかないとなと思い、ホキ美術館で「香路」に一票入れたんですよとお話しすると、「ありがとうございます。あのときは3位になってしまって…」と少し寂しげな表情に。嘔吐リバースっぽいメンタルなのかと思っていたのだけど、とても純粋な方でここでも好感度がアップした。
絵を見る前に亀山裕昭さんとおしゃべりして写真まで撮ってテンション上がりまくった状態で、美術館内へと入っていったのだった。
●切り取られた空間との出会い
20年のキャリアの中で描かれた風景画には、独特の視点がある。私にとっては「香路」が最初だったので雪の道がやはり最初に目につくが、今回は山の中の廃屋、捨て置かれたバスや重機、廃業したガソリンスタンド、ご自身の出身地である東北の風景などバラエティに富んでいた。
米国ではアンドリューワイエス、日本では向井順吉といった好きな画家がいる。2009年に「物語を想起させる原風景」としてこの二人のことを書いたが、どちらも心の原風景といわれる風景画が多い。亀山さんの絵画も第一印象は原風景だった。そこが惹かれたポイントなのは確かだ。
例えば「老婆心」(2010年)は、今回の個展のチラシにも使われた奥松島の風景を切り取った作品。曇った空と水たまり。入り江に複数のヨットが繋がれ、電柱、電線、プレハブ小屋、自販機、営業車、軽トラ、フォークリフト。同時代の原風景ともいえる“モノ”が配置された風景。どこにでもある(あった)地味な風景。どうして「老婆心」というタイトルなんだろう。聞いてみればよかったな。
震災の年の9月に奥松島を訪問した。声も出ないくらい破壊された風景に呆然とした。そんな体験があると、この大震災前に描かれた、晴天でもなく誰もいない寂しげなその“モノ”だけの風景のなかにも日常の幸せを感じる。
小さな美術館なので作品をじっくり見ていられる。コロナ禍で入館者制限もされていて、この時間はほとんど我々だけだった。一周回ったところで撮影OKのプレートを見つけ、あらためてディテールの写真を撮りながら回った。すると、そこに亀山さんが現れた。外で描いていたけれど暑くて涼みに来ましたとおっしゃる。私には作品についてお話を聞かせてもらえる大チャンス到来だ。何から聞こう。考えるほどに舞い上がっていく意識(^^;)。
「雪の道を描かれてることが多いですよね。」と聞いてみた。宮城県石巻市のご出身なので原体験としての雪の道には思い入れがおありのようだった。「香路」の紫色についても聞いてみた。雪に紫色が入っているのが山口県人の私には新鮮で、光のプリズムがこういう風に見えるのかと思った。すると「青を際立たせるために補色を入れている」ということだった。確かに全体から感じる青のイメージがこのパープルで際立っていた。それが不思議な魅力となっている。写実という領域から少しずれたファンタジックな風景になっている気がした。
空間をキャンバスに切り取るとき、三次元を意識されているという。その見えている景色の裏側だったり、キャンバスの外側だったり、そこに確かに存在する風景も取材をし、見えない部分を表現に取り込まれる。その見えない風景への誘いによって、作家から鑑賞者へとバトンが渡され、鑑賞者それぞれの感性で空間の広がりを創造(想像)していける作品になっている。
カンボジアに取材されたマザーフッドとブラザーフッドという大作2点も、空間の広がりを説明してもらえた。こういう大作を並べて鑑賞できるのは美術館ならではだ。2枚の絵には同じ建物がひとつだけ描かれていた(下記写真・部分)。しかし視点は同じ場所からではない。(昔の宗教画にあるような)横に平行移動してつながる2枚の絵ではなく奥行きや高低差がある。
強く関連する2枚だが、並べるとそこに三次元的な広がりができる。そのためのちょっとした仕掛けがこの遠景の建物というわけだ。妻は両方にこの建物があることを見つけていた(私は見逃してた…)。この説明を聞いて、あらためて空間の広がりを感じることが出来た。この2作はぜひ美術館で観て欲しい。マザーフッドのお母さんを探すことも忘れずに。
●切り取られた時間との出会い
雪の道に続いて「廃屋も多いですよね」と聞いてみたら、空間の広がりとともに時間の広がりも意識されていたことが分かった。さらに廃墟や廃バスなどに人間の姿がほとんど描かれない理由も聞かせていただき目から鱗だった。
いまそこにある朽ち果てた廃屋や廃バスを描くなかで、そこに至るまでの時間の経過を意識されていた。その場所や道具の歴史には、確かにそこで生きた人々がいた。そこで使われていた“モノ”が役割を終えてそこに在る。作品の前で、そのすべての人々の時間を想像してほしい。
この視点は私にはなかった。人を描くと現在の時間に限定される。その人が作品の中心になりかねない。しかし亀山裕昭さんの廃屋の風景には、描かれていない多くの人々が存在し、そこに在る朽ち果てた“モノ”がその人々の存在した時間を感じさせるのだ。だから単なる自然の風景でなく、人工物が多いんだなとそのとき合点がいった(下記写真・部分)。
この個展のタイトル「致景」は、通常この上なく美しい景色のことを表すが、ここに「致」という漢字の持つ時間感覚も読み取りたい。物事の行き着く先にある風景。最後まで極めた“モノ”のある風景。それこそがしっくりくる作品群のように思えた。
この時間感覚は、民俗学者宮本常一の視線を想起させる。宮本常一は日本中の庶民の生活を丹念に書き記した世間師だった。膨大な写真に当時の生活や道具を収めていた。そこには芸術家としての視点はなかったが、芸術として捉えようとしているのが亀山裕昭さんなのかもしれない。
亀山さんはこれからも日本中を旅して風景を描きたいとおっしゃった。「効率は悪いですけれど」とも。確かに効率は悪いが、そこで使われた時間も作品の一部だと思う。今朝のテレビ朝日モーニングショーで、Z世代(2000年以降生まれ)は映画も倍速で観て数をこなしコミュニケーションのツールとして情報を仕入れているといった話題を見たが、私などは効率がすべての世の中にあえて時間をかける豊かさを見出したい昭和世代なのだ。道草こそ人生は一貫している。
●サインとの出会い
こうして見ていくと、亀山裕昭という画家は、私の中では、アンビエントハウスの過激な静けさとの共通点から始まり、向井順吉のような旅の画家(そこに川瀬巴水を加えることもできるだろう)の系譜にも勝手に入れて、宮本常一の民俗学的な世界観をも共有する感性があり、毎年私がふるさと納税し続けている石巻市のご出身であり、山口県の隣の広島市立大学大学院も出られているというやや我田引水な親近感すら持ってしまう画家なのであった。
帰り際に初出版された画集を購入した。美術館を出て外で写生を続けられていた亀山裕昭さんにも「ありがとうございました」と挨拶すると、購入した画集を見て「お名前入れましょうか」とおっしゃってくださった。もともとサイン本だったが、あらためて我々夫婦の名前と日付を入れていただき、特典に嘔吐リバースのCD「胃もたれイモータル」(枚数限定)も付けていただき、帰途についた。嘔吐リバースをいつ大音響で聴くか、それがいまの課題である。
