さいたまスーパーアリーナですKARA。近いのに2時から来てるKARA。
2012.05.27
2012.05.20
爽快な読後感 『おじさん、語学する』
先週金曜は約10年ぶりに再会した友人と飲んだ。彼は学生時代からの友人だが最初の勤務地がローマだった。その後ほんの少し日本に戻っている間に学生時代からの彼女と結婚したが、そのときのレストラン・ウェディングでは司会を私が勤めた。そしてまたすぐローマに発ち、その後アムステルダムに移ってほぼ10年、ようやく日本勤務で帰国したのだった。
この日待ち合わせした時間まで間があったので書店に立ち寄った。書店で本の背表紙を眺めながら、「これらが電子書籍になってポケットに収まり、この空間が消滅したら街はいったいどうなるんだろう」と空想しながら無目的に様々な書棚のあいだを徘徊した。
ビジネス書の棚で一冊の本に再会した。エリヤフ・ゴールドラット博士の『ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か』だった。かつて衝撃をうけたTOC理論の本だ。しかしその本には新しい帯が掛けられていた。「追悼ゴールドラット博士」という帯だった。不覚にも博士が昨年亡くなっていたことをそのときまで知らなかったのだった。
最近は家電量販店に行くとめまいがする。あまりにも過剰な品揃えと広告に圧倒されて買う気がうせる。そしてパソコンで検索し再検討しようと思うことが多い。しかし書店は家電ショップとは比較にならないほど多品種少量の品揃えにも関わらず次々と発見がある。
書物という「モノ」から発せられる知的な誘惑はパソコンの検索ではまだまだ再現不可能だ。その無目的な混沌のなかからアイデアは生まれるものだ。どこまで行っても細かい能動的選択を迫られる近未来ネット社会でこの知的遊戯が損なわれてしまわないことを祈るばかりだ。
最近は新書の出版数が増加し書店の棚も広がった。新書は出版社別のシリーズで陳列されるから、そのタイトルを横に見ていくだけで刺激がある。テーマの不連続さは論理を超越する。
この日もそうだった。最近は地球システム論の『我関わる、ゆえに我あり ―地球システム論と文明』(集英社新書)とか、宇宙の最新知識の『宇宙に外側はあるか』(光文社新書)などの新書を読んでいるので、漠然とそんなジャンルの新書を探そうとしていた。
そんなときに目に付いたのが『おじさん、語学する』(集英社新書)だった。帯には「『やり直し語学』の決定版!」とある。宇宙本を探していて語学本を手にとってしまえるところが新書棚なのだ(笑)。
●学校英語への積年のうらみつらみ(笑)
最近韓国語学習が初級の初級を終えて、この先どうすればいいか迷いながらちょっとスランプ気味だった。そんなおじさんの心のスキマにスイッチを入れてくれそうな本が「おじさん、語学する」だった。
このタイトルは気恥ずかしくて普段なら買わない。また語学書のメインターゲットはほとんどが女性だ。おじさんターゲットの語学書なんてのは企画からして通らないものなのだ。だが天邪鬼な私は「おじさん、語学する」というストレートなタイトルに「内容にひねりがあるのか?」という疑いを持って手に取ったのだった。
以前サドベリーバレースクールを紹介していた『超・学校』のように、いまいちのタイトル(失敬!)に疑いを持って手にした書物が、実は類書のないオリジナリティを持っていたという経験があったので、一度は手に取る習慣が出来た。それが奏功した(笑)。これはすばらしい外国語学習法の指南書だった。著者の塩田勉さんは「多読授業」のプロで数年来「英語再入門」の授業を行っている方だという。
私は学校英語にとにかく疑念と怨念を持ち続けて生きて来て、英語帝国主義に喝采を送りつつ、しかし外国への憧憬は子どものころから強く、そのリベンジで2010年にキムヨナ金メダル記念として韓国語を始めた人間だから、語学の教授法や教育論というものにはとにかく懐疑的なのだった。
韓国語をはじめて例えば千野栄一さんの「外国語上達法」とかロンブ・カトーさんの「わたしの外国語学習法」、野間秀樹さんの「ハングルの誕生」などを読んでいるうちに、学校英語の教授法こそが間違っていたんじゃないかという思いを強くした。それは様々な外国語学習法を読むにつれ確信となっていく。
●物語が喚起する語学指南書
私にとって「おじさん、語学する」も学校英語の呪縛から脱出し自分で語学学習法を見つけるための書物の仲間入りだ。千野栄一さんの本の紹介もチラっと出てきたりする。ジャッキーチェンが「蛇拳」で猫の動きを蛇と組み合わせて強敵に打ち勝ったように、自分らしさを自覚して語学を人生論として考えるのだ。
内容で秀逸かつ類書がない点は、物語(小説)で読み進められることにある。前段でエリヤフ・ゴールドラット博士の『ザ・ゴール』に触れたが、あの著書もTOC理論を広く伝えるために小説仕立てにしてあり大ベストセラーになったのだった。まさに今回、「追悼ゴールドラット博士」のオビからの流れで「おじさん、語学する」にめぐり合えたのは必然だったような気さえする。
物語仕立てだけど内容はいたって具体的だ。また要所要所に注の番号が振ってあり、巻末の注が非常に有益な読書案内でもあり、また章ごとに“良き学習者”として成長してゆく主人公の心構えを解説してくれている。
章ごとにもそこでのポイントが箇条書きでまとめてあったり、小見出しが学習指南の指針のようなものだったり、あくまでも小説ではなく指南書であろうとする意志で統一された編集になっている。
主人公の林家常雄はフランス人と結婚した娘の孫(4歳)に会いに行くためにフランス語を学び始める。「孫のいる年齢のおじさん」がゼロからフランス語を始めるという“ファンタジー”だ(笑)。
しかしこの「おじさん」という存在を、語学以外の知識や知恵、そして社会経験を持ったひとりの平凡で善良で少し頑固な人間と捉えれば、ゼロからの語学が万人に可能でやり甲斐のあるチャレンジだとわかる。
また日本の学校英語というものがいかに語学教育から遠いものかもよくわかるという意味では、中学生にも薦められる新書だ。どうせ語学をやるのなら楽しく、また使えるようになるに越したことはない(って普通はそれが目的なんだけど)。そのために学校に頼らず自分なりの方法を見つけて語学を身につけたほうが将来役に立つ。
現代の学校英語は私たちの頃よりもまともになっているかもしれないけれど、この新書の初版は2001年だったので、21世紀になってもまだそれほど大きくは変化していないのだろう。だから多くの日本人は10年英語をやってもしゃべれないし戦えない(交渉できない)のかもしれない。
奥付を見ると私の買った「おじさん、語学する」は2010年に出た2刷だった。初版から9年も経って増刷されているので、細く長くという感じの売れ方だ。このタイトルだとなかなか手に取りずらいけれど、ネットなら買いやすいと思う(笑)。おそらく読むべき潜在読者の手に届いていないと思う。だからこうして紹介してみたくなった。
2012.05.12
ユン・スア先生も2度目の朗読パターン!イラ韓(済州島編)完結
イラッとくる韓国語講座(済州島編)がついに大団円を迎えてしましました。最後はお約束になりつつある(?)ビーチを見せるだけで撤収のパターン。コウモト 씨も視聴者も誰もよろこばない(笑)。誰もがイラッとするビーチのチラ見せでしたね。
でもこれは「ビーチだけは見たけりゃ行くセヨ!」という番組からのメッセージだと受け取りましたよ!妄想家のボクは...。
以前、釜山編でもビーチでお別れパターンでしたね。しかし最後が似たシチュエーションだったことに気をとられすぎて、オープニングがジャニーズ系の歌詞の朗読パターンだったことを忘れてはいけません!
というよりボク的には、ビーチでお別れパターンのリピートを見て、「あっ、これはエンディングとオープニングと両方シチュエーション・リピートという高等戦術だ!(高等戦術か?)」と直感しましたね(笑)。
昨年12月にはユン・スア先生が「スシ食いねぇ」を朗読させられたことにちょこっと触れましたが、今回はまさかの「It's B.A.D」(田原俊彦24thシングル)の朗読(笑)。森本智子アナが「NINJIN娘」を読み始めたときから「来るな!」と身構えてはいましたが、まさかのトシちゃんかぶせとは!
数あるジャニーズの歌詞からトシちゃんかぶせは意外だったな。でもユン・スア先生のハングル朗読になっててちょっとうれしかったです。こんな感じでした。
바바바바
아아아아
다다다다
It's 비이.에이.디이
It's 비이.에이.디이
It's 안녕하세요.
なんか「スシ食いねぇ」のときにここに書いた提案が受け入れられた感があったなぁ(これも妄想ですが)。
まさにこれしかないという選曲じゃないでしょうか。深読みすれば、森本アナの「NINJIN娘」も効いてますよ。この歌詞は一瞬何の歌詞かわからないところからの「NINJIN」連呼ですから、これを森本アナがやることでお膳立てが完璧に整いました。
このパターンが再び来てしまったら、今回はユン・スア先生が何を朗読してくれるのか、また日本語なのか韓国語なのかと次々と妄想が膨らみますよね(ますよね?)。そこに「It's B.A.D」ですよ。無国籍(笑)。
済州島最終回を飾るにふさわしいイラっとするオープニングでしたね。ジャニーズ縛りがないなら、ぜひムッシュの「バン・バン・バン」の朗読もお願いします(笑)。
オープニングトークが歌詞の話題だったので思わずそこメインの内容になっちゃいました(笑)。「NINJIN娘」って、日焼けした女性の肌をニンジンに喩えるというものすごい歌詞ですよね。ダイコン足からの連想だったりするんでしょうか...。その妄想のまま2番の歌詞へ突き進むと、まさにアイドル歌謡の王道であるプチセクシャルなダブルミーニングになってます。作詞家・宮下智さんの妄想力は見習わなきゃいけませんわ。
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さて、済州島ですが。一度行ってみたいなぁ。ボクは島好きだから。雑誌「島へ。」でもぜひ特集して欲しい。外国だけど近いし。
潜水艦も散歩も洞窟も気球もゴーカートも、そしてCDショップも全部行きたい。河本定食も黒豚も太刀魚も全部食べたい!...といいつつ今月末には沖縄行っちゃうんですけど。やっぱパスポートなしだと気楽なんだよな(笑)。
一回行くと最初の高いハードルがなくなって絶対リピートしたくなるに決まってる。だから今回はリピートって言葉がたくさん出て来るんだよ。ボクの潜在意識の表出だな。
ソウル、プサン、チェジュと旅をしてきたコウモト君は次回どこへ行くんだろう。済州島のビーチでしゃべってしまうとまた準備もなく連れて行かれると悟ったコウモト君は「韓国に行きたい」と言葉を濁していた。
個人的には光州はいいんじゃないかと思う。女子高生の修学旅行に出会った縁で(笑)。ク・ハラの故郷だし。
2012.04.30
音楽という名の光 山下達郎ライブ@大宮
昨日は待望の山下達郎ライブを聴きに大宮ソニックシティへ。ボクにとっては2009年3月21日の大宮以来、3度目の山下達郎ライブだった。

今回はこれまでで一番いい席が取れて、演奏者の表情やギターの指使いまではっきり見えた。
新作を引っさげての全国ツアーもこの日をいれてあと5日を残すのみ。7ヶ月に及ぶ今ツアーでは、私の実家がある山口県徳山市(現・周南市)の周南市文化会館もがツアー日程に入っていて驚いた。
そこはボクが中島みゆきライブを初めて立ち見で見た場所であり、また高校時代に自主製作映画でここにオフコースを観に行ったテイで撮影に使った場所でもある(笑)。高校時代に来てくれてたらボクの人生も変わっていたかもなぁ。それだけ大規模なツアーだったということだね。
新作を引っさげてと書いたけど山下達郎さんのコンサートは新作プロモーション色が少なく、ライブはライブとして別のコンセプトで選曲されるので、コンサートそのものがベスト盤のようなものになってる。ライブで何年もやってなかった曲を演奏してみたり、いまの自分が歌うべき場所と歌を常に意識してステージが構成されてる。
●選曲の苦労話にひとくちメモ的納得感(笑)
もともと音楽マニアな人なのでリスナーの気持ちをよーく知っている。そして山下達郎に求めるクオリティの高さも充分知っている。ただファン層が幅広く、聞きたい曲も多いがゆえにセットリストでは毎回悩むと話されていた。
もはやどれを演奏するかではなくどれを演奏しないかという消去法になってしまうとか。きっと過去のセットリストともにらめっこしながら、何年もやっていない曲でいまの心境やライブのコンセプトに合致するものに絞り込んでいくのだろう。
その話を聞いて、ちょうど一昨日、このひとくちメモで「自分で弾き語りたい吉田拓郎20選!」をやっていたボクは俄然納得した(笑)。こっちはただブログネタで20曲選ぶだけだが、実際に7ヶ月間の演奏旅行をする楽曲選びという作業は途方もなく大変だと思う。
あくまで新作プロモーションというお仕事感覚でやるミュージシャンなら新作から8割やって、後はかつてのレコードセールス順に“お約束”の数曲でもやれば2時間のライブは構成できるだろう。だがヤマタツはそういう仕事はしない!
新旧すべての楽曲が同レベルに存在し、コンセプトに沿って選択し練り上げて3時間超のライブに仕上げて来る。リスナーの飽くなき欲求に応えるべく考え続けてくれているのがヒシヒシと感じる。だからライブパフォーマンスがすばらしいんだと思う。悩みはコアなファン層と新規ファン層とどちらにも楽しめるステージにすることだそうだ。もっともコアな人々はほっといても行くわけだけど(チケットが入手できればの話だがっ!)。
●一貫したこだわりをガラパゴスと呼ぶ!
選曲だけでなくそういうこだわりが随所にある。セットも毎回楽しみのひとつだ。会場の扉を入ると巨大なセットが目に入る。今回はステージに近かったので開演前の舞台下からまじまじと見上げてみた。
コンセプトは「アメリカの田舎町のストリート」で達郎さんの歌う足許には石畳が敷かれていた。舞台左手にある「MUSIC INN」のなかに飾ってあるギターの銘柄とか、そういうのもそのうち達郎マニアによって明らかになったりするのだろうか(笑)。
今回初参加のサキソフォン奏者宮里陽太さんもこだわりの人選のようだった。都城市から通ってる(?)とか。その地元へのこだわりもいいっすね。
ボクはサックスソロのときに思わず左耳に手を当ててしっかり音を聞いていた(これはとてもよく聞こえるけどずっとやってると難聴になりそうだから要注意です)。達郎さんのカッティングギターとサキソフォンの緊張関係がビビッドに身体に入ってきた。
こだわりといえば会場選びにも相当こだわりがあるのは有名な話。隣のスタジアム(さいたまナントカアリーナ)では絶対にやらないと断言された(笑)。ナマ声でも最終列まで声が届くレベル、3000席クラスの音楽ホールをこよなく愛するのが山下達郎だ。
音楽ビジネスとして効率がいいのは巨大スタジアムだ。一度に1万人超を入れて回収すれば、3000人収容のホールで数回やるより出演者のギャラも経費も1回分で済む。しかしそれでは山下達郎の音楽は届ききらないのだろう。分散コードや歌声の細かいニュアンスまでひとりひとりの観客に届けたいわけだ。
ボクが「自分で弾き語りたい山下達郎20選!」を企画しないのも分散コードの連続ゆえに弾けないからなのだが(笑)、まさにそのニュアンスの機微がアリーナ規模では届かないということだね。ただアリーナを否定はされておらず、あれはパーティ、お祭りと割り切った盛り上がり方はありえる。
個人的には来月、そのさいたまナントカアリーナにKARAを観に行ってしまう私だ。確かにKARAはお祭り気分だ。ただ大会場でスパークルのカッティングギターを聴いてみたい気がしなくもない…。もちろんそのときはお祭り気分で。
また海外進出は毛頭考えていないとも。何度もそういう話はあったそうだ。そりゃそうだろう。どこに行っても通用すると思う。しかしそれも自分の仕事じゃないと断言される。「海外に行く暇があったら大宮に来る!」は超名言だったなぁ。ヤマタツファンの中心層は20~50代の男性なので、日本で頑張ってるコアでマニアなファンに常にベクトルが向いているわけだ。
舞台装置、会場選定、国内至上主義、そしてなかなか終わらない演奏(笑)、すべてが音楽へのこだわりの産物であり、それをグローバル化を否定するガラパゴス化と呼ぶなら呼んでみろというスタンスを貫き通している。不遇の時代からずっと好きな音楽を作り続けて来た自信と裏づけがあったればこそだろう。もしヤマタツが売れなくなってプロデューサにでもなっていたら、このこだわりゆえに会社と衝突するのは必至だ。今後もミュージシャン山下達郎の音楽を聴き続けたい。
●歌詞へのこだわり
ツアーパンフの充実振りもすごい。27000字。楽曲の歌詞について様々な思いがエッセイ風に綴られていた。歌詞解釈マニアの私としてはうれしい限りだ。昨今、歌詞分析や歌詞解釈が静かなブームなのかな。私の妄想解釈がメディアに何回か呼ばれたりするくらいだもんな。
山下達郎さんも歌詞を作るうえでは“妄想”して書いているという話がパンフに載っていた。まさに妄想とは感性の産物、意識してみる夢なのだ。アーティストが描いた妄想を、私はさらに自分の妄想で解釈する。これが私の歌詞解釈の極みであり、妄想コラボレイションなのである。アーティストとの違いはギャラくらいのものだろうか(笑)。
冗談はさておき、おそらく大衆歌謡の歌詞解釈ブームがあるとしたら、これも2011.3.11とかかわりがあるように思う。ポスト3.11の「日本」を意識したときに、大衆芸能における日本語の歌の力が小さな支えとなる場面は多いのかもしれない。
人間は言葉によって生き、言葉によって考える。政治家もそうであって欲しいが、いま言葉が信用を失いつつある。だが大衆芸能は常に人々に寄り添い、そのときの環境や体調、気の持ち方次第で心に小さな光を点せる。
「希望という名の光」(Ray Of Hope)という3.11以降に発売されたアルバムによって、そして今回のライブツアーによって、少なくとも会場にいた私は満たされた。山下達郎が「希望」を光と歌い、私はその「音楽」に光を見つける。
その光は物理的に誰かを救うことはできなくても、気持ちの切り替えスイッチを押す手助けをしてくれる。行動のきっかけになってくれることもある。高ぶる気持ちを落ち着かせてくれることもある。サウンドの力ももちろんあるけれど、いまの日本は言葉に光を当てたくなる時代なんだと思う。
MCでもプロポーズの歌詞についての話なども少し聞けておもしろかった。そこでは「そんなのはポップスの歌詞なんだから」といった発言もあり、基本サウンドの人ではある。でもそれは歌詞をないがしろにすることにはつながらない。
ポップミュージックの歌詞はどのように解釈も出来るところに大衆性があるのだ。だからこそ時代を超えることも出来る。境遇の異なる人にも伝わる。そしてその違いを語り合う楽しさもまたあるわけだ(と、また自分を正当化してみたりして)。
サウンドの人だなと思ったのはギタリスト佐橋佳幸さんとのギター掛け合いセッションのとき。今回表情まで見える席だったからわかったのだが、ギターセッションしているときに山下達郎さんの表情が完全にギター少年に戻ってた。口をとんがらがせてギターの高音に没入するのがギター少年の永遠のスタンダードだ(笑)。そこから逃れることは出来ないのだ!
2012.04.28
自分で弾き語りたい吉田拓郎20選!
自分で弾き語りたい中島みゆき20選!から早3年、今回は自分で弾き語りたい吉田拓郎20選!を選んでみたいと思います。
というのも4月14日放送のJ-WAVE「東京REMIX族 中島みゆきの歌詞の極み」に出演したとき、一番好きな曲に「永遠の嘘をついてくれ」をあげました。作詞作曲・中島みゆき、歌・吉田拓郎です。そのときふと、そういえば吉田拓郎の歌でこの企画やってなかったなと気付きました。
番組でもうひとつ感じたこと。しょこたんって疑問をもつのが大好きなアイドルなんですよね。「どうして~なんだろう」が口癖のようなのです。妄想好きに共通した資質は疑問を持つことなので妙に納得しました。まさに教育テレビ理科1年生で昔見た“なんだろうくん”のようなタイプなのです。“なんだろうたん”だったのです。
それでボクも「どうして吉田拓郎20選をやってなかったんだろう」と疑問を持ってしまって、この連休にやっちゃおうと思った次第です(笑)。ゴールデンウィークじゃなきゃ出来ないよ!
●選定基準は特になし!
でも始めてから気付きました。20じゃ到底絞りきれないってことを(いつものことではあるけれど)。シングルカットだけでも20を超えてしまう。仕舞いには「なんでこんなに名曲ばっかりなんだよ!」と逆ギレしそうになってしまいました(笑)。
だから途中で数を数えて20曲になった時点でいったん思考ストップ。そこからは文章に書くにあたってエピソードがあるかどうかを基準に若干差し替えを行うにとどめました。だから時代的には相当偏りがあるかもしれません。
また「落陽」だけは入れないと心に決めました(笑)。誰もが選ぶであろうこの曲はフォーク酒場の締めの曲なので、自分で弾き語らないから(笑)。だからある意味弾き語りたさMAXの曲でもあります。しかし20曲しか選べないなかで落陽に1曲割くのはひとくちメモ的にはあまりに王道すぎて気が引けまして。それだけです。
それでは自分で弾き語りたい吉田拓郎20選です。みゆきさんが弾き語りたい20選もぜひ聞いてみたい!2人でジョイントライブしてお互い相手の曲で弾きたい曲を弾き合うってのどうかしら?両者アコギ一本で武道館10番勝負とか。絶対萌える~。
●結果発表
いつも通り順位はありません。ほぼ思いつき順です。
流星
男の純情系バラードとでも申しましょうか。武田鉄矢さんもイチオシの曲ですよね。それで迷ったんだけど(笑)、最初に思いついたのはやっぱりこの曲でした。君の欲しいものは何ですか?
ペニーレインでバーボン
拓郎といえば字あまりソングの元祖。その代表曲といえばこの曲じゃないでしょうか。拓郎の字あまりソングって決して早口言葉じゃなくて歌いやすい。そもそも拓郎自身の語り口調も早口だからね。これ以外の字あまりソングは「FOREVER YOUNG」収録の「大阪行きは何番ホーム」と「7月26日未明」とか、「ローリング30」とか好きです。
吉田町の唄
最初に聴いたのは1993年のNHKのスタジオ101ライブだったと思うけど歌詞に感動したね。家族の大切さや連綿と受け継がれているコミュニティの命の系譜を拓郎の言葉で紡ぐとこうなるんだと思って。あくまで「私の唄」であって「私たちの歌」にしないところが拓郎らしさだと思う。
新潟県西蒲原郡吉田町の若者共和国からの発注で作られた曲だけど吉田町は全国にいくつかある。ボクは2002年四国旅行で愛媛県の吉田町を通過したとき、カーステでこの曲を流したかったけど持ってなかったんだ。でもそれがきっかけで「吉田町の唄」のCDを購入しました。
サマータイムブルースが聴こえる
この歌については、以前「サマータイム・ブルースが聴こえた!小説吉田拓郎」で渾身の記事を書いたのでそちらにリンクします。2006年のつま恋でのステージは忘れられないな。
外は白い雪の夜
春を待つ手紙
この2曲は1979年のシングルでカップリングだったんですね。それも春を待つ手紙がA面なのかぁ。これどっちも対話形式の曲なんですよね。歌詞の極み風に歌詞分析すれば桃太郎と同じで(笑)。
最初に聴いたのは「外は白い雪の夜」で1979年のライブ盤でした。レンタルレコードをカセットテープに録音して聴いてましたね。子どもだったから。このライブ盤は圧倒的にすばらしかった!中島みゆきから吉田拓郎に入ったボクの拓郎体験の原点かもしれません。このライブ盤だけで20選出来ちゃうから悩ましい。
春を待つ手紙は何かのラジオ番組で聞いたんだ。確か。そのときにいかにも拓郎っぽい歌だけど対話型ってところがやっぱ耳に残って。好きなんだな対話形式。歌詞では♪通り通りゃんせオイラだけ通せんぼってところが妙に好きです。
唇をかみしめて
RONIN
この2曲も武田鉄矢さんなくしては生まれなかった楽曲ですよね。「唇をかみしめて」は映画「刑事物語」の主題歌でしたね。中国地方出身者としては広島弁の歌詞が良かったなぁ。中島みゆきさんも歌旅のなかで歌ってますね。方言の持つ土地の臭いのようなもの、きっとお好きなんでしょうね。ボクも大好き。
RONINは「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬」という映画の挿入歌でした。この映画は武田鉄矢さんの好きなものを全部入れた武田鉄矢ワールドなのですが、鉄矢さんがBGMをファン目線で依頼してるっぽいんで幕末モノとは思えない楽曲群に度肝を抜かれます(笑)。そんななか、この「RONIN」は映画のオリジナル曲で沁みる一曲です。
3大日本映画挿入歌を選ぶなら、ボクのなかでは「戦国自衛隊」のサンゴーズダウンと「人間の証明」の人間の証明のテーマ、そしてRONINです。主題歌は「ジャスト・ア・RONIN」(作詞・安井かずみ、作曲・加藤和彦)というアッパーな歌でしたが、カップリングのRONINのほうが断然好きです!
旅の宿
ギター弾き語りという観点ではこの曲はイチオシかも知れません。ハンマーリングやプリングオフを多様して、最後にジャズっぽいキメの演奏から6度の音のダウンストロークで締める。これが決まると伴奏が上手に聴こえる(笑)。フォーク居酒屋でもこれは必ず歌いたい。
今日までそして明日から
国際フォーラムのライブではオープニングで歌われて身体が震えるくらい感動しました。この曲は永遠に残したい日本のエバーグリーンですね。映画「旅の重さ」も本当に好きな映画で何度見ても飽きないです。日本は経済大国にはなったらしいけど文化への熱はあの頃のほうが豊かだったなぁ。でもそんなこと言ってちゃいけません。今日までそして明日からです。明日も連休でほーんとうれしいけど!