今年も残すところ2日となった。2021年(令和3年)という年は未来から見ると分水嶺になるような気がする。特に日本で一年遅れのオリンピックが強行されたのは象徴的かもしれない。これを花道に引導を渡され、先進国から徐々にフェードアウトしていく起点になるかもしれない。安倍晋三政権という前代未聞の堕落腐敗した時代に、国家としての日本は実質終わったという感覚を持っているが、実体経済や一般社会のモラル崩壊の発現にはタイムラグがあり、それらが次々と示現していく起点が今年なんじゃないだろうか。当たらないことを祈るばかりだ。
そんな暗い時代だが、生きる時代は選べない。昨日、『嫌われた監督』について書いたが、そこでアドラー心理学を引いたのは、自分自身の環境も自分自身が望むようにしかならないという思いを再認識したかったから。国家の物語と、個人の物語とは密接だけれども、個人の物語を描いていくことが大切なのだ。
というわけで、次回の夫婦アルバムのラフスケッチになるよう、記憶を掘り起こしておこう。
●2021年前半
正月は今年も新型コロナウイルスにより実家には帰れず自宅で過ごした。妻の実家から送られて来た自然薯をすりおろして食べた。
自然薯の髭をコンロでチリチリと焼き落とし、すり鉢にすりおろす。すりおろした自然薯には味濃いめの鯖汁を投入してさらにすりおろす。これをご飯にかけて刻み青ネギで食べる。この美味さはたまらん。妻を娶るなら静岡県人おすすめです。食材が豊富で。怒られるかな…。
『昭和40年男』の原稿は1月中には書き上げて、2月1日に編集者さんに送付した。その後、いくつかのやり取りをして完成。締め切り前に原稿を上げるのは『まんが道』で学んだ(笑)。人生の節目節目で読んだ藤子不二雄先生の名作。愛蔵版で持ってます。
この仕事は占星術的には「風の時代」が始まるジャストタイミングで依頼をいただいた。不思議な縁だった。とても楽しく書けた。発売は3月11日だった。一方で中島みゆきさんのラストツアーが感染拡大の影響により中止となった年でもあった。来年は急遽ラストツアーライブCDが発売される。
2月13日、震度4の地震でDVDの棚からディスクが飛び出した。今年は、いや今年もか、地震が多発している。南海トラフ地震や首都直下型地震はもはや避けられないところまで来ているともいわれ、TBSの日曜劇場では10月枠で「日本沈没」がリメイクされた。
3月13日は武道館で佐野元春40周年ライブに。昼は銀座の肉いささんで。午後から暴風雨になったが、充実した一日だった。4月10日には松任谷由実ライブ配信をホームシアターで視聴。感染症によってライブ配信も一般的になってきた。
4月25日からフォンテーヌブロー熱海さんへプチ旅行で一泊。2020年のオーベルジュ・オーミラドー以来、オーベルジュが夫婦のプチブームになり、伊豆箱根方面への国内旅行ではオーベルジュが必ず候補にあがる。仙石原もぜひ行きたいと思った。チェックアウト後はMOA美術館を鑑賞した。天気が良くて静かな休暇を過ごせた。
●2021年後半
今年は、マリトッツォブームに乗り、様々なマリトッツォを食べた。なかでもドロゲリアサンクリッカのマリトッツォは最高に美味しかった。こじゃれた店の名前なんてまったく覚えられない私がドロゲリアサンクリッカを覚えてしまうくらいに。今年2回食べた。
このあたりまでは、前回の夫婦アルバムにも掲載済みなので、ここからが必要な情報になる。ふぅ…。
7月30日から一泊だけだが、東京五輪の喧騒と感染症を回避して中禅寺湖へプチ疎開した。中禅寺金谷ホテルも由緒正しい宿だった。滝めぐりをしてマイナスイオンをいっぱい浴びたが、行く前から右足を負傷(捻挫?)していて、杖をつきながらの行程だった。もう回復しないかと思っていたけど治ってよかった。
8月15日からは一泊で房総半島へ。朝から雨が降っていたが、まずは腹ごしらえに成田山に向かい川豊本店のうな重を。成田山も静かな休日を過ごすにはとても雰囲気の良いお寺だった。正月の人混みには突っ込みたくない…。そこから3時間程度のローカル線の旅。土砂降りのなか、宿のリゾートゆうみに到着。近すぎるイメージからか、千葉がこんなに観光地だとは知らず、今後はもっと掘り下げたい地域になった。せっかくなら次回は晴れた日に…。
9月11日、山下達郎のシアターライブ配信を視聴。昔、新宿バルト9に観に行った映画。山下達郎ライブは高品質配信なので、これまではPCスペックの問題で見送ってきたが、今年はWindows10のノートPCを購入していたので、これをホームシアターに接続してスクリーンで堪能した。妻はヤマタツライブを体験したことがなかったので良い機会になった。
9月25日は和光市へ小松亮太さんのバンドネオンコンサートへ。今年はピアソラ生誕100年で良い記念になった。アストルピアソラを知ったのはキムヨナが現役ラストイヤーに舞ったアディオス・ノニーニから。素晴らしい演技に素晴らしい楽曲。こういうつながりの広がりが私の人生の一番うれしい瞬間だったりする。
10月7日にまた地震。震度5強だから相当な揺れだった。10月には衆議院選挙もあった。こちらはほぼ揺れなかった。日本人の鈍感さもここに極まれり。しかしれいわ新選組から3名の衆議院議員が生まれ、山本太郎が国会に戻ってきた。また初当選した大石あきこ議員(れいわ)はかつて橋下徹に抗議した元大阪府職員。維新という愚連隊への強力なアンチテーゼとなってほしいものです。
10月10日に浦和駅のさぼてんでかつ丼を注文して待っていたら突然停電に。蕨にあるJR東日本の変電所火災が原因だった。テロかと思った。お店では調理中、私のかつ丼に卵をいれる直前だった。妻の定食は来ていたので、それを分け与えてもらって食べたが無料にしてもらえた。
10月12日川口リリアホールで松任谷由実コンサート。今回はリアルなユーミンに会えた。やはりコンサートは生が一番良い。誰もがわかっていながらそれが出来ないもどかしさ。感染症はその感染力だけでなく、人間からコミュニケーションや仕事を奪い、ストレスを生む。その二次災害の大きさが侮れない。
10月30日新宿のSOMPO美術館で川瀬巴水展を鑑賞。美術館も事前予約制となり、フラッと行けなくなっている。この日は新宿野村ビル50Fにある星空の中へさんでうな玉ランチの昼食をとり、少し早く美術館についたので受付で予約より早いが入れてもらえないか交渉したところ、客が多くない時間帯だったためOKが出てゆっくり鑑賞できた。
11月23日初台オペラシティで映画「銀河鉄道999」のシネマコンサート二本立てを鑑賞。劇伴がオーケストラの生演奏というオペラコンサートは、平成の終わりに見た「砂の器」が最初だったけれど、それが想像以上に良かったので、機会があれば何度も行きたいと思っている。二本立てはさすがに疲れたが。タケカワユキヒデさんも出演されて盛り上がった。
帰宅途中に妻が帽子を紛失した。オペラシティでも一回落としていて、それは私が見つけたのだが、帰宅中は気づかなかった。JRにもオペラシティにも確認したが見つからず。ヴィヴィアンウエストウッドのベレー帽で大きなロゴが入ったお気に入りの帽子だったのに残念。
11月27日、特に記念日でもないが、埼玉県の共通食事券を購入していたので、うなぎの名店小島屋でうな重コースを食べた。コースはうな重が出てくるまでにお腹いっぱいになる量だったから、今後はうな重だけでいいなと思った。今年は鰻を多く食べた年だったな。