春の風が吹いていたら
夏休み
恋の歌
3連発にしたのは疲れてきたからではありませぬ!この3曲が代表するのは、よしだたくろうの童謡歌集です。勝手に名付けました。いま名付けました。とっても素朴でチャーミングな歌がたくさんあります。それらのなかから特にギター弾き語り目線で選んだ3曲です。
春の風が吹いていたらは伊庭啓子さんの作詞作曲ですから入れるかどうしようか迷ったのですが、あえて入れました。そもそもが収録アルバム「伽草子」の表題曲もこのジャンルですね。当時の奥さんとデュエットしたり幸せモード全開です。
「夏休み」は修学旅行に持っていくために買ったカシオのミニキーボードを使って簡単な打ち込みでインスト曲にした思い出の曲。かなりいい仕上がりでカセット録音した記憶があります。
「恋の歌」はいまや所ジョージさんの歌ですか(笑)。テレビ番組で共演したときに所さんが拓郎さんに「ください!」って懇願してましたよね。所さんも子ども心そのまんまで生きてる人だからこういう歌好きなんだろうなぁ。ボクも大好き。
拓郎のなかにある母性をくすぐるかわいらしさはこういう曲に表出してるとおもいますね。それは作詞が他の人でも関係なく、拓郎さんの魅力につながってますね。このジャンルは他にも「ポーの歌」や「準ちゃん」など名曲がありますね。どれもギター弾き語り向きだけどあまりに短いので1人3曲までのフォーク居酒屋ではもったいなくて歌えない(笑)。
舞姫
名曲中の名曲ですねぇ。松本隆さんの作詞です。中島みゆきさんの「歌姫」と双璧をなすこの姫シリーズ。なんかこう「覚悟」って文字が思い浮かぶんですよねぇ。B面は隠恋慕(かくれんぼ)でしたが、これも中島みゆきさんの横恋慕と対になってると思っていいんでしょうか。言葉遊びレベルの話ですけれど。
元気です
ものすごく短時間で作ったって話を聞いたことがあります。肩の力が抜けてちょうどいい塩梅で作られた曲なんでしょうか。拓郎節が素直に出ていて、流れるような言葉とメロディがすっと入ってきますよね。
ポーラテレビ小説「元気です!」の主題歌でした。宮崎美子はいつも元気です!「元気です。」ってアルバムのタイトル曲じゃないです。「アジアの片隅で」という傑作アルバムに収録です。
「元気です」って言葉が好きなのかな。手紙に書きそうな言葉ですよね。拓郎さんは手紙も好きだからそういう潜在意識から出てきたタイトルじゃないかと深読みしてます。
I'm in love
これはライブ盤「ONE LAST NIGHT IN つま恋」で聞いたのが最初だなぁ。ほんと好き。やっぱ拓郎はライブが最高だよ。ボクにこんなラブバラードを選ばせてしまう拓郎のすごさ。伝わりにくいコメントで申し訳ない!でもいい曲なんだ。ほんとに。
祭りのあと
これも弾き語りしたいというコンセプトで選んだ曲。祭りのあとの寂しい感じがもの悲しくもあるのだけれど、どうしようもなくいい。「旅の宿」と同じくギターのキメのフレーズが決まるとうれしい。作詞は盟友岡本おさみ。「元気です。」に収録です。
いつか街で会ったなら
ドラマ「俺たちの勲章」の挿入歌で、中村雅俊さんが歌われてましたね。拓郎のセルフカヴァは「ぷらいべえと」で聞けます。
どうしてドラマや映画にこんなにマッチする音楽が作れるんだろう。音楽が先か物語が先かというくらいにマッチするんだよね。相乗効果なんだろうな。「俺たちの勲章」はアマゾンのレビュー書いてるんでDVD-BOXにリンクしときますが、いまはブルーレイ全3巻で出てます。即買い必至!
誕生日
明るくない誕生日の歌であります。ボクのtwitterの自己紹介にはこの歌詞から♪いまどのあたりを歩いているのかさっぱりわからなくなっているの部分を引用してます。それだけ好きな歌詞ってことですわ。20歳の頃もきっとそうだったし今もそうです。
リンゴ
ようやく最後の曲にたどり着いた。リンゴは2分弱の短い曲です。ものすごく日常的な、その日常の中でもほんの些細な、リンゴの皮をむいて食べるところ限定の歌ですけれど、妙に印象的な歌です。マークⅡなんかもこのジャンルに入れたいけど、深読みしたくなる歌詞のひとつですね。いまはしませんが。リンゴでなきゃ成立しないこの感じはなんなんだろう。
というわけで、20曲選んでみましたけれども。あれも入ってない、これも入ってない。こんなことならワースト20を選ぶほうが簡単かも?(んなこたないか)
2012.04.27
4MINUTEとTHE KOXXでGrooooovin' NOW
4minute(ポミニ)の3rdミニアルバムや音楽番組でポミニが歌う「DREAM RACER」を聴いてすぐに、この楽曲を作詞作曲しているTHE KOXXというグループに興味を持ち、彼らの2枚のCD「Access Ok」と「ENTER」を取り寄せた。なんの予備知識もなく、いや厳密にはポミニの「DREAM RACER」のグルーブだけを予備知識にして聴いた。その感想を一言で言えば「コイツら、すげぇ」だ。
平均年齢はポミニとあまり変わらない5人組だが、その楽曲はK-POPとは一線を画す。ブリティッシュ風のオルタナティブなロックテイストとか、そういうチープな言い回しでは言い尽くせないくらいゴキゲンなドライブミュージックだ(ってこの言い方はもっとチープだな…)。
それにしても2枚ともすばらしいアルバムだった。このグルーブはどこから来るんだろう。打ち込みも多様しているけれど、もっとライブバンド的な要素が強い。圧倒的なのはギターリフを中心とした構成だろうか。サウンドの要がギターになってる。それでいていわゆるロックバンド然としていない。
もちろんロックの要素もあるのだが、そこにオルタナ系やクロスオーバーなサウンドがてんこ盛りされていて。そして楽曲が明るい。陰にこもるタイプの楽曲じゃなくて、もっと太陽の下で聴きたくなるような明るさを持ってる。それは4minuteの「DREAM RACER」で直感した路線につながってると思った。
個人的にはバーサンバ(あるいはOVERSTREET)を聴いたときの衝撃に似てた。かなり好きなグルーブだ。バーサンバよりももっと激しく聞こえるのもギターの効果だと思う。
ギター中心のサウンドともうひとつ、シンセの音がものすごくいい。懐かしい感じの音もうまく練り込んでて、テクノポップ世代(YMO世代)のボクの耳にも心地いい。ホントに二十歳そこそこの連中がこれを作ってるのか!?恐るべき才能だ。
●4minute×THE KOXX その答えは
4minuteとのコラボは誰の発案なんだろう。このコラボを一言で言えば「正解!」だ。大正解といっても過言ではないと思う。
ボクは2010年のひとくちメモで「포미닛! ポミニ! 4minute!」というポミニ、そしてジユン礼讃記事を書いているのだが、その終わりのほうでこんな希望を出していた。
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K-POPの範疇ではダンスチューン中心にならざるを得ないが、ジユンには韓国インディーズシーンとの交流とか世界中の幅広い音楽を吸収して、さらなる表現力の進化を目指して欲しいっ!それが出来る才能があると思う。
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THE KOXXという韓国インディーズ界の新星とポミニのコラボは、この願望がまさに最高の形で実現したなと思える。
もっともボクにとっては、ポミニの新曲を聴くまでは知らなかったTHE KOXXだが、サマソニなどにも出演しているそうだから耳の速いとんがった連中は既に注目していたバンドなのかもしれない。ポミニを聴いていてこんなすばらしいバンドと出会えるなんてうれしいね。
特にポミニにとってジユンにとって、THE KOXXがひとつのジャンルに捉われない多様性を追求しているバンドであったことがすばらしい。このコラボはものすごくプラスになると思う。音を聴けばわかる。よくぞ実現してくれたといいたい。
THE KOXXのアルバムを聴いていてそこに何か足りないものがあるとしたら、それは女性ボーカルだ(何が言いたいかバレバレですが)。
例えば昔のSoul Ⅱ Soulのように女性のゲストボーカリストを入れてやるとものすごく映えるんじゃないだろうか(参考楽曲は2ndCDのPeopleとかA Dream's A Dream)。
そう考えると、4minuteとのコラボはTHE KOXXにとっても新しい発見のある取組じゃないかと思う。
そういう思いに至ったところで、あらためてポミニへの提供曲「DREAM RACER」を聴いてみると、THE KOXXサウンドがポミニのパフォーマンスと邂逅したことに「大正解
」と叫ばずにいられなくなるのだ!
欲を言えばきりがないが、ぜひポミニとTHE KOXXのジョイントライブを見てみたい!!
2012.04.22
4minuteのVOLUME UPに投票する日々!
韓国で発売された4minuteのサードミニアルバム「VOLUME UP」が昨日ようやく届いたので聴いた。ていうかいまも聴いてる。聴きながら書いてる。
おなじみ신사동호랭이(シンサドンの虎)作曲による活動曲のVOLUME UPとTHE KOXXと組んで話題のDREAM RACERは、日本でも生放送が見れるMCountdownのカムバックステージで見ることが出来ていたので期待は大きかった。日本からも投票できるからVOLUME UPに投票する日々だ。
先週のMCountdownの最後みんなで集まる場面でのガユンは泣きそうな口元をグッとこらえていたように見えた。それは新曲でのカムバックステージのうれし泣きなのか、1位が取れなかった悔し泣きなのかわからなかったけれど。
そのステージを見ながら早くCDをウチのスピーカでちゃんと聴きたいと思った。特に今回の活動曲はエフェクト処理にも深みがあったし、ガユンとジユンのWユンコンビによるボーカルの掛け合いなども確実に深化を感じさせていたから。
ミニアルバムだけど全7曲はバラエティに富んでいてどれも良かった。ひとりひとりの個性が上手く活かされていて。今回の特徴はマンネのクォン・ソヒョンの成長ぶりかもしれないと思う。特にDREAM RACERでのラップ部分は17歳のいましかできないガールズ・ラップに仕上がってる。
ボクはあまりラップが好きではない。特にダミ声のラップは男女ともにちょっと好きになれなくて、2NE1にはまれなかったのもきっとそこなのだ。それは実力とかクオリティとかそういうことではなくてひとえに好みの問題なのだけど。
だからといってK-POPとラップは切っても切れない仲なので、ラップなしというのも寂しいというわがままなボクにとって4minuteの3人のラッパー兼ボーカル(ヒョナ、ジユン、ソヒョン)の声はみんな聴き心地がいい。
ヒョナとジユンは対照的なラップを見せる。静のヒョナと動のジユン。ついでに言えばボーカルの要はガユンとジユンだが、この二人もボーカリストとして対照的だ。ボクの大好きなジユンは4minuteの飛び道具というか、ジユンがいることによってヴァリエーションが格段にアップすると思ってる。最近はジユンのラップはあまり聴かれなくなってきたが、たまにはラッパーもやって欲しいと思う今日この頃だ。
そこにボーカルとラップと両方でマンネのソヒョンが個性を発揮できるようになれば音楽的な自由度もさらに広がるはずなのだ。そしてVOLUME UPでもDREAM RACERでもその可能性の扉が確かに開かれた。そう実感した。
わがままついでに言えば、MCountdownのカムバックステージで最初に魅せたソロパートの"너는 남의 눈칠 보며 한숨 뿌려 놓겠지 다들 품보다는 귀여운 척들만 해대지"くらいの抑えた発声、ウィスパーボイスとまではいわないが声をあえて張らない発声でラップしたほうがより活きると思った。YMOみたいな浮遊感ラップで。
なにはともあれ、この強力な楽曲群で戻ってきたポミニがうれしい。それにしても日本のファンクラブは会員ページで韓国での活動開始後のフォローがほとんどない(
)。物販よりこっちだろと思うが。
日韓のマネージメントやプロモーションの切り分けとか事情はあるんだろうが、グローバルに展開しているグループのファンは日本の活動と韓国や他国での活動とを分けてみているわけじゃない。グローバルな活動情報をしっかりフォローしてくれたほうがよっぽど意味がある。それがあってこそ日本の活動につながる。運営者にはそれがわかってないのだろうか…。
2012.04.21
「事務ミス」をナメるな!
日々事務ミスには悩まされている。ボクは元プログラマーでもあり物事の手順を考えるのが趣味みたいなものなので、『「事務ミス」をナメるな!』の著者のお話にはまったく同感した。
ヒューマンエラーは努力と根性では防止できないし、ミスを起こしやすいポイントはいくつもあり対症療法的な取組になりやすいが、ミスの入り込む隙間を少なくする手順の構築は可能だ。
だがあらゆる組織やグループには抵抗勢力が必ずいて、昔ながらのやり方を変えたくない人々の坩堝でもある。そういう人物や集団を説得していくことから始めなければならず、最初のハードルが非常に高い。
職人芸でミスなく仕事をしている人々には、システム変更に対するものすごい不信感があったりする。手順を変えることは自分自身の仕事を否定されたとまで思う人もいるだろう。
そもそも仕事というものは(第三者から見れば)ミスがなくて当たり前なのだ。だから日々ミスのない仕事をしていれば評価はプラスでもマイナスでもない。ミスしたときにマイナス評価になるだけだ。
そういう考えから入るとミスを起こさないためのシステム開発は完璧に作動してもプラスにはならない。せいぜい評価ゼロの継続でしかない。
そういう意識から変える必要に迫られているのが現代社会だ。リスク管理という視点がますます重要になる仕事環境において、凡ミスの防止は急務であり、ミス撲滅のための継続的な取組をシステム化しなければならない。
実務的に考えればシステムの変更によって防げるミスは多い。ミスの発生ルートそのものを根絶し得る場合もあれば、ヒューマンエラーへの注意喚起を促すアラートを示すだけの場合もある。組織においてはそられの取組をしっかり評価する仕組みも必要だろう。
またそのシステム変更によって負荷が増える人々をいかにケアしていくかも重要な要素だ。手順の見える化と同時に成果の見える化も必須事項だと思う。
●お客様は神様でも信頼できる仲間でも信用しない
ミス防止のためにあえて非合理的に見える手順を入れる場合もある。よく引き合いに出したのは昔のカセットテープ録音だ。録音ボタンと再生ボタンを同時に押さなければならない。録音ボタンだけでいいように思うが、あえて再生ボタンも押させることで間違うリスクを低減していたわけだ。「録音する」という動作を意識させるために2つを同時に押すという非合理的な手順になっていたのだ。
ま、いまや「カセットテープの録音ボタン」が通じないわけだが(笑)、例えばHDDレコーダでもキャンセルとOKの位置をあえてパソコンなどと逆にしたり、スポーツウェアでもポケットのジッパーを下から上に引き上げて締める仕様になっていたりする。
つまり無意識の動作と逆をユーザーにさせることで動画を消したり、ポケットからモノを落としたりするミスを防ごうとしてくれているわけだ。もちろんその動作に慣れてしまうと同じことではあるが、日常の便利さとあえて逆の動作で意識付けをしていく効果はある。
先日見かけたのはチケットの発券のために10桁以上の数字を押させる画面があり、そのテンキーの並び順がランダムになっている機械だ。いつものテンキーのつもりで押すことが出来ず嫌でも数字を探して意識しながら押さなければならなかった。非常に面倒なのだが、これも間違い発券のリスクを重く見たのだろう。また物理的なボタンではなく画面上のボタンだから毎回ランダムに表示でき慣れることがない。
いろんな場面でいろんな担当者がリスク回避について考え始めていることは確かなようだ。ヒューマンエラーの起こしやすさからすれば、もっとも信用できないのが一般消費者であり、そういう一般人を相手にする場合は訴えられるリスクもあって、慎重なエラー回避策を日々検討しているのだろう。だがこれが組織やグループでの仕事となると、情報共有も進んでいる(と思っている)し、まだまだリスク管理が甘い。プライドの高い組織ほどその傾向にあるように思ったりする。
●手順化は“ボクの愛した数式”
私自身は仕事のうえで自分自身のミスを減らすために細かい手順のマクロ化や業務フロー化を行い続けてきた。モットーとしているのは「自分自身も信用しない」ということだ。自分をひとりのユーザーと想定し客観視することから始める。構築したいまのことを忘れてしまっているであろう未来の自分へのメッセージとして手順とコメントを残し続けている。「博士の愛した数式」の博士のように。
それらは特に評価を意識することなく自分のためにやっていることだから、ユーザーたる自分自身が納得できるシステムになっている。こんな改善をずっとやっていると、この仕事が他の仕事とどうつながっているかへの視野も広くなる。問題点の発見にもつながる。だが自分だけに見えていて、つながりのある別の業務従事者に見えていないと話が通じにくい。ときにケンカになったりもする。そこに組織のヒエラルキーなどを持ち出されるともう事務ミスから学ぶチャンスは闇に葬られてしまうのだ。
他人に自分の仕事をゴチャゴチャいわれたくないという感情は誰にでもあるだろう。だから結局、他人のミスを念頭にいれて、そのミスが起きたときに自分自身のシステムにアラートを出し、みつけたミスをひとつひとつ指摘しては直させるということをやっている。牛歩の歩みだが、具体的にミスの発生過程とその後のミス発見過程をいちいち示すことで、新たなシステムの必要性を実感させることも必要なのだ。
ただし、このような事務ミスをナメているダメ経営者は多い(
)。彼らもまた「博士の愛した数式」のようなものだが、彼らは博士のようにメッセージを残さない。昨日のミスはすぐ忘れて今日もまた同じミスを繰り返す。そして重大なミスが起きたときだけ関係者に責任を負わせ逃げてしまうのだ。卑怯だがよくある光景だ。彼らは自分自身を信用している。それが誤りの始まりといえるだろう。経営を根性でやってミスらないことを祈る。
というわけで、この文章のなかにも一箇所タイプミスがある(笑)。二箇所はないつもりだが大丈夫かな。
2012.04.15
2012年キム・ギドクの旅
3月29日に韓国文化院のハンマダンホールでキム・ギドク監督の「春夏秋冬そして春」(2003年)という映画を鑑賞した。ほとんど何の知識もないまま上映会に向かった。事前情報としては、文化院の上映会案内で「神秘な山奥の湖上の庵を舞台に、ひとりの男の人生を美しい自然の四季と重ね合わせて描いたドラマ。」というリード文だけだった。だがこの一本との出会いは決定的だった。
遅れてきた韓流野郎のボクにとっては2010年のポン・ジュノ監督に続いて惹き込まれた監督だった。しかしその作風はまったく違っていた。どちらも作家性が強く監督の個性そのもののような映画を撮るが、ポン・ジュノ監督は構築していく作家であり、キム・ギドク監督は脱構築していく監督のように感じた。
それは「春夏秋冬そして春」を最初に見たからだとも思える。上映会から帰宅して、どうにもこうにもキム・ギドク監督のほかの映画も観たくなり、すぐ届くDVDを5本注文し立て続けに観た。すると「春夏秋冬そして春」はまさにターニングポイントといえる独特なポジションの映画だったことがわかった。
監督自身もこの映画の前後で意識が変わったことを記者会見で述べられている。翌年の作品「サマリア」(2004年)の日本公開で来日されたときのことだ。記者会見の席でキム・ギドク監督はこんなことを話されていた。
「春夏秋冬そして春」までの映画では、社会に対する怒りや心の叫びを反映させていたが、この映画から「サマリア」「うつせみ」そして「弓」と続く映画では、もっと美しい部分を見ようとし始めたと言われ、魂との対話をしようという考えの作品になってきたともおっしゃった。自分自身が変わったと。
知り合いに「明るくなりましたね」とも言われたそうだ。「春夏秋冬そして春」以降は世の中を少し楽に見られるようになったと話された。そして、「この先どう変わるかは自分にもわかりません」と今となっては意味深な発言もされたのだが、そこについては後述したい。
●「春夏秋冬そして春」の世俗性
この映画は韓国とドイツとの合作映画で、韓国の美しい国立公園の湖に浮かぶ小さな寺を舞台にしている。この寺はセットだという。半年かけて関係する役所を説得し、湖に浮かぶ寺のセットを組んで撮影された。
別の作品「弓」(2005年)のなかで少女が生活する釣り船と、「春夏秋冬そして春」で少年が暮らす湖の寺とはオーバーラップする。「水に浮かぶ幼少時の生活の場」はキム・ギドク監督の潜在意識のなかに強くあるモチーフなのだろう。
そこは外部と隔絶された空間であり、自分を守ってくれる大きな存在の大人がひとりだけいる。幼児はやがてそこから外部の存在を知り関わりを持っていく。
「春夏秋冬そして春」の寺は、その内部で生活している分には非常に平穏であり、ある種の理想郷かもしれない。何もないが外部を知らない幼児にはその何もなさは苦にならない。春から夏へと季節が移ろうなかで、幼児も少年へと成長してゆく。
舞台が自然に囲まれた山寺であり、登場人物もお坊さんと小坊主の微笑ましい生活である前半は、非常に崇高な文化の薫り高い映画に思える。壁(間仕切り)がないのに扉だけあったりして、いちいちその扉から出入りする場面がある。壁がないんだから何も扉を開閉しなくてもいいのに見えない壁の存在を重んじる。礼節の象徴のような部分なのかもしれない。
しかしそんな教育映画のような物語が秋から冬へとまったく違う映画に一転してゆくのだ。
その湖の寺は小舟で外部とつながっている。小舟に乗って山菜取りなどに出かけるが、たまに来客がある。この来客の存在が俗世間との接点であり、少年が青年へと成長し寺を出て行くきっかけとなる。
夏以降、心を病んで療養に来たひとりの少女によって、それまでの崇高な文化の薫りをまったく打ち消すかのようなゲーセワな問題が次々発生する。性に目覚めた小坊主はその少女とセックス三昧。見えない壁も本当に見えなくなり夜這いもする。早朝から小舟でもやる。やがて少女を追って寺を出て行く。その後、何年も経って青年が寺に戻ってきたり刑事が追ってきたりするわけだが、映画前半とまったく別のゲーセワ映画になってしまうのだ。
この真っ二つに割れた映画が、しかし破綻することなくまた映画として蘇ってくるのが冬の時代だ。そこには中年坊主となって再度寺を訪れたかつての小坊主だけがいる。その中年坊主をキム・ギドク監督が自分で演じているのだが、非常にストイックな修行の連続なのだ。悔い改めるとはどういうことかみたいな教育映画にのめりこんでいくのだ。圧巻は苦役のための重しを腰に巻き仏像を抱いて荒れた山肌を一心不乱に登っていくキム・ギドク…。
なんとも不思議な、他に類のない映画だった。ゲーセワ部分を除いては。しかしこの映画にあのゲーセワさがなかったら、ボクの心にムズムズとした何かを残すこともなかっただろう。なぜこの監督は美しい自然のなかに寺を浮かべてこれでもかとゲーセワな問題を持ち込まなければならなかったのか。そんな疑問がこの監督の他の映画にボクを向かわせた。
●「春夏秋冬そして春」前後のキム・ギドク映画
「春夏秋冬そして春」前の映画では、「受取人不明」(2001年)と「悪い男」(2001)を観た。どちらも非常に力のある映画だった。自伝的な側面もある「受取人不明」と男の妄想ムービー(?)「悪い男」と、どちらも商業映画としての文法を持つ練られた脚本だと思った。
ただしキム・ギドクの文法は普通じゃない。どうしてそうなるの!?という唐突さや強引さもある荒削りな映画でもあった。超短時間で撮影される監督だということもわかった。低予算でもアイデア次第で面白い映画は作れるんだという自主製作映画人に夢と希望を与える監督でもある。
先に書いた監督のコメントどおり、この頃には暴力などの残虐シーンや自虐シーンもあり、社会の闇や韓国の抱える問題点をえぐるようなエピソードが盛り込まれている。
だがどちらも映画らしい映画とはいえる。逆に言えば「春夏秋冬そして春」が、それまでのキム・ギドク映画とはまったく異なる、異質な映画だったといえそうなのだ。
「春夏秋冬そして春」以降の映画は、「サマリア」「弓」「うつせみ」、そして今年イメージフォーラムで公開されていた「アリラン」を鑑賞した。
「サマリア」は「春夏秋冬そして春」以前のキム・ギドク映画に近い。援助交際をする少女二人の物語だが、最初の少女の足跡を追って売春し続ける主人公のその動機が普通じゃないし、まさに映画のような映画だ。
「弓」はまさにキム・ギドクの脳内にあるイメージをそのまま映画にしたような不思議な映画だった。これも設定が異常だし結末も異常なのに、なにか崇高な感覚になる。「春夏秋冬そして春」を逆パターンで撮ったような映画だ。世俗にまみれた現実(海に浮かぶ釣り船)のなかに留まり続ける純粋さを追求したような。
「うつせみ」の設定もよく思いつくなというくらい不自然だが面白い。キム・ギドクの映画文法を堪能できていい映画だった。留守宅を狙って宿にしては記念撮影をする主人公。冷蔵庫の食品は調理して食べるが、必ず家人の衣服を洗濯し、壊れた時計などを修理して出て行く。まるでそれが一宿一飯の恩義のように。
そんな生活のなかでDV夫に軟禁されている人妻と出会い、連れ立って二人でそんな生活を始める。だがそんな生活がそうそううまく行くはずもない。やがてつかまり人妻誘拐犯にされる。しかし人妻のほうも放浪生活の足跡をひとりで辿り始める。それはまるで「サマリア」の少女のようでもある。
これらがキム・ギドク映画のすべてではないだろうが中核となる作品群を見ることができたと思う。どれも世界の映画祭で絶賛された映画ばかりだ。これらの映画にはキム・ギドクのコアにあるイメージ、それは世俗から隔絶された水上の共存関係だったり、不在の友の生き直しだったり、悪や世俗のなかに存在し得る純粋さや正しさの肯定だったり、それらを突拍子もないストーリで描き続けているように思えた。
●自分撮り映画「アリラン」の衝撃
そして最新作かつ問題作「アリラン」だ。キム・ギドク監督は次のステージに入ったように思う。第1ステージは社会への怒りを反映した映画群だった。そして「春夏秋冬そして春」を境に第2ステージ=世俗のなかに美しさを見つける映画を撮り続けた。
しかし第2ステージは「悲夢」で終わる。出演女優のイ・ナヨンが撮影中に死にかける事故があり、以後キム・ギドク監督は映画を撮れなくなってしまった。そして3年が経ち昨年発表された「アリラン」は、その3年間の隠遁生活を自分撮りした作品だった。
真実と演出とが渾然一体となった作品だ。3人のキム・ギドクが登場する。ひとりは完全に弱気な男。もうひとりは聞き役に回って言葉を引き出す男。そしてもうひとりは客観的にその映像を編集する映画監督の男。どれもキム・ギドク本人だ。
時には自分を挑発し、時には映画産業を批判し、時には裏切った助監督を詰り、時には酒にまみれくだを巻き、時には熱く映画について語る。根が饒舌なのはこれまでの様々なインタビューを見ていてわかる。キム・ギドク映画はセリフが少ないが、監督本人が語り始めるととめどなく言葉があふれてくる。