そして12月7日、個人的には今年最大のイベントだったキング・クリムゾンの日本ラストコンサートの追加公演でオーチャードホールへ。平日で妻は仕事もあり、プログレは敷居が高そうだったので一人で行った。もう見れるとは思っていなかったが、チケットがあることを数日前に知り、行けるなら行くしかないと思った。これが大正解だったわけだ。
現在のキングクリムゾンはトリプルドラムを前面に出した7人編成で、実に重厚で素晴らしいサウンドだった。とにかくトリプルドラムというアイデアは斬新でいて説得力があった。奇をてらっただけでないところはさすがにロバートフィリップだ。もし数日ずれていたら新型コロナの感染拡大懸念で開催できなかったかもしれない。パンデミックの間隙を縫うように来日して、ホテルでの隔離生活も送りながらの日本ファイナルツアーをしてくれたメンバーには感謝しかない。その場に立ち会えただけで最高の気分だった。演奏ももちろん最高だった。
こうしてみると、今年は配信も含めて思いのほかコンサートを鑑賞してる。12月19日にはWOWOWで矢沢永吉武道館ライブが生放送された。これも鑑賞した。矢沢永吉のライブを生で見るのは初めてだったが、さすがのステージだった。立ち振る舞いがまさにカリスマだった。
クリスマスイブには、浦和に新規開店したつけ麺狼煙に妻を連れて行った。私自身は大宮の本店開店以来14年ぶりの狼煙だったが、浦和なら何度でも行けそう。次回はカレーつけ麺だ。
そしてクリスマス、毎年、一陽来復のお札をもらっている穴八幡宮へ。昨年は閑散としていたが、今年は参拝客もずいぶん戻ってきている。無事、お札を受け取り、妻が行きたがっていた表参道のフランセへパニエを食べに行った。ユーミンが好きなお店らしい。そこで期間限定のピスタチオ味パニエを食べた。コーヒーカップとお皿のデザインがとてもよかった。聞くとノリタケ食器によるフランセのオリジナル食器だった。
12月29日、テレビ回りの片づけと模様替え。テレビ台を左右入れ替え、これまでテレビ台に置いていたJBLスピーカを本来のスピーカースタンドに設置し復活させた。その際、テレビ台でつかっていたインシュレーターをスピーカースタンドに置いてみたら、更に安定するような気がした。迫力のある音が迫ってくる。たまには模様替えしてみるものだ。
12月30日(今日)、片付けで置き場のなくなった、S-VHSデッキと、DENONのプリメインアンプPMA-390IIを廃棄した。今夜は外食の予定。大晦日はコンラッド東京のアフタヌーンティに行って来る予定。コンラッド東京はなんだかんだで毎年行ってるな。
海外旅行もできない日々が続いているが、日常はそれなりに楽しんでいた2021年だった。
前回、私家版ことしの漢字を「読」と書いた。それほど今年は読書も出来、読みがいのある書物も多かった。しかし、そのブログを書いた後に書店の平台で出会った書物、鈴木忠平著『嫌われた監督』は、まさに今年読んだ最高の一冊といっても過言でないほど引き込まれた。購入して毎日むさぼるように読み本日読了した。9月25日初刷、私が購入したのは12月10日発行の9刷本だった。3か月弱で9刷、かなり売れている。ファンだけが買っているわけじゃない証拠だ。
もともと私自身は個人技が好きなので団体競技やチームスポーツよりは、個人の力と理論でオンリーワンとなった人に惹かれる。子どものころから学校などで選択してきた(させられてきた)競技も、テニス、剣道、水泳、陸上(短距離、砲丸投げ)、柔道とことごとく個人プレーだった。
日本でのチームスポーツの最たるものが野球なので、もちろんプロ野球ファンではない。しかし昔から落合博満という人には何か惹かれるところがあった。というより、なぜ落合が選んだ競技が野球だったのかという疑問すら持っていた。まぁ昔の田舎の子どもが運動をしようとすれば、かなりの確率で野球に触れるのかもしれない。
なぜ野球の道に進んだのかはわからないが、高校時代に学校をサボって映画館に入り浸っていたエピソードが書かれていた。体育会的な雰囲気になじめなかったり、独自の考えをもとに自分自身を鍛え律する生き方は勝負師そのものだ。落合の才能は野球だけではなく、勝負に徹する者のディシプリン(規律)を貫く才能だと思った。
●いつもヒールが好きだった
プロレスでいうヒールの雰囲気が好きだ。たぶん昭和の映画好きは、悪役を愛する癖がある(妄想だが)。私が好きだったブルーザ・ブロディも、キムヨナもとことん強いヒールだった。落合博満もまさにヒールだったし、そこに焦点を当てた『嫌われた監督』に惹かれたのは必然だったとすら思う。
映画好きな落合自身もヒールが好きだったのではないか。その片鱗も書かれていた。落合の番記者だった著者ならではのエピソードの数々がこの作品に深い味わいを与えている。著者自身も若いころから落合博満という独特な人物を取材するなかで、陰に陽に影響を受け、物事の見方や思考の流れが変化していったのではないだろうか。
誰もが落合博満のような個の規律を受け入れることなどできないし、だから嫌われるのだろうが、これがチームスポーツでなければ、まったく違った受け入れられ方をしたと思う。
落合博満のモノの見方を読んでいくと、アドラー心理学にとても親和性がある。例えば『嫌われる勇気』を読んだことがある人だったら納得できると思う。
あらゆる悩みや迷いは人間関係に行きつく。だが、だからといって他者からの評価を目標とするのではなく、「個」としての自分自身の問題と他者の問題とは無関係であることを認め、自分自身についてのみ考え、自分自身が自分自身のために変われるかがキモになる。
自分が納得できる生き方をすれば他者評価は不要だ。承認欲求に振り回される生き方から自由になれる。この書物については前にも書いたが、再度書いてみる。人間の行動、意志、考え方を目的論で捉える。現状への不満を環境のせいにせず、「こうありたいからこうなっている」と考える。環境は常に自分自身の気持ち次第というわけだ。
そういう生き方が果たして幸せかどうかはわからないが、こと勝負師であろうとするときには、実に理にかなっている。リスクを負うのは自分自身であり、克服すべき課題も自分自身のなかにしかない。自分自身が変わることによって、とりまく環境も変わっていく。勝負に勝てるようになる。すると周り(他者)も変わっていく。良くも悪くも…。
●時代が落合博満に追いついた?
チームスポーツとはいえ個人の技術が大きな比重を占める野球、とくに個人技で報酬も変わるプロ野球の世界において、落合の個人主義は合理的だ。落合が社会(会社)とつながる唯一の制約条件は契約書であり、それ以外に拘束される道理はない。まさに大ヒットドラマ「ドクターX」の大門未知子のような生き方であり、こうして物語の主人公として読むと実に面白いわけだ。
そんな落合博満の回りにいて関わらざるを得ない人々もまた、ドクターXの他の外科医や院内政治に明け暮れる人たちのように、そんな生き方には否定的になる者が多い。通常、こんな個人至上主義者に出会うことがない日本社会ではなおさらだ。野球ファンは特にチームの絆だとか、仁義だとか、そんな物語が大好きな人々だろう(私の偏見ではあるが)。だから落合は嫌われる。表面的には受け入れがたい。
だが、落合によって変化を強いられた人々の中にも、良い変化を自分自身で選択した者たちがいた。それが『嫌われた監督』の各章の主人公であり、著者自身もその一人だと感じた。落合は変わろうと努力する意志のある選手には謎かけのような言葉をぼそっとつぶやく。一人で対峙する記者には真摯に向き合う。そして本気で変わる意志を表明した者には寄り添うが指示はしない。落合に教えを乞うと、常に自分自身で考えることを強いられるのだ。
落合がノックをするシーンが何度か出てくる。そこを読んでいて、剣道を習っていた小学生時代を思いだした。師範はいつも3人くらいいたが、切り返しではまったく人気がない師範が一人いた。その師範の列に行くと他の列の5倍以上の時間、延々と切り返しをしなければならず、へとへとになる。他の師範の列は予定調和で何回か切り返すと次々と交代していくので、楽だし回転が速かった。人気がないから時間も長いのかとも思ったが、私は何度もその師範の列(列はないのだが)に呼ばれ打ち込んでいた。剣道の思い出は、そのつらい切り返しだけしか残っていないが、あの時に鍛えられた何かが残っているのだろうか…。
それはともかく、ことごとく嫌われたはずの落合博満の監督時代を追った『嫌われた監督』が、これほど売れ、これほど魅力的なのはなぜなんだろう。個人主義的な価値観は昭和時代よりもずいぶん浸透してはいるが、集団や組織になったときの日本人のメンタリティはまだそこまで進んでいない気がする。身をもって感じる。そのはざまで、個の尊重を貫き通した落合博満がまぶしく見える現代は、夜明け前といったところか。
2021年ももうすぐ終わり。年々早く感じる。今年も新型コロナウィルスは根絶されず。夏には最大級のパンデミックが発生するなか、1年遅れで東京オリンピックが開催された。学生時代に犯罪レベルの障害者いじめをしてそれを雑誌で吹聴していた小山田圭吾の過去が暴露され、開会式の音楽担当をドタキャンするゴシップで幕を開けた。
世界的にワクチン接種は進んだが(私は未接種)、年末にはオミクロン株という変異種が再び猛威を振るっている。早期ワクチン接種していた国ほどパンデミックが進行中。個人的には破裂音の多い言語の国で感染拡大しているように見える。ワクチン接種で周回遅れ、言語に破裂音も少なく多くの民がマスクをしている日本で感染は広がっていないが、感染第6波がいつ来るか予断を許さない年末を迎える。早く経口治療薬が開発されてほしい。イベルメクチンの研究も進んで欲しい。
実体経済では世界的なコンテナ物流が滞留し長期インフレが始まった様相。ここでも幸か不幸か日本は周回遅れだが、来年以降、日本はグローバル経済の渦中でスタグフレーション(不況下での物価上昇)に陥るリスクが高い。粉飾された日本株の落としどころも見つからない。先の読みずらい時代に突入している。
というわけで今年の漢字は「読」にしたわけではなく、今年は読書が豊作の年だった。その印象から「読」を選んだ(画像は毎年おなじみの漢字辞典オンラインさんから引用してます)。
●今年の読書は豊作だった
結婚してから読書をする時間がずいぶん減った。音楽を聴く時間も減った。ドラマを見る時間は増えた(笑)。二人での外出もずいぶん増えた。時間の使い方が変わったわけだ。
昔は一度に何冊も購入し、斜め読みや積読状態になっていた読書習慣が、たまに読める時間にしっかり一冊を読む習慣に変わった。だから大量買いもしなくなった。それでも並行して3冊くらいは読むわけだが、読書にあてる時間が少ない分、ちゃんと読もうという気持ちになる。渇望こそ意欲の源なのだ。これは良い傾向なのではないか。最近はこの習慣に慣れてきた。
今年読んだ書物には有意義なものが多かった。ビジネス書も珍しく読み物として読める書物を読めた。
『起業の天才』
『Dark Horse』
『失敗の殿堂』
『良い戦略 悪い戦略』
ビジネス書のうち3冊が翻訳モノというあたりが、日本と私との乖離を表しているのかも。
ビジネス書以外にも、松本清張の『砂の器(上・下)』をあらためて小説で読み地図でも読んだ。昨年末の『チーム』からの流れで堂場瞬一『ヒート』も読了、清武英利『後列のひと』はいま読んでいる一冊。SF小説かビジネス書かというヤニス・バルファキス『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』もいまコスタに感情移入しながら読んでいる。
音楽書も豊作の年だった。1月は門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』、2月にロバート・ヒルバーン『ポール・サイモン 音楽と人生を語る』という良書で始まった今年。サイモン&ガーファンクルのCD全集とか、若きポール・サイモンの「ソング・ブック」も買ってしまった。
その後、近田春夫『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』を読み、田家秀樹『風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年』と続いて読了。松本隆さんトリビュートアルバム「風街に連れてって!」の初回特典本も重要なMOOKといえる。そしてこの年末(あるいは年始になりそうだが)に、中部博『プカプカ 西岡恭蔵伝』という分厚い書物を読んでいく予定。
おっと、忘れちゃならない、3月には『昭和40年男』Vol.66号が発売された。中島みゆきさんの歌詞に出てくる女たちについて書かせてもらった。「中島みゆきを語る」という仕事は、中島みゆきさんと深い信頼関係にあるライターさん以外には手を出しにくい“分野”なんだと思う。それ以外のライターは周辺を語ることしか出来ず、おいそれと受けられる仕事じゃないんだろう。そんな状況の中、数十年来のファンで無邪気に「書きたい!」と妄想している私は、実は稀有な書き手なのかもしれない…。
こんな感じで、読めなくなったというわりに、紹介していない本も含めて結構ちゃんと読めていた。さらに雑誌に書いてもいるわけで、「読んでくださった皆さん、ありがとう!」の思いも込めつつの、今年の漢字「読」なのであります。
8月16日(月)ビーチサイド温泉リゾートゆうみで一泊した後、どこに行くかはノープランだった。晴れていれば鋸山だったが、雨で鋸山からの眺望は望めない。緊急事態宣言下で日本寺も閉園中。景色のよさそうなところは基本的に却下。いっそ、海ほたるPAまでバスで行って昼飯でも食べて、またバスで千葉に戻ってきて電車で帰るかとも考えた。しかしこれもまた風雨の中で行ってもなぁという感じ。木更津アウトレットも雨だとテンション下がる。去年も行ったし。
それなら美術館でもと内房線沿線の主だった美術館を探したが、月曜はことごとく閉館している。水害から復帰したホキ美術館に久々に行こうかとも思ったが、感染症対策で予約制になっていたりしてちょっと敷居が高かった。
東京湾フェリー金谷港のりばからフェリーに乗る道も模索した。フェリーで横須賀まで行っちゃうかとか。しかしそうすると帰宅するのに東京都を横切ることになり、感染爆発の都内を通ることになって気分が乗らない。そんなとき、鋸山美術館が月曜開館だという情報を妻が発見した。フェリーのりばのすぐ側だった。
検索すると小さな美術館だったが、「吉田堅治展」という知らない画家の特別展をやっていた。地元の画家なのかとも思ったが、知らないことを知るのは楽しいし、いま行かなければ行くこともないだろうし、ゆうみの送迎車で金谷港フェリーのりばまでは送ってくれることが分かったので、鋸山美術館を目指してみることにした。これが正解だったね!