監督として第1、2ステージで世俗の陰陽をいずれも極めて来たが、いま第3ステージに向かって「アリラン」を作り、陰陽渾然一体となった自分自身の恥部をさらけ出す。3年間の隠遁生活が正解だったかどうかは今後の作品次第だ。
ただ「アリラン」によってキム・ギドク監督の意識は確実に変化していることがわかった。思えば「春夏秋冬そして春」の前年に撮った「コースト・ガード」は第1ステージの“怒りの時代”の総決算と考えられる。この路線のつらさの極北だったのかもしれない。
●怒りの春、愛の夏、そして「アリラン」の秋
そう考えると「春夏秋冬そして春」の異質さも理解できる。ここでまったく人が変わってしまったキム・ギドク監督。だが人間には変えようとしても変わらない部分がある。それを信じればテーマが変わってもにじみ出る個性は残るものだ。
キム・ギドクは映画への情熱だけを羅針盤に“怒り”から“愛”に舵を切った。だがそこで作られた映画はまさにキム・ギドクそのものだったのだ。
だがその“愛の時代”は不幸な事故で幕を下ろした。いやもうその前にこの路線の限界は見えていたのかもしれない。それが事故をきっかけに止める決断をしたのではないか。
そして懺悔の3年間のなかで何らかの意志が芽生えたのだと思う。「アリラン」にはキム・ギドク監督が自作をパソコンで見ながら号泣する場面がある。この印象的なシーンで見ていた映画は「春夏秋冬そして春」の過酷な最後のシーンだった。
自分自身で演じたその僧侶の姿を見ながら涙を流していたのだ。その涙には様々な意味が見て取れるが、これは訣別の涙だったのではないかと思う。この作品で始まり不幸な事故で終わった自分の映画人生の第2ステージ=“愛の時代”に別れを告げたのではないか。
“愛の時代”の始まりに「この先どう変わるかは自分にもわかりません」と話していたキム・ギドク監督。次が何の時代になるかわからないが、「アリラン」を発表できたこと自体にキム・ギドクの映画への執念を見た。「春夏秋冬そして春」で考えれば、「アリラン」はキム・ギドク映画における秋の訪れなのかもしれない。
ところで「アリラン」のなかで、マーク2があればどこでも映画が撮れるとおっしゃっていたが、このマーク2とはEOS D5 Mark Ⅱのことだ。「アリラン」はこのカメラで撮られているんだろう。次回作の「アーメン」も、カンヌ国際映画祭で「アリラン」がある視点部門最優秀賞を撮った帰りにこのカメラを使って撮ったロードムーヴィーらしい。荒削りが魅力のキム・ギドクらしい映画が見れそうだ。
2012.04.14
オンエア後の感想戦と「ホームにて」の解釈で罪滅ぼし(笑)
J-WAVE東京REMIX族「中島みゆきの歌詞の極み」の放送が終了しました!まず最初に感じたのは編集の力!テレビに出たときも感じましたけど、番組作りのキモってやっぱ編集の力だなぁ。プロの仕事ってすごいな。
それと番組終わりの五郎さんとしょこたんの振り返りコメントがめっちゃ暖かかった!まったく極まってないのにフォローしてくれて。全曲集も持って行ってよかった。最後にお二人がそこに触れてくれて。タネあかししてもらえた感じになんだかうれし涙が出てきそうでしたよ![]()
5/2発売のしょこたんのべすとも予約しちゃいましたよ!10周年のことや前に深夜番組で作ったベジータ様の歌詞のことなんかも聞きたかったけど聞けなかったのが残念でした。アジア進出も大成功を期待します。ジャッキー・チェンはボクも大好きです(笑)。
というわけで、一区切りついたので今回も後夜祭ならぬ感想戦という名の反省録を書いておこうかなと。個人的な妄想エンディングトークですわ(笑)。
実際にボクがしたヨタ話は放送された倍以上あって(笑)、そこが反省ポイントだったわけですが、きれいに取り除かれたり再編集されたりして、流れるような番組になってました!胸をなでおろしてますわ。
ツイッターを見てると面白かったという声もあれば、極みっつっても2曲かよ的なコメントもあって。これ事前アンケートでは「中島みゆき(or 歌詞分析)の極み」と、中島さんオンリーでいくのか歌詞分析(歌詞解釈)全般でいくのか、ちょっと決めかねていたんです。
「地上の星」は課題曲だったから必ずやることになっていましたが、それ以外は迷いがあって、「ヘッドライト・テールライト」はぜひやりたいというのと、そこから派生した谷村さんの「昴」も入れておく必然性はあるだろうくらいまでは決めてました。「地上の星」のつばめをラジオ目線で語れたのは今回が初なのでそれもうれしかったです。
これ以外の曲については、いろんなネタをお渡しして作家さんやスタッフさんに進行台本をお任せした感じでしたが、結局すんばらしい編集の力で両方いいとこだけ活かしてもらえてたという感想です。
一言だけいっとくと、「バン・バン・バン」は「そもそも分析しきれない曲はありますか?」という質問の答えとしてむりやり解釈してみたものでした。でもいま放送を聴いて間違ってなかった!と思いましたね(笑)。
童謡については童謡でも何かありますか?ということだったので、昔からいろいろ考えてる太郎系のなかから(笑)「桃太郎」と一般的に知られてる「やぎさんゆうびん」を選んだわけです。このジャンルは入り込むとFM放送じゃなくなっちゃうんで軽めに…。やぎさんゆうびんは「3番4番がなきゃ終われないよ」って部分はカットになってましたね。いずれこのひとくちメモで3番4番の妄想的歌詞追加もしてみましょうかね。
●ホームにて
最後は「永遠の嘘をついてくれ」でした。これはウソのない詞なんじゃないかということで締めましたけど、一番好きな曲やフレーズは何ですかって聞かれるのはとても難しいですよね。ここはとにかく悩んだんですけど、一応ラジオ番組でもあり、いいエピソードもあるし現場にいた強みもあって、この歌を選ばせていただきました。
それでも3曲ですから、極まってるかというとどうだろう?ってボクでも思いますわ。そこでひとくちメモではもう一曲中島みゆきさんの「ホームにて」を少しだけ解釈してみたいと思います。罪滅ぼしっつーんですか。
事前アンケートでは「中島みゆきさんの歌詞が他の歌手とは明らかに違う点ってどんなところでしょうか?」という質問の答えに「ホームにて」を引いて書いていて、放送で触れる機会があれば触れてくださいということだったんですけれど、中島みゆきさん以外の歌詞で舞い上がってしまって触れられませんでした。桃太郎やってる場合じゃなかったよね(
)。
「ホームにて」のキモは何気なく聞いていると聞き過ごしてしまうような一言の重みではないでしょうか。そのフレーズは歌いだしにありました。
♪ふるさとへ向かう最終に 乗れる人は急ぎなさいと
♪やさしいやさしい声の駅長が 街なかに叫ぶ
この歌はなんらかの事情があってふるさとへは帰れない主人公を歌っているのですが、その事情について説明はいっさいありません。ただ帰りたいけど帰れないんです。
一般的に駅のホームには乗る人と見送る人がいます。素直に聞き流せばホームでそれを眺めている主人公、あるいは乗るか送るかどちらかの当事者としての主人公がホームにいて、そこでの情景描写をしているかと思います。
でもこの歌いだしの駅長の言葉はおかしくないですか?「乗れる人は急ぎなさい」とは言いませんよね。ちょっと日本語として違和感がありませんか。
普通は敬語で「ご乗車されるお客様はお急ぎください」のような言い方ですけれど、語調を整えるにしても「乗られる」といった敬語ならわかります。また安全面を考えれば「急げ」と駅長が言うでしょうか。
そう考えてしまうと歌詞解釈のスイッチが入ってしまいます。この「乗れる」は可能表現であって、駅長の言葉が「乗れる人は急げ。おまえは乗れない人だろう」と問いかけているように主人公には聞こえているんじゃないだろうか。
事情はわからなくても、そういうふるさとの捨て方をしたおまえには帰ることなんて出来ないだろうと、やさしい駅長の声が叫んでいるように聞こえてしまう。急げとせきたてられても乗れない人としての自分が躊躇しているんです。ホームにて…。
美しいメロディで歌いだしからものすごい絶望を歌うんですね。このギャップもまた魅力のひとつだと思います。こういう1フレーズが重要な意味を持っていたりします。ふるさとを捨てるというモチーフは、たとえばその後の「異国」という歌にもつながっていきまよね。
シンガーソングライターの場合は歌詞がいくつもの歌でリンクしたりすると、それがひとつの作家性として立ち現れてきます。そういう楽しみもありますよね。長くファンをやっていると楽曲も溜まるので、そんな心理分析チックなことも楽しいです。あくまでもひとり上手な妄想的解釈ではありますけれども。
それと番組最後に五郎さんとしょこたんが触れてくれた中島みゆきさんと動物との関係につきまして興味がございましたらこちらをご覧あそばせ。以上、番外編エンディングトークでした。いつもながら客観的な編集がないブログだから饒舌すぎるなぁ。違う意味で反省、…するもんかっ(笑)。
2012.04.12
おもいで避け
♪無理して雇っちゃ いけないと
♪カネを渡して 追い出した
♪慰労金 どうして 二回払い?
♪噂をすれば 払わない…
♪おもいで避けて くれりゃいい
♪紅白にかかった カネを見て
♪そっとそろばん はじく彼
♪あの衣装 どうしてこの値段?
♪業者を変えりゃ 安くなる…
♪おもいつきだけで 口はさむ彼
(3番は特に替え歌にする必要なし)
2012.04.07
脳内曲名 な行編
ネタぎれのときの定番企画「脳内曲名」です。前回はいつだったかと確認したら、「だ行編」は2010年4月25日だったので二年ぶり。この二年間はまさにハングル学習をはじめた最初の二年間でした。ようやく少し余裕が出来たというわけです。余裕はあってもネタがない!というわけで能書きはこのくらいにして始めます。イモ欽トリオのフツオの「なーっ!」を思い出す世代、「な行編」。
な:ナワ(나와)
に:人間の証明のテーマ
ぬ:ヌードと愛情
ね:ねこのねごと
の:North Wind
書き始めてからここまで約8分、ノープランでメモも取らずに選べたのがうれしい「な行編」です。
「な」を考え始めた瞬間、チャン・ギハと顔たちの「나와」を真っ先に思いついてしまったのは、この2年間のハングル学習の成果でしょうか(笑)。この曲は彼らのメジャーデビューアルバム「何事もなく暮らす」の1曲目を飾る楽曲で、チャン・ギハと顔たちの勢いを感じさせます。ライブでも盛り上がる曲ですね。とにかく「前に出ろ!」というオレ様感漂う名曲です。
「に」では「人間の証明のテーマ」を思いついてしまいました。もっといろいろあるようにも思いますが。「ニンジン娘」とか(笑)。でも人間の証明のテーマはカラオケで歌い倒した曲ですから。映画のほうも「これぞ角川映画!」というくらいすばらしく、この曲はこの画像と一緒に見ておきましょう。だんだん明るくなっていく風景と岡田茉莉子演じる女流デザイナーの人生の悲しさのコントラストが美しいです。
松田優作さんもかっこよかったし、森村誠一の原作も良かったし、なによりストーリーの底流にある戦争に翻弄された女の一代記がグッときます。薄っぺらいミステリーが多い昨今ですが、こういうどっしりした原作の日本映画が見たいですね。
「ぬ」もすぐに思いついたのがVANILLAの「ヌードと愛情」です。これも昔はカラオケで歌いまくってましたね。男にはキーが高いのによく出てたな。客観的には出てなかったという評価もありそうですが無視!ぷんぷんぷんぷん!でももう歌えません。K-POPファンになった私の嗜好性の原点のひとつかもしれません。
「ね」は一転して高田渡の「ねこのねごと」です。さだまさしの「猫背のたぬき」と一瞬迷ったけど、先に思い浮かんだ高田渡にしました。高田渡さんは本当に稀有な才能でしたね。ボクが歌詞解釈を意識的に始めたきっかけも高田渡さんでした。亡くなったのは7年前の4月でした。もう7年になるんですね。
「の」が一番悩みました。考えた8分弱のうち、半分くらいは「の」を考えてたの~。その結果思い浮かんだのは永遠のアイドル松田聖子のセカンドアルバムにして傑作の「North Wind」からタイトル曲が思い浮かびました。このアルバムはジャケットの聖子ちゃんの天使の輪(髪の艶)から始まって、とてもまとまりのあるアルバムだと思います。North Windという曲はアップテンポな曲ですけど、全体に初冬の雰囲気で少し大人っぽくなった聖子の歌が堪能できます。個人的に胸キュンアルバムです(笑)。ブルースペックCDで再発されたときはとても嬉しかったです。
というわけで、「な行編」でした。脳内曲名とはなんの脈絡もない、あるとすればボク個人の脳内ヒラメキつながりでしかない、そんな楽曲のピックアップなわけです。恣意的に選んでないぶん、後から見直したときに客観的に自分の音楽体験を振り返られると思ってやってます。無意識に作られたプレイリストですね。ま、このあたりの理屈はすべて後付けですけれど(笑)。
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ところで私のラジオ出演の件ですが、いよいよ来週土曜(4月14日)放送です。FMのJ-WAVEで17:00から放送の「東京REMIX族」に参加します。お蔵入りにならなくて良かった...。Twitterなどを見ると中島みゆきさんが出演すると勘違いしている人もいると思われます。
そうだよね~。ラジオだと本当に中島さんが出演される可能性のあるメディアだもんね。そういう勘違いをされてしまうのもムリないよね。でも勘違いでお聴きになられると、今回のとっちらかった私のトークが完全に裏目に出ます(笑)。リスナーの皆様におかれましては、おおらかな気持ちで夕刻のひとときを過ごしていただきたいと、このように思う次第でございます。中島さん以外の歌詞についてもたくさん妄想トークしてます。
お題が「中島みゆきの歌詞の極み!」だから、当然中島さんの歌詞を極めているのは中島さん本人に違いないんです。本当に勘違いさんが大正解!でもすみません、私がゲストです(
)。中島みゆきさんは出演されません
ま、聴いていただけるとわかりますが隠れテーマは「嘘」なので(ってオレだけ?)。
J-WAVEはインターネットラジオのradikoでも聴けますよ。ネットラジオは雑音がないのでいいですよ。
2012.04.01
四月阿呆の元祖!吉本豪三さんの今日の運勢
なんだか5年前に書いた「エイプリルフール廃止法案を米議会が可決」という記事にアクセスが集中してる!「卒業生、答辞」の時期が終わったら四月バカの季節だ。日々のうつろいをブログアクセス数で感じる今日この頃。オレは引きこもりかっ!