吉田堅治は地元の画家ではなかった。終戦間近のころ、特攻隊員に志願したが戦地に向かう前に終戦となり、生死の淵で「生命」を考えた画学生だったようだ。40歳になってパリに渡り「生命」について深く洞察した作品を作っている。日本ではほぼ知られていないとのことだったが、欧州では知られていて、存命中に大英博物館で回顧展が開かれた最初の日本人画家だという。鋸山美術館で流されていた動画で、大英博物館で開かれた回顧展を見た。その中の吉田堅治はとても話好きでイギリスの若者とも人懐っこく話していた。
その作品の変遷を見ていくと、色彩のない時代から、金箔・銀箔など日本画の技法を取り入れ、さらにメキシコやキューバの色彩を取り入れ、どんどん生命力に満ちた作品になっていくように見えた。しかしその「生」の表現と表裏一体の「死」が常に作品のなかに存在し、生死が混然一体となって「生命」の熱だったり混沌だったりが作品のなかに込められている。
こんな日本人画家がいたなんて。もっと日本で評価されても良いと思う。鋸山に雨が降っていなければ出会っていなかったわけだが、こんな偶然もうれしい。とても良い出会いだった。
その後、裏にある鋸山資料館も行ってみた。基本的には小中学生の見学コースのような造りの資料館で、案内ロボットが出迎えてくれる。私たちがいる間にほかの客は来なかった。昔のチラシやパンフの展示もあったりして、なかなか面白かった。
大きな荷物(リュック)を預けて美術館と資料館を見学したが、その後、フェリー乗り場の土産物屋で少し買い物もしたかった。他に客も少なかったので、リュックを美術館で預かってもらったまま、買い物にも出かけられてよかった。美術館では絵葉書を数枚買った。吉田堅治以外に金谷町を描いた良い絵葉書もあった。作家名が書かれていなかったので、後からいろいろ工夫して検索したが作家名を見つけることは出来なかった。
鋸山美術館を出て、えどもんずというカフェを目指した。月曜は定休日ではなかったが準備中で入れず。仕方なく浜金谷駅まで歩き、電車に乗った。このまま帰っても良かったが、千葉駅まで行って下車し、エキナカのピーターパンでカレーパンほかを購入し、駅のホームで軽く昼食をとり、帰途についた。
夏休みの間中、雨に降られたが、トータルには出かけてよかった。トラベルはトラブル。リゾート温泉に夕陽を見に行って大雨に出くわした体験のほうが記憶に残り、思い出話になることは、過去の夏旅で実証済みなのであった。
12:48に成田駅を出発し、千葉駅で内房線に乗り換え、君津駅で再度乗り換えて、保田駅まで。2時間40分ほどの在来線の旅。なかなかの大移動だった。千葉駅の乗り換えでは時間が20分ほどあったので、エキナカパン屋のピーターパンへ。8月15日限定のマンゴーマリトッツォがあった。
今年の我が家ではマリトッツォがプチブームだった。6月に妻がドロゲリア・サンクリッカのマリトッツォを予約して買ってきた。これが後にも先にも最高に美味しかったのだが、いろんなマリトッツォを買っては食べてきた。セブンイレブンのも食べたし、浦和のラ・モーラ、原宿のなんすかぱんすか、イータリー原宿店等々。それでピーターパン限定にはかなり惹かれたが、店内は大行列で乗車時間に間に合わない可能性があったので、泣く泣くパスした。
内房線は雨の中を走って、どんどん風景が田舎になっていった。埼玉と千葉とでよく比較されるが、埼玉では見ないほどの田舎駅だ(千葉県民には異論があるだろうが…)。悪い意味ではない。やはり海があることの意義は大きい。電車のドアにも開く・閉まるボタンがある(これは神奈川にもあるが)。
天気は相変わらずの雨天で変わりない。いや、また少し雨脚は強くなったか。保田駅からリゾート温泉ゆうみまでは徒歩で約13分。送迎も前日依頼すれば来てもらえるが、今回は到着時間が読めなかったため、駅から歩いた。雨のあぜ道や線路の下をくぐりながら、早く風呂に入りたいと願った。これが晴れていれば、猛暑だったかもしれないが、寒いくらいで、レインウェアを着ていてよかった。
ゆうみのエントランスでは男性従業員がお出迎え。雨の中、徒歩で到着する客は少ないような気がする。結構、車が止まっていた。ロビーに通され、ウェルカムドリンク(緊急事態宣言下なのでセルフサービス)の説明や女性専用の浴衣の選択をして、部屋に案内された。廊下には油絵が飾ってある。社長の親戚筋が描かれたもののようだ。ゆうみの従業員は皆さん笑顔で好感が持てる。
ゆうみのウリのひとつが、貸切露天風呂(有料)と無料の貸切風呂だ。無料の貸切風呂は到着順に時間予約が出来、40分間ゆっくりと入ることができて実に嬉しい。ただし、どの貸切風呂かまでは指定できない(朝風呂は予約なしで空いていれば先着順)。有料露天風呂も天気さえよければ予約したかもしれないが、大雨だったからパスした…。それは次回のお楽しみとなった。露天風呂付の部屋もある。
とにかく寒かった(!)ので、できるだけ早い時間で貸切風呂を予約して入った。我々は「月」の風呂だったが、とても趣のある風呂で、晴れていれば景色も楽しめただろう。
●夕食は海の幸にアワビに里見伏姫牛
風呂から上がって一息ついてから夕食へ。夕食は2Fのダイニングルームの個室に通された。グレードアップで予約していたので、刺し盛り、アワビの踊り食いに加えて、南房総のブランド牛『里見伏姫牛』の石焼きがついていた。ゆうみのウリは夕陽ではあるが、大雨で夕陽がなくてもおいしい料理があれば救われる(笑)。食べきれないほどの美味しい料理を食べて満足したのだった。
翌朝、5:00からの無料貸切風呂で、昨日入った「月」以外に入ろうと、5:05くらいに貸切風呂に行ったところ、すべて空いていた。一番乗りだったわけだ。そこで「岬」に入った。「岬」は少し大きめに作られていて、洗い場も2人分あった。二つの無料貸切風呂を堪能できて良かった。しかし朝から天気は雨だった…。この日は雨に加えて風も強く、風呂に風が吹き込んで来た。とりあえず雰囲気だけ確かめて、窓を閉めて湯船につかった。
朝風呂のあとは朝食だ。これまでフレンチの宿への宿泊が多かったので、久しぶりに食べる純和風な鯵の開きは実に美味かった。そして大きい!南房総で食べる魚介は最高だね。
リゾート温泉ゆうみは夕陽があればもちろんいいが、たとえ天気が悪くても居心地のいい宿だった。ただ、雨が降ってなければ行く予定だった鋸山ロープウェイに行けず、新型コロナウィルスの緊急事態宣言で日本寺も8月末まで閉まっており、鋸山という選択肢がなくなって、ここからどう観光するか、電車旅の我々は迷っていた。(つづく)
川豊本店でうな重を食べ終えると、外はさらに雨脚が強くなっていたが、新勝寺へ向かった。成田山という山のイメージだったので山を登るのかと思ったがすぐに着いた。
思った通り、人出は少ない。それでもゼロではない。3人組くらいの外国人のグループも複数いた。やはり混み合うなかで詣でるよりも気持ちが安らぐ。
成田山新勝寺は想像以上に見どころが多く、とても美しい寺院だった。寺院は雨にも映える。ゆっくりと見て回った。大本堂ではこの疫病が早く治まるよう祈願し、ろうそくを灯した。その後、大本堂の裏手で聖徳太子像、大日如来像、虚空蔵菩薩像を拝み、三十六童子を数えたりした。
そのまま光明堂で大日如来、愛染明王、不動明王を礼拝し、平和大塔まで進んで引き返した。
その後、出世稲荷へ向かった。長い直線の階段は「出世」と名の付く神社に多い。そこを登ってお稲荷さんを参った。「4列に並んでお進みください」と書かれていて、二人で四列に並ぶ方法を考えたり、出世の階段を降りて帰っていくのはいかがなものかとか、それで階段とは別方向に駅への道順標識があるのかとか、様々な雑念(頓智)を思い起こさせるお稲荷さんだった。
天気が良くて時間もあればもっとゆっくりしたのだが、12:48の成田線に乗らないと、鋸南町のゆうみに16:00までに着けない。この電車だけは逃せないため、12:10過ぎには成田山新勝寺を後にした。その後、参道の土産屋に10分立ち寄り、塩饅頭や栗羊羹を購入して駅に向かった。雨はまだまだ降り続く。
緊急事態宣言のなか開催された東京オリンピックも8月8日に閉幕したようだ。7月30日には首都圏を離れてプチ疎開をしたのだが、8月15~16日には前から決めていた千葉県に旅行した。
緊急事態宣言は8月2日から8月31日まで延期された(さらに9月中旬まで再延期を政府が検討中)。しかし旅行は予約済みだった。緊急事態宣言をうけて、キャンセルは二日前まで無料で出来ることになったので、ギリギリまで迷った。新型コロナよりも天候のほうが懸念材料だった。しかし結局出掛けてみることにした。
西日本はもはや毎年のように豪雨災害に襲われているが、今年は日本列島をスッポリ覆うように雨雲が停滞したり湧いて来たりして、連日雨が降っている。天気予報が雨だといっても降られないことが多かった私たちだったが、今回は結局ずっと雨の中だった。
前日も雨だったがユニクロへ行き、レインウェアにもなるブロックテックパーカーを購入。メンズしかなかったが、妻も少し小さめの同じ商品を買った。これで多少の雨なら問題なし。また、リュック(45L)用のカバーも、私はsea to summitのコーデュラパックカバーを持っていたが、妻は持っていないので応急処置にはなったがダイソーで自転車カゴ用のカバー(30Lくらい)を購入し代用した。帰ってみれば、レインウェアとレインカバーは必須だったと胸を撫で下ろした。
●成田山新勝寺表参道の川豊本店でうな重
最終的な目的地は、妻がネット広告で見つけた内房のリゾートホテルゆうみ(鋸南町)だった。場所は鋸山の近くだった。鋸山はカメラっ娘純情Eちゃんの地元に近い観光地で一度行きたいと思っていたので覚えていた。晴れたら鋸山ロープウェイに乗って鋸山で地獄のぞきをしたいと思った。
Eちゃんもすでに結婚している(月日が経つのは早い!)が、今回鋸山というキーワードが出てきたので、Eちゃんの夫氏に鋸山には行ったか聞いてみたら、詳細なデートコースを教えてくれた(笑)。しかし今回は梅雨のような雨の日だったので鋸山は早々にあきらめた。残念!