ところで、5年前に書いたそのエイプリルフールの記事で、日本の四月バカの元祖となった吉本豪三さん。すっかり有名人かと思いきや、さっき試しにGoogleで検索したら3件しかヒットしなかった!そのうち2件がこのブログひとくちメモだ。
つまり吉本豪三という名前は、世界中から情報を拾ってくるGoogleの世界でも非常に稀有な名前だったのだ。普通、同姓同名が数人みつかったりするもんだろ?でもよかった。本当の吉本豪三さんがいなくて(笑)。うそつきの元祖にでっちあげちゃったわけだからな。
んで、3つのうちの2つはオレの妄想の産物だったわけだが、もうひとつヒットしたのは「名前占い」というサイトだった。なるほど、そういうデータベースには存在するわけだ。
ということで吉本豪三さんの今日の運勢を占ってみたのだ。ヒマだろ!その結果は、
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今日は、一期一会の精神で生活してみましょう。人との出会いを大切にすることが、幸運を呼び込むことにつながるのです。たとえあなたの苦手としているタイプの相手でも、真心を持って対応していれば必ず心を開いてくれるでしょう。そして、お互いがわかりあえる関係に発展していきます。性別や年令にこだわらず、気持ちと気持ちが真剣にぶつかり合ったときに、心の友情が芽生えるのです。
吉本豪三さんの今日のラッキーアイテムは「携帯電話」です。
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とういうわけで、携帯電話でウソをつけ!ということですね☆
これもウソかな?
人類の生きる意味は排泄にあり!?
人類が朝目覚めるのは、第一義的には排泄行為のためであることがわかった。
人類に限らず何らかのエネルギーを取り入れて体内処理し排泄する生物の“生きる意味”が排泄にあるとの学説が発表された。これまで人類は子孫を残すことが生きる究極の目的であり生きる意味と考えられてきたが、朝目覚めたときトイレに行きたくなることこそが生きる証しであり、単に個体の排泄が生きる意味とされたことにより、世界的にさまざまな動揺が広がっている。宗教上、倫理上の議論も噴出するものと思われる。
学説によると、あらゆる排泄行為によって地球環境は有機物のリサイクル、リユースが可能になっているという。地球という有機体の一部機能として生物が担う最大の役割が排泄にあり、これら生物は排泄なくして生きる価値がない。
排泄を終えたあらゆる生物はその生命を閉じる。子孫を残せたかどうかに限らず排泄の有無が生命線である所以だ。排泄を行うのは人類だけではないため、たとえ人類が子孫を残せず絶滅したとしても、排泄機能を持つ生物による有機物の循環が途絶えなければ地球の存続は可能だ。
この学説を踏まえ医療業界にも様々な変化が起きている。すでに医薬品業界では夢の不老長寿には排泄システムの延命こそが重要との認識のもと、様々な腸内環境改善の新薬開発競争が激化し始めた。
人類はこの重要な排泄行為を長い間不浄のものとして隠蔽してきた。そのため、食べる行為(インプット)を礼讃し、食べることを本能的な楽しみと考えるに至った。しかし学説によればこれは一種のすりこみ現象と考えられているという。
このすりこみ現象は、食事に興味を集中させ排泄機能を促進させる機能だという。この機能がもっとも突出した一部の人類は、生命の危険を伴ってでも食べ続けるという飽食の時代に突入している。また排泄物の質を高めるために健康という概念が生まれたとされる。
地球にとって人類の排泄物は、飽食による量の確保と健康的生活による質の向上とが同時に計られているともいわれている。まさに地球の意志を感じるが、そのような「意志」という概念は人類特有のものとも考えられており、単に地球による機能回復、自然治癒力の産物とするグループもある。
ただ、なぜこのような飽食や健康が発達したかの全容は未だ明らかになっておらず今後の研究が待たれる。一部研究者の間では、核開発により地球環境の有機的リサイクル、リユースが悪化し始めたことが原因だといわれている。さらに良質な排泄物を同時多発的に量産せざるを得なくなった地球の意志であるとの声もささやかれている。あるいはこれこそが機能不全の表出なのではないかと警鐘を鳴らす研究者もいる。
確かなことは、人類が核開発を進め自らの絶滅を早める行為は、地球による有機物リサイクル、リユースの循環を断ち切る行為であり、人類以外の機能不全をも引き起こすことだ。飽食ブームも健康ブームも地球にとってはありがたい排泄機能の向上といえるが、あらゆる有機物を死に導きトイレのないマンションともいわれる原発開発だけは地球の意志に反した行いといえるのではないだろうか。
●ニュース:排泄こそが生きる意味!?
2012.03.31
中島みゆきさんの「強い風はいつも」を思い出す日
今日は強い風が吹いている。雨は降ってなさそうだが音がすごい。こんな日は外に出たくない。食材がないのがいたい!あるのは1カップの米、冷凍うどん玉1袋、パスタ700g、生玉子4個、レトルトカレー4袋。カレー三昧だな(
)
中島みゆきさんに「強い風はいつも」という歌がある。この歌も「地上の星」のようにさまざまなメタファオンパレードだ。
歌詞解釈魂に火をつける楽曲だが、今日は風が強くて危ないので火はつけない(笑)。外に出たくないからノープランで書き始めたKeonaKeahiの日記に加筆しつつブログに転記してるとこ。
「強い風はいつも」はしかし、「地上の星」のようにそれぞれの比喩が何を示すのかと考えるアプローチよりも、包括的にその「強さ」と“ボク”、もしくは作者、もしくはリスナーとの関係性とから「強さ」について考えはじめたい歌だ。
その「強さ」は“ボク”に様々な思いを残してゆく。その残していく「強さ」の残影の意味を考える。解釈の幅は相当広いが、だからどうなるという結論めいたこともなく、ある種の風景描写のような歌になっている。それは物理的な風景の場合もあれば心象風景のようなものの場合もある。
この抽象的な風景描写は中島みゆきのひとつの特徴ともいえる。ひとつの歌のなかにあるキーワードそのものにこだわるのもいいし、いくつもの歌に現われる同一キーワードのメタファの共通性、差異性、変化または不変などを読み解くこともできそうだ。
そもそも「風」というのは詩人の心を捉えるキーワードのようだ。風の歌10選という企画も出来そうだ。今日はやらないけど。松本隆さんも風が大好きだ。作品集は「風街図鑑」だった。
風といってすぐに思いつくのはボブ・ディランの「風に吹かれて」。いろんな歌手がカヴァしているし、オフコースは同タイトルのオリジナルを作った(これも名曲)。
他にも松田聖子の「風立ちぬ」、はっぴぃえんどの「風をあつめて」、堺正章の「北風小僧の貫太郎」、アルフィーの「風曜日、君をつれて」などなどなど風の名作はたくさんある。
風は向かい風もあれば追い風もあり、留まることのない現象でつかみどころがない。風とどう付き合っていくかは詩人の感性と密接につながっているようだ。
でも今日のように強い風の日に、ボクの思いついた歌は中島みゆきさんの「強い風はいつも」だった。あるいはタイトルに風が出てこないが「断崖-親愛なる者へ」も強い風の歌だった。この歌も歌詞解釈魂に火をつける。今日はやらないけど。
どんな風とどんな風に付き合っていくべきか。詩人にとって風とは何か。今日はやらない。とりあえず今日は外に出たくない。それだけ言いたかった。
2012.03.26
中島みゆきの歌詞解釈とは上手な嘘にどっぷり騙されたい願望かも
ラジオ収録後から三日三晩考えて、ラジオが大好きな友人にも話してみて、結構あれで良かったかもという気分になってきた。ボクがやってることは歌詞分析じゃなくて歌詞解釈だということを改めて確認できたことは良かった。
KNTVでやってる韓国時代劇「根の深い木」第3話を見ていて、若き王イ・ド(ソン・ジュンギ)が自分の父である上王イ・バンウォン(ペク・ユンシク)の謎掛けに応える場面があった。そこでイ・ドは「真理はどうあれ自分がどう解釈するかだ」と答えた。
まさに王道とはそういうことだ。歌詞分析と歌詞解釈の違いもそこにあると考えていた矢先だったので、非常に印象に残ったシーンだった。
●歌詞分析と歌詞解釈との違い
歌詞分析をしてもその歌詞を超えることが出来ない。分析が有効なのはダブルミーニングの歌詞などに限られるだろう。明らかに作者の意図や書かれた背景が隠されている場合だけだといえる。
もちろんそれを知ることでその歌がより深い感動とともに聴こえてくるという歌はあると思う。昨年末のうたバナーで言えばテレサ・テンさんの歌だったり、作詞家のなかにし礼さんが自伝的小説などで書かれているいくつかの歌のエピソードなどがそれだ。だがドキュメンタリー的に迫ることの出来る歌は限られる。
それにくらべて歌詞解釈はもっとカジュアルかつ独創的だ。歌詞はひとつのお題ともいえる。それを頂戴して、その言葉ひとつひとつから別の物語を創造するゲームだ。一種のパロディともいえる。替え歌ですら歌詞解釈の一形態といってもいいかもしれない。だからボクは替え歌が好きなのかもしれない。
歌詞解釈の試みは作詞者の意図から大きく乖離するかもしれない。しかし流行歌とはそれを内包して作られる。昭和の歌謡曲にはそのような作為的曖昧さが満載されているわけだ。特に指示語や人称代名詞が何を指すのか誰を指すのか、そういう個人的なキーワードはどうとでも取れるし、どうとってもいい。
どう解釈すればどんな世界を構築できるか、そこに面白みがある。これはボクがタロット好きなところにも通じるように思う。タロットは「絵解き」であり、無作為に選ばれた複数の絵に意味(解釈)を与えるゲームだ(占いという人もいる)。
●歌詞解釈の素材としての中島みゆき
中島みゆきさんの歌詞を語るとき、その歌が私小説的であっても寓話的・御伽噺的であっても、その背景を探る週刊誌的な興味はボクにはない。だがその世界観を共有しつつ行間を埋めて物語を再構築したくなるのは確かだ。
特に中島みゆきさんの歌詞は核心部分が幾重もの衣を纏っていて、ときに心地よく、ときに力強く、ときに懐かしく、ときに絶望的で、ときに神々しくもあり、なぜか暖かい。事実が人を感動させるのではなく、レトリックが人を感動させることがある。上手な嘘に救われたりすることもある。流行歌とはそういうものだと思う。
「中島みゆきの歌詞」というタロットカードに自分なりの解釈を与える試みは、そういう上手な嘘としての比喩に騙されていく過程ともいえそうだ。騙している中島さんと騙されているボク。そこには交わることのない断絶がある。シンガーソングライターだが作家性の強い作詞者だとも思う。
歌詞解釈はこの断絶を修復する試みではもちろんない。100%自分勝手にこちら側の論理で理解していくだけのひとり遊びだ。ひとり上手と呼ばれれば本望!あなたのことをこれだけ理解してるんですよという競争ではなく、綺麗に騙されたい願望の吐露だ。ただ少し理屈をこねさせてもらう(笑)。そういう関係にあると思う。そしてやるからには上手くやりたい。上手く騙されたいし騙したい。そういう企みでもある。
2012.03.24
ネットは玉石混交でも玉を選べるだけテレビマスコミよりありがたい #kinkin.tv
パックインジャーナルがあと2回で放送終了するが、間髪いれず翌週からはインターネットで生放送をするという。それが決まって1ヶ月で放送開始になるわけで、スタッフもてんてこ舞いのようだ。それを応援する気持ちでボクも何度か日記に書いたことをここにまとめて再録しておきたい。
ボクはこの番組が大好きだった。14年間続いた番組で、初期の頃から見つづけて来た番組だった。朝日ニュースターの20周年記念プレゼントに応募してキンキン風呂敷も当たった(笑)。
いまは韓国の番組をみるために入っているケーブルテレビだが、もともとはこの番組を見るために入っていたようなものだった。キンキンいわく「日本で一番わかりやすいニューストークショー」だった。もちろんいまも毎週見ている。
愛川欽也という人はテレビの試験放送の頃からテレビに出演してきたメディアの生き証人のようなタレントで地上波民放テレビの長寿番組の司会をいくつもやってきたが、この番組ほど思い入れの強い番組はなかったと思う。それは番組の画面からも強く感じるし、今月末で終了することに無念の思いがあることも番組で話している。
番組が終わるのは人気がなくなったからではない。おそらく始まった頃よりは数十倍レベルで視聴者は増え続けていると思う。特に震災後は他の(発表報道中心の)メディアが信じられない世の中で、数少ない真っ当な視点からのニュース解説をしてくれるパネラーがいた。政治家や官僚、メディアのなかにもこの番組をこっそり(?)チェックしている人が結構いるようだ。
なぜ終わるのかといえば、朝日ニュースターがテレビ朝日に買収されてなくなるからだ。テレビ局そのものがなくなる。買収後も続けたいなら、毎週2時間の生放送でやっているこの番組を月二回程度1時間の録画放送でと言われたそうで、それならやめるということになったそうだ。
朝日ニュースターの買収についてはスタッフ解雇問題など労働争議も起きているし、非常に後味の悪い買収劇だ。見ている側からは原発反対番組を消すためではないといううがった見方すらしたくなる。
しかしこの番組は出演していたパネラーやスタッフにも続けたいという思いが強かったようで、4月7日からインターネットテレビで放送することに決まった。このダイナミズムは久しぶりにワクワクするような話だし、スタッフや出演者の皆さんの行動力に敬意を表したい。
地上波テレビの試験放送から出ていた愛川欽也さんが、時代の最先端といえるインターネット放送のペイテレビという、いわば試験放送に乗り出すわけだ。
ご本人は「私はインターネットが出来ません!」と言い切るアナログの人だが、逆に戦争体験もあり生き馬の目を抜く業界で生きてきた人気商売の達人が、こういう新しいメディアに偏見を持たず参入してくれることが面白い。パックインジャーナルですら最初は誰も見ていないところから始まったのだ。
今日のオープニングトークで、kinkin.tv の登録方法の説明があったので早速登録した。メールアドレスとパスワードを送るだけで簡単に登録できる。4月から始まるこのネットテレビ kinkin.tv は月額500円のペイテレビになるという(4月7日は無料)。これは安いと思う。4月からは毎週土曜のこの時間インターネットで生放送のニュース番組を見るという生活が始まる。
個人的な直感だけど、いまの衛星放送よりも視聴者が増えるんじゃないかという気がする。またペイテレビなので積極視聴となるだろうし、マスメディアという言論空間に一石を投じる試みだと思う。
一昨日書いた米長邦雄永世棋聖vs ボンクラーズの「電王戦」対局のニコニコ動画はその生中継を有料会員で34万人、ミラーサイトの無料視聴まで入れると100万人が視聴したという。
一昔前には、ネットの情報なんて玉石混交で信用ならないとよく言われた。しかしいまやマスコミの信用も失墜している。テレビマスコミのよりどころはもはや許認可事業というそこだけだ。せっかく放送する権利を独占的に握っているマスコミが、その権利を乱用して世論操作のようなことをし始めたときから崩壊の序曲は鳴り始めていたように思う。
ネットはあいかわらず玉石混交だが、そこから玉か石かを選別できるスキルもユーザー側に育まれてきているかもしれない。玉石混交でも玉があることを信じられれば、あとはそれを選択するだけだ。ネットには選択の自由があるだけマスコミよりも優れている。
kinkin.tv はマスコミへのアンチテーゼになり得ると思う。イデオロギー的でなく、個別の議論のできる社会が民主主義への道だ。「知りたいことを聞きたい」というのはもっともシンプルなマスメディアへの要望なのだ。「教えたいことを知らしむる」ばかりの発表メディアにはもう飽きた。ものごとはシンプルに考えればうまくいくと思う。
2012.03.22
「われ敗れたり」米長邦雄 vs ボンクラーズ 歴史の扉を開く敗戦記
いま米長邦雄永世棋聖の「われ敗れたり」を読んでいる。ついに2012年1月、将棋のトッププロがコンピュータに負けた。その対戦は「電王戦」と命名され、ニコニコ動画で中継された。
コンピュータは日々強くなっている。アマトップを倒し、女流名人を倒し(この対戦も書籍化されていて昔読んだ)、ついにここまできた。
将棋界もコンピュータの進化に協力し続けてきたという。私もその要所要所には常に注目してきたので、今回の歴史の1ページに記される対戦の記録が書籍として残ることに意義があると思う。それをしてくれるのは米長邦雄永世棋聖ならではだと思う。
負けてなお人気の米長邦雄永世棋聖。かつて泥沼流といわれた勝負師だったが、コンピュータを相手にしたときのまったく異なる思考と実践の記録は、将棋を知らなくても読み応えがある。
ちなみに私は将棋はまったく出来ない。弱いというレベルじゃなく、駒が「成る」とどう動かせばいいのかすら知らないレベルだ(
)。成らないときの動きはなんとか分かるといったレベルだ。
しかし将棋というゲームのあり方には興味がある。すべての手の内がさらされ、すべての駒の動きが記録され、誰もが棋譜を入手可能だ。あらゆる新手・奇手も出現した瞬間に研究されすぐに対抗策が出てくる。
だが他のボードゲームと異なり相手が捨てた駒を再利用できるという画期的なルールによって、読みの手筋が膨大に膨らむ。勝負のあやも生まれる。
ゲームとしての厳しさは尋常でない。ここまで情報を開示したなかでトッププロは勝ち続けなければならない。その精神力と知力、体力、発想力、観察力、決断力、忍耐力、それらすべてを盤上に集中させる集中力。
コンピュータはそんな棋士の姿とは真逆だ。すべての手が点数化され後半には決して間違えず、めっぽう強いらしい。米長邦雄永世棋聖も序盤が勝負の決め手になるという結論に達し、人間相手には一度も指したことのない一手を指した...。そして敗れたのだ。
その一手の意味と敗れた勝負の分析とを読むことで、コンピュータの現在や棋士の思考回路を垣間見ることが出来る。また、他のトッププロや将棋プログラム開発者など関係者が見た解説も読める。対局を離れれば協力関係にある将棋界とコンピュータ業界。非常に建設的な戦いだ。
たとえコンピュータが常に人間を凌駕し続ける時代が来たとしても、人間対人間の勝負というのはまた別の世界だと思う。例えるなら、自動車で走ればいいのにマラソンをするのはなぜなのかというような。もっともズボラな私にはマラソンする楽しみはさっぱりわからないが(笑)。
人間は所詮弱い生き物であり、その弱さを知って知恵を出すことにこそヒトとしての生き様があるのだと思う。単に正解に早く到達することが生きることではない。寄り道や回り道にこそ人生の機微があるのだ。そんな気分もありつつ読んでいるところだ。
2012.03.20
愛と反省のラジオ収録してきました
六本木から帰ってきた。あれでよかったんだろうか...。なんだか適当なバカ話をやって帰ってきたような気が...。でもテレビより緊張した。
J-WAVEの「東京REMIX族」という山田五郎さんとしょこたんの番組の収録に出演させてもらった。毎週様々な“道を極めた”ゲストを迎えて三人で“○○の極み”というトークをする1コーナーだった。作家さんが年末のうたバナーをご覧になっていてお声をかけてもらえたみたいなのだが、これまでと違って中島みゆきさん以外の歌詞分析も披露した。
パーソナリティのお二人もそうとう妄想スキルに年季が入っているのと、こちらは非常にパーソナルなこだわりを披露してるだけなので、なんだかああいえばこういう的な“抗辯の極み”のような妄想話に終始してしまった(笑)。
ボクの場合、純粋に作品をいわば構造的に切り取っていきながら独自のフィルターで意味世界を脱構築するというポストモダンな妄想派なので(笑)、そうそう共感を得られるシロモノではないと思う。詞を素直に受け止めたい人にはまったく理解不能だったりもするだろうし...。
白いものを赤や黄色に見せる、いわば詐欺師のようなものだ。実はその試みそのものが中島みゆきさんの歌詞分析には欠かせない資質でもあると思っているのだが、詞の味わい方からはもっとも遠い試みをあえてやってるようなところもある。根がシュルレアリストですから。
「地上の星」が稀有だったのは、それでもメディアにうまくはまったということなんだなぁと思った。「地上の星」の納得加減を他のあらゆる歌詞でできるはずはないが、極めると言えるにはこの方法論の先になにがあるのかをおぼろげにでも提示できなきゃダメだよね。まだまだ未熟なボクでした。
これで例えばボクが芸人だったり音楽家だったりそういうバックボーンを持っていればまた違ったかもしれないが。ポジティブに捉えれば夢のようなひととき(笑)、第三者的にはなにがなんだかわからないといったトークになってしまったかもしれない。誰こいつ、何言ってんの?みたいな。めんごでやんす。
でも収録しちゃったしこれはこれでいいのだ!こんなバカ話だったら誰でも出来るかもしれないけど、本当の匠が登場される日もあるんだろうけど、しかし枯れ木も山の賑わいと言うではないか。この場合の「枯れ木」は紅葉なんだろうか(とか、そういうトークに終始しちゃってマス)。
話している時間ずっと、これで大丈夫か、破綻してないか(笑)と探り探りトークしてて、パーソナリティのお二人に助けられつつ(突っ込まれつつ)、作家さんの笑い声やスタッフさんの笑い顔が励みになりましたよ。
でもみゆきさんのところだけはトーンが違ってるので、それなりに伝わってたらうれしい。これだったらテーマを中島みゆきさん限定でも良かったのかなとか、欲張りすぎたかなとかいろいろ反省。
イメージは伊奈かっぺいさんが語るさだまさしさんのステージだったんだけどな(笑)。面白い話、感動させる話、面白い話、感動させる話、という流れで。面白い話のはずが共感できない話になっていたらキツス!
五郎さんとしょこたん、感想は「なんなんだコリャ?」だったと思う。大好きなパーソナリティのお二人の番組だったから受けたとこもあるので、お二人が呆れ果ててないことを願いつつ帰宅したのであった(
)。せめてキモス生物の末席くらいに連なれてればと。放送は...お蔵入りにならなきゃそのうち報告します。
2012.03.14
卒業生はただの踏み絵か!卒業生も君が代にコミットしよう(笑)
この時期になると毎年「卒業生、答辞」へのアクセスが増加する。卒業生諸君、あまり役に立たない記事でもうしわけない(笑)。
答辞を読む卒業生にとって卒業式は晴れ舞台でもあり、事前準備にネットを使うのは当たり前の世の中なんだろう。だけど悲しいのは、校長先生は君達ひとりひとりの顔を見ていない。君が代を歌っているかどうか教員の口元をチェックしているのだ。いまは大阪だけの話しだけどね。
大阪の公立学校の教員にとって卒業式は、君が代を歌うか歌わないかがもっとも重要かつ人生を左右する重大関心事になりそうだ。卒業する君たちに意識を集中することなんて出来ない。
だから答辞には楽に挑めばいい。先生方の気持ちは上の空だ。しかし考えてみれば主役は卒業生のはずだろ?それなのに教員の意識は君たちにない。これは失敬な話だ。
それなら、先生方に卒業生への関心を持ってもらえるよう、卒業生も教員の君が代斉唱問題にコミットしていってはどうだろうか。卒業式の主役は自分たちなんだよ。先生、私たちにもっと関心持ってくださいって心の叫びを君が代問題にぶつけてやるのだ(笑)。
どうせ聞いてないんだからトンデモないことを言ってみてもいい。ストレートに「君が代より私たちと一緒に歌ってください!」って長渕の歌を歌うとか。どこがストレートなんだか(笑)。
あるいは「長いものに巻かれる大人になんかなりたくない。私たちは君が代を強制される人生を送りません」と強烈に公立教員人生を否定してみせるとか。強制すればするほど君が代を嫌いな日本人が増えていくという教訓になるかもしれないよ。
それに関連してもうひとつ。「北風と太陽」って童話を答辞で読み上げて、「こんな風に君が代も強制するだけが効果のある方法ではありませんよ。もっとみんなが納得できる解を見つけることが教育ではないでしょうか諸先生方」と諭してみては?
逆パターンも面白いかも。君が代を礼賛して媚を売りまくるとか。「諸先生方の歌う君が代のすばらしい歌声を一生忘れません。大きな口をあけて絶叫してください。今日は無礼講で」とかさ。
「偏屈なイデオロギーを捨てて、君が代の君を卒業生の私たちひとりひとりだと思って歌ってください!」と新しい提案をしてみるのも面白い。一見歌わないイデオロギー批判に見せつつ、実は強制する側の偏屈なイデオロギーをも異化してしまう。ひねりの一発だね。
卒業式は先生方の最大関心事が「君が代斉唱」にあるセレモニーだと割り切って、そこにどう卒業生としてコミットしていくべきか。アホらしいが、アホらしさを楽しむこともまた人生には必要な技術だよ卒業生諸君!
●強制でどんどん「君が代」が遠ざかっていく
先日行なわれた東日本大震災の慰霊の式典には体調を崩されたなかで天皇が出席された。出席への強い意向を見せられた。それはたんなる公務を超えた気持ちだったように思う。
幸か不幸か天皇として生きる運命に生まれてきた。考えてみればこれほど強制され選択の自由のない人生はないと思う。私はそのことを思って「君が代」を歌う。歌うことになんのためらいもない。だが天皇以外のアホな連中に強制されるのは気に入らない。そんな「君が代」は気に入らない。
卒業式には必ず君が代斉唱があることについて天皇陛下にお手紙を出してお話を聞いてみたらどうだろう。全国の卒業生がインターネットで団結して、国民の象徴たる天皇陛下のご真意をお伺いして卒業式の答辞でご披露できればこんなすばらしい答辞はないと思う。それが出来る時代でもある。
もっとも君が代強制なんてことを言ってる人々は天皇陛下を軽く見てる。戦争遂行のときも利用し尽くした。だって持ち上げて責任転嫁すればなんでも出来るんだから。無責任国家に成長した日本の根源には責任転嫁の装置として天皇制がある。これは責任転嫁のシステムなんだ。
だから天皇陛下が「(国歌、国旗は)強制でないのが望ましい」と発言されていても関係ないようなんだ。強権的に命令して歌わせる。そんな「君が代」は誰も喜ばないよ。その歌は既に「君が代」ではなく、強権発動の道具に堕してる。
だから構造的には歌わせる歌が「カメカメハ大王の歌」でもいいはずなんだ。強権的に歌わせることが目的であって「君が代」である必要はない。卒業式で主役の卒業生を見ないのと似てる。歌う歌が「君が代」でなくても権威が保てればそれでいい。だがもっともらしい能書きが天皇の衣を借りて言える「君が代」は都合がいいのさ。ここでも利用してるだけなんだよ。
歌いたければ歌えばいい。歌いたくなければ歌わなければいい。国家公務員だろうがなんだろうが、その程度の話だよ。たかが歌だよ。国旗だってたかが旗だ。愛国心の中心はそこにない。しょせんは瑣末な話だよ。
でも責任転嫁のシステムがなくなると困る人々がいる。強権を手放したくない人々がたくさんいる。天皇陛下の言葉すら届かない「君が代」なんて、関東軍の再来かと思っちゃうよ。暴走だよ。この無責任社会を強制力でなんとか保とうとする我欲でしかないのが君が代強制ってこと。だからアホらしい話なんだよ。
先生方も面従腹背でいいじゃない。別に歌ったからってどーってことないよ。ボクは学校生活のどんなときだって歌ってたよ。君が代のアンビエントアレンジもしたよ(笑)。権威を見せつけたいああいう連中には上っ面だけあわせときゃ文句ないんですよ。どうせ戦うならそこじゃないと思うよ。
2012.03.11
コラボ企画!記録より記憶に残る「女優の歌」10選!