メインエベントの鋸山が消えたところで、私が考えたのは成田山とうな重だ。浦和にも小島屋という鰻の名店があるが、まだ妻と行ったことはなかった(いつ連れてってくれるのかは常に聞かれているがっ)。成田山新勝寺の表参道にも、鰻の名店川豊本店がある。雨の中出掛けるモチベーションに鰻は最適だ。また、私も妻も成田山新勝寺には行ったことがなかった。
成田山新勝寺の初詣は、テレビでその人出を見ているだけで二人ともアップアップだったので、閑散期のいま行くのは良いアイデアに思えた。疫病退散を祈願しに行ってみようと、まずは行先を成田市にした。
人身事故の多い日だった。また豪雨によって何本も電車が止まったり遅延していた。我々の道程も、途中常磐線が若干遅れたが、成田駅には10:00過ぎに着いた。朝食を抜いて万全の構えで川豊本店を目指した。雨は徐々に強くなっていた。
川豊本店には10:30前につき、すぐに入れた。掘りごたつの席にした。この日はまだ右足の痛みは出ていなかったが、ここで履物を脱ぐことになり細心の注意を要した。上うな重とキモ吸いを2つずつ注文。7200円だった。
出てきたうな重には「小ぶりの鰻だったので、すき間に少し多めに盛り付けました。」と、ことわり書きがついていた。個体差があるのは当然なのだが、怒り出す客もいたのかもしれない。こういう気遣いは商売人らしいところだ。日本政府にもこんな気配りが必要な気がした。
上うな重は鰻1匹が乗っている。特上だと1.5匹になるそうだ。時間的にブランチという感じだったので、これくらいのサイズで十分だった。
昔、都内某所(国分寺市)で、オヤジが威張り散らす鰻屋に入ったことがある。車を止めると「曲がっている」から始まって、途中でメディアの地元取材が入ったら客はそっちのけ。そこのうな重は8000円からだったが、ほんとにやせ細った鰻だった。それ以来(25年くらいか?)、私も鰻屋にはあまりいい感情をもっていなかったのだが、そんなトラウマを払拭してくれた川豊本店のうな重だった。
竜頭の滝から中禅寺湖温泉のバス停まで戻ったところでいったん下車し、バス停の向かい側にあるみやま堂で、けっこう饅頭、最中、栗羊羹を購入した。昼食も中禅寺湖で食べても良かったが、軽めでいいということで、じゃあ日光まで戻って蕎麦屋に行こうということになり、バス停に戻った。
バス停で買ったばかりのけっこう饅頭を食べながら座っていると、白タクのオッサンが声をかけてきた。バスと同じ料金で乗せられるという。だが私が「フリーパスなんで」と言うと「あーフリーパス持ってんのー」とすぐにあきらめて、また別の客を探して声をかけ始めた。白タクはフリーパスには太刀打ちできないのであった。
その後、様子を見ていたら、おばさんと交渉成立したようで連れていきつつ、別の男にも声をかけ相乗りをゲットしていた。白タクで日銭を稼ぐには相乗りは有効だろう。私も学生時代にイタリアまで安航空券で行ったとき、夜中について公共交通機関がほとんどない時間帯に白タクに捕まった経験がある。格安航空券で行って白タクに乗るなんてと思ったが、そのときは他に足がなかった。そんなことを思い出した出来事だった。
復路のバスが来て乗り込み、そこから40分くらいで東武日光駅へ。ここで昼食の蕎麦屋を探して、見つけたのは、野州地鶏旨汁そばのむつみ庵だった。駅からは歩いて10分程度だと思うが、すでに14:00になり太陽も出て暑く、また右足が右足が痛くて杖をつきながらだったので、限りなく遠く感じた。
しかし行って良かった。おすすめメニューの野州地鶏旨汁そばセットを食べたが、このつけ汁の鶏汁は実に美味かった。そばつゆという感覚ではなく、温そばの汁という感じだった。また、ゆば小鉢や舞茸めし、舞茸天ぷらなど地元食材が堪能できた。昨日の中禅寺金谷ホテルのスペシャルディナーも栃木食材オンパレードコースだったので、来てよかったという思いを強くした。地元のものをいただくのが一番だ。
食べ終わって、駅に戻る道すがらドラッグストアがあったので立ち寄り、6時間持続する冷感シートを買って右足くるぶしの下に貼った。これでかなり楽になった。ここで帰りの電車をスマホ検索すると、あまりいい時間がない。特急も16時台までない。そこで、東武日光駅ではなく、JR日光駅から宇都宮経由で帰ることにした。
●宇都宮スタバで栃木フラペチーノ
むつみ庵からはJR日光駅のほうがずいぶん近かった。バスで来るときもJR日光駅前で降りればよかったと話しながら、JR日光駅へ。JR日光線の駅は皇室御用達のためなのか、貴賓室がバーンとあって、観光客がその「貴賓室」という看板を見たり写真を撮ったりしていた。
電車はすぐに乗れた。普通列車だが終点から終点までなのでゆっくり出来た。宇都宮駅ビルにスタバがあるのも調査済み。妻はいまご当地フラペチーノに凝っていて朝から茨城のスタバまで行ったりしていたので、宇都宮乗り換えにテンションアップしていた。スタバ(というかファストフード全般)にはとんと縁のない私は、もう乗っかるしかない。
宇都宮のスタバは大混雑だったが何とか席を確保し、妻にお任せで待った。その間、客層を観察していたのだが、なんだか首都圏より派手というかケバい人が多い気がした(偏見か?)。栃木フラペチーノはまぁ美味しかった。ちなみに8月に入って、これを書く5日前には埼玉フラペチーノを浦和のスタバで食べた。妻は埼玉限定の「多彩玉ストロベリー&シトラス・フラペチーノ」、私はスタバ夏の新作「パイナップル・フラチーノ」を。まぁ美味しかった。
こうして一泊二日ではあったが、疫病を逃れての疎開は楽しく終了した。この日、つまり7月31日(土)、東京都の新型コロナウィルス感染者数は公式発表で4058人だった。8月14日(土)現在は5094人だ。全国では昨日2万人を超えて今日は20151人。埼玉県だけでも本日1800人となった。
まだまだ疫病は収束する気配がなく、それどころかパンデミックはこれからではないかと思わせる状況にある。政府の対応がすべて裏目に見え、有効と思われる方策(大規模検査、大規模収容など)は一切行われない。私たちはワクチン接種をしていないが、不織布マスクと石鹸手洗い、アルコール消毒だけはやって生き延びている。むやみに都心には出かけないで、たまに疎開する日常を続けるしかない。
7月31日(土)、中禅寺金谷ホテルを8:30にチェックアウト。フリーパスの終点、湯元温泉行はホテル前8:53発だと前日調べていた。これを逃すと次は9:38発なので、ピンポイントでこのバスに乗ろうと決めていた。右足が痛くなって杖をつくので8:30にチェックアウトし、また長い廊下を通ってバス停へ向かった。
天気は曇りだが、昨日よりは陽射しもあり、涼しく快適な朝だった。バスは少し遅れてきた。そこそこ車も多く、日光駅前からのバスなので、遅れたのかもしれない。観光バスのような路線バスだった。とりあえず座れてよかった。
9:15頃、湯元温泉(終点)到着。温泉郷だというので、いわゆる温泉街をイメージしていたが、バス停のまわりは、なんとなく運動公園のような風景。スキー場や登山口もあるので、その入り口なんだろうか。
湯の湖という湖があり、その周りに遊歩道が整備されている。一時間もあれば一周できるようなのだが、右足も痛いし今回は滝めぐりにしようと決めていたので、ここには長居せず湯滝を目指すことにした。
とりあえずバスの時間を確かめてから、名物のつるやの塩羊羹を買いに行った。この時間も営業中で助かった。塩羊羹を2つ購入した。このとき9:20過ぎくらい。乗ってきたバスの発車時刻は9:25なので、これに乗ろうとバス停に急いだ。杖をつきつき。
●湯滝まで散歩
湯滝入口までは近かった。そこでバスを下車して湯滝まで歩いた。ゆるやかな下り坂で足には少し堪えるが、森林の空気は気持ちがよかった。湯滝側からもハイキング出来るようで、自然好きにはとてもうれしい場所。
湯滝は華厳の滝よりも近くで鑑賞できる。滝のすぐ下でフライフィッシングをしているオッサンもいた。こんな光景を見るとすぐ『リバーランズスルーイット』が思い浮かぶわけだが、ブラッドピットではなく正名僕蔵さんに似たオッサンだった。
湯滝を見ていると太陽も出てきた。これだけ滝に近いとレーナルト効果によるマイナスイオンもきっと発生しているのだろう。人がいなっくなったらマスクも外して新鮮な空気を吸い込んだ。まさに疫病戦争から疎開して来た醍醐味だ。滝めぐりにして正解だった。
湯滝入口からのバスは10:25だったので、約40分程度の滞在時間でバス停に戻った。次に目指すのは、竜頭の滝だ。そこまでは若干バスでゆっくり出来て、足の回復にも助かった。
バス停で降りたら、バス停に貼ってある時刻表をスマホで撮影して戻る時間を逆算するのだが、ここまで、東武日光駅のインフォメーションでもらったチラシに載っているバスの運行表もずいぶん役に立った。主要なバス停しか掲載されていないが、おおよその時間配分と路線図もあるので効率的に回れている。
特に日光旅行には東武日光駅前インフォメーションでの情報収集は必須だ。フリーパスも購入は必須だが、どこまでのパスを買っていくかの計画は立てたい。今回は完全に元が取れたと思う。
●竜頭の滝から滝上まで登った(下れば楽だった)
竜頭の滝は二本の滝が竜のひげに見えるところから名づけられたとのこと。ちょうど緑の濃い時期でもあり、緑の葉が竜の鱗に見えた。なかなか美しい滝だった。
お土産屋やちょっとした飲食もできるが、まだ昼食には早いのでスルーして、滝の右横の遊歩道へ。遊歩道の手前にも祠があり、そこに吾唯足知のつくばいがあった。竜安寺ほどの風情はないが…。遊歩道からは滝を見ながら登っていくことができた。杖をつきながら登っていくと、一番上にはさっきバスで通った滝上バス停があった。こっちで降りて滝に沿って降りてくるというルートのほうが楽だったかもしれない…。とりあえず登り切ったので滝上バス停でバスを待ち、これに乗った。
これで、前日の華厳の滝、今朝の湯滝、そして竜頭の滝と3つの滝を巡った。もうひとつ、日光東照宮に戻る途中に浦見の滝があり、そこにも寄ろうかと思ったが、バス停からちょっと遠そうだったので右足の痛さもあって、今回はこの3つの滝で打ち止めとして日光駅に戻ることにした。
(つづく)
(つづき)英国大使館別荘跡地のカフェでスコーンと紅茶をいただいて、展示物もじっくり鑑賞した。そこからまた遊覧船に乗っても良かったが、涼しくて気持ちがいいので船の駅まで歩くことにした。途中にある立木観音を通り過ぎ、星野リゾート、リッツカールトンなどの高級ホテルを横目に見ながら歩いた。結局、遊覧船は半周だけしか乗船しなかったが、別荘跡地方面はフリーパス圏外でもあったし、遊覧船の航路もゆっくりくつろげたので良かった。
船の駅までくればフリーパス区間なので、ホテルまでにあるバス停で途中下車して回ることにして、日光二荒山神社中宮祠へ。ここは男体山信仰の起点になる神社で、何百回も信仰登山している人が表彰されたりしている。
翌日の夜来れば、中禅寺湖で神事としての花火打ち上げも見られたことを知り、もう一泊するかとも考えたが思いとどまった。
神社の裏手には栃木県の天然記念物「いちいの木」という巨樹があった。いちい=一位ということで必勝祈願に訪れる人もいるようだ。東京オリンピックの喧騒を離れ疫病戦争から疎開してきた身、ここはひとつ、いちい=一意と考え、疫病に打ち勝つよう一意専心で祈念したのであった。
神社前からホテルへ向かっても良かったが、まだ若干時間も早く、船の駅と神社との中間にあった展望台も気になったので、歩いて湖畔展望台に戻ってみた。展望台といっても下から見上げると3階建てくらいの高さで、公園にある物見矢倉のような感じだったが、エレベータで登ってみると、周りに障害物もなく中禅寺湖の眺めはよかった。まぁしかし他には何もない広場といった趣き。天気もあまりよくなかった。
●日光中禅寺温泉 中禅寺金谷ホテルへ
16:00近くなったので、またバスに乗り一路、中禅寺金谷ホテルへ。中禅寺金谷ホテルは由緒正しいホテルだ。
1873年(明治6年)に外国人御用達の宿「金谷カッテージ・イン」として開業した現在の日光金谷ホテル(本館)には、前回熱く語ったイザベラバードも宿泊してる。
中禅寺金谷ホテルは1940年(昭和15年)に日光観光ホテルとして開業された。詳しいことは金谷ホテルの歴史サイトで。森の中にたたずむオレンジ色の洋館には、たしかに欧州の香りがする。
入口は温泉露天風呂空ふろに通じる板張りの廊下の途中にあった。車で来れば駐車場側から入館してすぐフロントのようなのだが、バス停は中禅寺湖側にあるので、裏道を通ってこの裏口から入るようだ。ここから館内に入ると、フロントまでは長い回廊になってる。これもまた旅情をそそる造りで期待感が増した。
ホテルについてひと段落。結構歩きっぱなしで疲れた。妻はここで先に風呂に行ったので、ひとりでくつろいだ。貴重品はフロント前にあるBOXに預けられるので、部屋を空けるときはそこに部屋のキーや貴重品を入れておく。風呂の入口は暗証番号制になっていた。
そして目当てのディナーだ。中禅寺金谷ホテルのスペシャルディナーコースはかなり美味しかった。栃木の食材をふんだんに使った地産地消というコースなのでなお美味い。昨年から箱根、熱海のオーベルジュやおいしいフレンチを食べ歩いていたけれど、ここで食べた栃木しゃもと日光湯波のテリーヌ、とちぎ和牛"匠"フィレ肉のポワレはコンラッド東京、銀座肉いさにも匹敵する美味さだったと思った。
翌朝の朝食は7:30頃食べた。この時間は込み合うかもしれないと聞いていたが、それほどでもなく、木漏れ日のなかでゆったりと食べることができた。旅先の朝のオムレツはどうしてこんなに安らげるんだろう。
この日はフリーパスの終点湯元温泉まで行って、そこから戻りながら滝を見て回ることにした。一つ懸念材料があった。私の右足だ。朝風呂に入ったときに、露天風呂への段差で少しひねった。普通なら何の問題もないのだが、今の私の右足はガラスの右足だ。歩くたびに痛みがある。
昔から痛みがあったのだが、年齢とともに痛みが増し、整形外科によると外反母趾とのことだ。それで足先が曲がっているうえに、くるぶしの下側も痛くなってきた。おそらく腓骨腱鞘炎も併発している。それで大事をとって最近、折り畳み式の杖を購入し持って来ていた。
身長176cmでも使える長い杖があまりなく楽天で探して購入していた。これを使う時が来た。最初はどっちの手で杖をついて、どのタイミングで動かせばいいのかわからなかったが、痛みがあると自然と使えた。やはり実践に勝るものはないな。ということで、この日は朝から杖をついて出かけた。
(つづく)
前の記事でこの疫病との闘いを戦争だと書いたが、それは長い長い伏線で、本来はこちらのプチ旅行記を書くつもりだった。いつものことだが熱くなって長引いたので「オリンピックの思い出」という無難なタイトルで別記事にした。では本題。
「戦争なら疎開しなきゃ!」というわけで、7月30日(金)から1泊だけだけど、首都圏を脱出して中禅寺湖までプチ旅行してきた。初めて訪れたのだが箱根と似てる。箱根好きの私は結構気に入った。
日光には昨年訪れていたので、同じく日光号で東武日光駅まで電車で行き、そこで湯元温泉フリーパス(二日間有効)を購入し、中禅寺湖温泉行のバスに乗った。晴れていれば明智平で下車しロープウェイに乗りたかったが、かなりの靄でロープウェイは運航中だけどほぼ景色はない状態だったので、バスの終点まで行って華厳の滝を目指した。
華厳の滝周辺には観光客がちらほら。疎開だからこのくらいがちょうどいい。見ているうちに陽が差してきた。午前10:40頃だった。
中禅寺湖周辺には滝が4つほどあるというので、とりあえず二日間で回ろうと思った。とりあえず華厳の滝を後にして船の駅中禅寺へ。フリーパスで中禅寺湖一周フェリーが10%割引だった。反時計回りだけなので、次の菖蒲が浜で下船すると、宿泊地の中禅寺金谷ホテル近辺に直行してしまうルートだったが、まぁゆっくりしようと一周チケットを購入し乗船。乗客は20~30人というところだろうか。空いていた。男体山の頂上は雲で見えなかったが稜線だけでも美しい山だった。
菖蒲が浜をスルーして大使館別荘記念公園で下船した。40分ほど遊覧船に乗っていた。乗客が少ないから荷物を席に置いたまま左右の席やデッキに出たりした。米中経済戦争の影響でアップデートが出来ないファーウェイのスマホhoner6のカメラについているワイドアパーチャ機能がとにかく性能がよく、このカメラのためだけに使い続けているスマホで写真を撮った。遊覧船の進行方向に小舟で釣りをしている人がいて、あやうくぶつかりそうでヒヤヒヤした。
●大使館別荘跡地でゆったり過ごす
大使館別荘記念公園にはイタリアと英国の別荘跡地がある。どちらも美しい建物で、そこから見る中禅寺湖が欧州への郷愁を掻き立てたんだろうなと納得させる立地だった。
個人的には英国大使館別荘跡地は実に見どころも多かった。英国の外交官として19歳で来日したというアーネストサトウが1896年(明治29年)に建てたこの別荘には、何人もの著名人が滞在していた。そのなかにイザベラバードの名前を見つけたときは嬉しかった。
『日本奥地紀行』で知られる探検家イザベラバードは、日光を通って東北地方を巡る旅をしたので、そのときにこの別荘を訪問したのかと思ったが違った。
イザベラバードが日光を出発したのは1878年(明治11年)なので、まだこの別荘は建っていない。しかし金谷カッテジイン(現在の金谷ホテル)にはこのとき滞在している。アーネストサトウが来日したのは明治5年ごろだから、この当時から面識はあったのかもしれない。
イザベラバードが別荘を訪問したのは別荘が建って早い時期だったと書かれていたので、年代を調べると、ちょうどイザベラバードが『朝鮮紀行』で朝鮮半島を探検していた時期だった。彼女は1894年からの3年間に4回朝鮮半島に渡っており、日本を起点としていると思われるので、そこで建築されたばかりのこの美しい別荘に招待されたのだろう。
イザベラバードについては、宮本常一著『イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読む』で知った。宮本常一、イザベラバード、アーネストサトウが中禅寺湖のプチ旅行でつながったことにとてもワクワクした(妻は知る由もないだろうが…)。
(つづく)
疫病が蔓延の兆しをみせるなか、7月23日に一年遅れの東京オリンピック開会式が行われた。菅義偉政権は東京オリンピックはバブル方式(関係者は徹底管理された環境のなかだけに行動を制限する)で運営するため新型コロナウィルスの蔓延にはつながらないと言い、小池百合子都知事も、オリンピックはステイホームを促し人流を減少させると述べた。
しかし、飲食店を休業に追い込み、一般人の旅行も外食も制限していながら、海外からやってくる選手は日本中で合宿をしていた。終わってみれば昨日(8月9日)時点で458人の関係者が感染した。バブル方式は最初から絵に描いた餅だった。
小池百合子都知事の言い分もまったく的外れだった。五輪の視聴がステイホームに有効ならその理屈で延期などせず東京オリンピックを開催すればよかった。感染防止のために。
当時はまだ現在の100分の1程度の感染だった(発表ベースで)。都内で34人の感染者が出た2020年6月2日、東京アラートが発動し、都庁とレインボーブリッジがレッドライトで赤く染まった。20人以上が東京アラート発動の基準だったからだ。東京五輪が開催された今年、7月28日には都内感染者数が3177人と3000人を突破、五輪も後半戦の8月5日には5042人を記録した。いま「記録した」と書いているが、これで治まるかどうかわからない。
首都圏はもはや見えない敵に襲われていた。嬉々とした大衆は五輪万歳と叫び、同じ阿保なら踊らにゃ損損状態。興味のない大衆は別の娯楽を求めて街に繰り出し、これ幸いと帰省や旅行も増加した。摩訶不思議な屁理屈によって徒手空拳で戦っている政治家の戯言が続く。「政策を間違った」とは間違っても謝らない政権と官僚。検査数も病床数も一向に増えない。(平時ならほとんど重症レベルの)中等症者は自宅療養せよと医療放棄の状態。2年も無策でこの状態に追い込まれた大衆は、ほとんど政府の発言は聞かず、メディアやSNSの情報(噂話)で自ら判断する。まるで未開の地だ。
海外ではワクチン接種済みという免罪符をもって出歩く人々が、さらに疫病を広げている。疫病のほうも次々変異し、現在はデルタ株という感染力の強い新型コロナウィルスが主流となった。こちらもいたちごっこだ。日本も周回遅れでこの道に進もうとしている。
この状態は戦争だと思った。ミサイルは飛んでこないが、無能な政府と未知の生物との戦争状態にある。不織布マスク、石鹸手洗い、アルコール消毒、換気の徹底、そしてワクチン(打ってないが)。これが現在の人類が持っている武器。ほぼ防戦一方だ。未知の生物は実態が見えず次々と変化しDNAの転写エラーを起こしながら急速に進化しては人から人に感染拡大していく。
この後、どんな世界が訪れるのかわからない。グローバル資本家はこの惨事に便乗して信じられないほどに儲けている。日本の超長期停滞を尻目に米国はインフレ懸念。気鋭の哲学者斎藤耕平は東京オリンピックを「祝祭資本主義」と断罪した。
疫病と五輪とを別問題だとしても、どちらも対応を失敗した日本政府だと思う。ツケは必ず来る。歴史が証明している。しかし歴史をイノベーションの連続(つまりは失敗の連続)と捉えるならば解決先もきっと見つかると信じたい。そのベクトルが現代に蔓延る強欲資本主義の延長にはないという思いを強くした東京オリンピックだった。
バブル方式で行われたオリンピックが終了した翌日、IOCのバッハ会長は銀座を散策。終わればバブルもなくなったというわけではない。選手は帰国するまではったりバブルのなかで行動制限されていた(もちろん違反者は出た)。さらにパラリンピックもこの後始まるのだ。バッハ会長の行動を丸川珠代五輪担当大臣は「不要不急かは個人が判断すべきだ」と発言した。
私はバッハを五輪貴族と呼んだが、オリンピックは五輪貴族にとってのコロッセウム、選手は古代ローマ帝国の剣闘士だ。その構図をもはやオブラートに包みもしない強欲資本主義の時代。運動万博はその役割を終えた(いやもはや役割すらなかったか)。
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