昨日は横浜に用事があり朝から出かけていた。たまプラーザの「ステーキハウス岩下正明」で遅い昼食を取り、代官山蔦屋書店に向かった。そして埼玉に戻ってきて「寿庵」で肉きざみうどんを食べて自宅に戻り、ゴガクルで韓国語のwataruの日記と日本語のKeona Keahiの日記を書いた。
Keonaの日記で「パックイン・ジャーナル」が今月で終了し4月7日から間髪入れずに kinkin.tv というインターネット・ペイ・テレビで放送開始という快挙への賛同を書いてTwitterにも同時に載せたところで、takさんからのTwitterダイレクトメッセージに気付いた。そこにはこう書いてあった。「企画もののお誘いです。gooランキングでこんなのが『歌も上手い女優、あなたのイチオシは?』。上手いかどうかは別にして、10選やってみよっかな。」
kinkin.tvに引き続きこっちの企画にも激しく賛同
そして選考に入りました。オフコース以来の10選企画ですが、単独アーティストでない流れでは、「思い出のジャケ買いトークに参戦!」以来となりましょうか。
takさんの10選はこちら。なるほど。女優としてまず納得のいく面々なのがうれしい10選でした。
●女優の歌ったこの10選!コンセプト作りから
2012.03.07
自腹で更地にしないと仮設住宅を許可しない役人は復興する気があるのか?
昨日のNHKスペシャルを見ていて、またまたまたまた行政に怒り心頭。今週は震災一周年で毎日NHKスペシャルが特集を組んでいて全部永久保存するつもりで録画してる。
昨日は気仙沼の人情商店街の復興へ向けたドキュメンタリーだった。津波で壊滅的なダメージを受けた商店街の人々が集まり、町の一角の土地を借りて仮設住宅で商店街を復活させようとしていた。
その思いと行動力に比較して行政のまったく思考停止した姿に腹が立ってしかたがなかった。
その最たるものは、仮設住宅の現地視察に来た役人たちだ。すでに商店街復興を目指す人々は土地の地権者と話をつけ、図面も引き、重機を入れて瓦礫の撤去を始めていた。
そこにやってきた役所の人間の仕事はその土地に仮設住宅を建てる可否判断だったのだが、そこでダメ出しをした。
その理由が「15cmくらいの高さのコンクリートの段差があって更地ではないからこのままでは許可できない」というものだった。
そこは大震災で破壊され、その瓦礫を撤去した土地である。これから一日も早く仕事を生み出そうという市民たちが集って土地を見つけ図面を引いたのだ。そこに仮設住宅を建て40もの店舗を入れて商店街を作ろうという具体的な復興を語っているのだ。
そのような市民の取組がまさに始まろうとしているところにやって来て、15cmの段差のコンクリートがどうのこうのと言ってしまう役人はいったい何をしに来ているのか。復興を邪魔しに来ているのか?
だがこのとき、市民の側の対応はすばやかった。目の前に仕事を終えた重機があった。操縦士もいた。役人のダメ出しを聞いた瞬間、重機の会社に電話しコンクリートの撤去を指示した。
追加作業で150万円程度かかる。それを出費してでも目の前に重機のあるときに更地にしてしまうと決断する。その間数分とかかっていない。同時に役人には、自分らでコンクリートを取れば大丈夫かとの確認をして、役人は「はい」というだけだ。
市民のこの決断力とスピード感。そんな住民の渇望から役人は完全に遊離している。この非常時にどう判断すべきかという権限のない役人が来ても意味がない。
一事が万事のように思う。この調子で復興復興と唱えているのだろうか。非常時の予算配分には現場担当者の裁量が必要であるし、アイデアを持って具体策を提示している人々から予算をつけていくことがこの非常時の役人の仕事だ。いっしょになって予算をぶんどってくるくらいの気概が役人にあってもいいくらいの状況だ。
平時ならコンクリート15cmの高さにケチをつけるのもいいだろう。だが被害者たちが懸命に復興を果たそうと動いているのに、そのマニュアル対応はいったいなんなんだ。それでも日本人なのか。
こんなことが続くのなら予算の配分などいつまで待っても出来ないし、復興など夢のまた夢だろう。こんなお役所仕事を継続したまま、原発だけはウソでもいいから収束させて再稼動をもくろむ。頭がおかしい政治家と役人しかいないのか。これじゃニッポンももう終わりだよ。
(ゴガクル日記に書いた内容だけどこっちにも転記した)
2012.03.05
昔々日本には技術のソニーという立派な会社がありました。 #sony
ぎりぎりの理性を保って言えば「反吐が出るような会社」でしょうか。まさかあのソニーがこんな会社に成り下がっていたとは。
「さよなら!僕らのソニー」(立石泰則著、文春新書)は、ライターとして常にソニーを見守ってきた著者による決別の書といえるかもしれません。
ひとくちメモでも何度かソニーのことを書いた書籍を採り上げてきましたが、結局そのたびに失望が大きくなっていたように思います。
それでも若き出井社長が出てきたときには、新しいソニーを印象付けられましたし期待もしました。でもこの新書を読む限り、出井社長誕生のときがターニングポイントだったようです。まるでいまの民主党のようです...。
企業というものは生き物ですから、常に変化していくのは仕方がありません。しかしその変化の方向性が重要でしょう。オリジナリティあふれる独自技術のソニーが失われ、凡百のハードメーカーのひとつになってしまったことも寂しいです。
ただそれだけならあのソニーもただの会社になっちゃったんだぁで終わってました。ここにわざわざ書くこともありません。
●キャリア開発室という闇
ボク自身がもっとも驚愕したのは、ソニーのなかに、あのソニーのなかに、リストラ部屋という非人道的な機能があったことでした。この一点において「反吐が出る会社」に転落しました。
新書の234ページから出てくる「キャリア開発室」がリストラ部屋です。ここまで読み進めてきて「ソニーも普通の会社になっちゃった」と思っていた自分の間違いに気付きました。ソニーは普通を通り越して異常な会社になってしまっていました。
リストラ部屋は名作ドラマ「彼女たちの時代」で椎名桔平が閉じ込められたような人格否定部屋です。間接的な退職強要のための装置であり、いわばナチスのガス室のようなものです。
このような部屋に人を閉じ込めて退職を迫ることが出来るサラリーマンは既に人ではありません。ただの首切りロボットです。ナチスの党員のようなもの、内ゲバで粛清をしてしまう兵士のようなものです。家族にも言えないような仕事ですからきっと言ってないでしょうね。
このキャリア開発室については月刊誌『選択』の3月号がさらに詳細に書いています(P.70 ソニーを蝕む陰湿リストラ -禁じ手の「産業医」まで動員)。リストラ部屋に入れても辞めない人をやめさせるために、産業医に「環境を変えるのが一番ですよ」などと言わせてるそうです。この産業医たちも「悪魔の飽食」における丸太(=人体)実験の医師のように思えてなりません。
こんなおぞましいリストラ技術ばかり話題になってしまう会社がソニーの名を騙っているんです。もうSONYという社名は捨てるべきでしょう。ソニーという会社は既にありません。ソニーを騙る集団がいるだけです。
私は語学のために使うウォークマンを礼賛したりもしてました。そこからアフィリエイトを辿ってウォークマンを買ってくれた方もいらっしゃいます。でも個人的にはもうウォークマンを触るのも気分が悪いです。次のハードを探そうと思っています。
ソニーがただの会社になるだけならまだ良かった。まさかこんな気色の悪い組織に堕していたとは思いませんでした。書いてるだけで本当に反吐が出そうなのでこのあたりでやめます。
2012.03.03
林輝太郎氏逝く
相場の話を書くと有象無象が寄って来るので書きたくないのだが今日は特別。林輝太郎さんがお亡くなりになった。享年85歳。私にとっては恩師の訃報を聞いたような気分だった。
相場技術論の林輝太郎さんの著作はほぼすべて読んでいる。他の相場関連書籍とは明らかに異なるオーラを発していた。私にとっては文学を読んでいるような感覚もあり「相場師スクーリング」などは何度も読み直す。
最近の書店に並ぶ相場関連の本には読みたくなるものがほとんどない。マニュアルのようなものか、基本的に有象無象が書いた有象無象向けの本が圧倒的に多い。私が感銘を受けたような書籍群はほとんど姿を消していた。
書店の棚を見るたびに「これがそうなのか...」と思う。これが素人を釣る時代の光景なんだなとわかった。昔から素人を釣るような書籍群ばかりだといわれていた業界だが、まさにいま荒涼たる砂漠のような光景が書店の棚に広がっているのだ...。歴史は繰り返すんだなと実感する。
林輝太郎氏の著作から何を感じ何を受け止めるのかは人それぞれだと思う。その文体が嫌いだという人もいた。読む側を選ぶことは確かだと思う。
私はお目にかかったこともなく、林投資研究所にも行ったことがない。20日にあるお別れ会にも行かないけれど、林輝太郎氏の著作はいつでも手に取れる場所にいまも置いてある。
2012.03.02
2012.02.25
キムヨナのようにを読み終えた!김연아처럼을 다 읽었다!
それにしてもこの季節は「卒業生、答辞」へのアクセスが多いな。某質問サイト群にリンクされてるからだけど、日本中の悩める卒業生が80年代の答辞を手本にして大丈夫かと思ってしまう。出来るだけ手本を離れてオリジナリティを目指して欲しい。それなりに何を言っても筋が通っていれば大丈夫なのが卒業式だ。
さて、今日はボクにとってある意味卒業記念日といえる。今朝「キムヨナのように」を読み終わったのだ。1年前の2月に読み始めた。キムヨナの五輪金メダル(2010年2月)記念にハングルを始めてちょうど1年目からのスタートだった。まさに2年越しでキムヨナと二人三脚のハングル学習だったのだ!
読み始めた頃のボクは通信講座の初級ⅠとⅡが終了し、ゴガクルでハングル日記を数ヶ月書いていた頃だ。初級文法は一応学んだので、子ども用の書籍のリーディングに挑戦した。韓国から取り寄せたので和訳はない。解答のないなかで読み進んだ。
読み始めたときの日記にもリンクしてみる。
●読了までにあきらめたこと
読み始めの頃の日記を読むと、あらすじを書いたり、新出語彙を書いたり、難読文を検討したり、欲張りすぎている。初心者なんだからそういうプロまがいのことをやっちゃうと学習の姿勢がぶれることに途中で気付いた。53ページ目を読み終えた頃だ。
あくまでも柱は自分自身の学習にあることを忘れてはならないと気付き、そういうことを日記に書くのはやめた。ま、時間がかかるのと面倒くさいという理由もあった(笑)。しかしその「面倒くささ」は学習のための面倒ではなく、あくまで日記のネタとして書くことの面倒くささだった。学習を優先すべきだというのは間違ってなかったと思う。
第一章を読み終えたときにはひとくちメモに3回読むと宣言してたが、それもやめた。日本語書籍ですら3回も読めないのに。だから1~数パラグラフごとに読みながらわからないところに印をつけておいて、一区切りついたらパラグラフの頭に戻って辞書を引きながら書き込んだりしつつ理解していくという方法に切り替えた。これで2度読みの代わりとした。これが一番リズミカルで飽きずに出来た。今後もこの方法で読みたい。
3回目のリーディングとしていた写経(全文写し)も25ページで挫折した。書くことは楽しいが、それよりもどんどん読み進みたい衝動のほうが大きくて、時間のないなかでの学習だから優先順位は読み進むほうにした。今後書き写すこともありえるが、いまじゃない。
単語帳で単語を覚えるのもやめた。これは読み始める前にやめていた。そもそも頻出単語は頻出する単語なんだから、読んでいれば頻出するものだ。わざわざ文脈から切り離して単語帳で覚えるのは矛盾だと思う。頻出単語が単語帳には1回しか出てこないんだぞ(笑)。
逆にたくさん本を読んで出てこない単語は頻出じゃない。少なくとも自分の興味の対象とは遠い単語だ。つまり頻出単語の単語帳暗記なんてのはテストを受けることが目的でなきゃ存在できない教材でくそ面白くもないのだ。ボクはそういう語学とは無縁に生きたいお年頃なのである。
読み始めにはあれもこれもやろうとしたが、結局最後には「読むこと」だけが残ったわけだ。でも読了出来てそれが正解だったように思う。優先順位はコンセプト=リーディングがもっとも高いんだから、それに全力で取り組めばいいと思う。シンプルに。
●誰でも出来る外国語書籍の読了
168ページしかない韓国の子ども用の本だった。1年かけて読んだということは1日平均半ページでしかない。これなら誰でも出来るはずだ。そのことだけでも証明できたことに読んできた意味はあったかもしれない。この時期このレベルで読みたい本があったこともラッキーだった。
ただひとつ言えるのは面白くなければ教材にならないということだけだ。だから教材は自分で選ぶべきだと思う。読み始めて面白くなかったらその本はやめて別の本を読み始めてもいいと思う。ハングルで悩むのはいいけど、面白くない内容で苦痛を味わう必要はないから。読了できるかどうかは99%教材選びで決まると思う。
一般的なハングル書籍はだいたい300ページ超だと思う。この本の倍だとすれば2年で読めるのだ。実力が伴ってくればもっとスピードアップできるかもしれない。まだ大人用の文章をあまり読んでいないのでそこはやってみるしかない。
出来なかったこととしては語彙の書き出しと書き取り。全文写しじゃなく単語帳の丸暗記でもなく、ハングルを手で「書く」という行為を伴った読書が出来なかった。書きたい衝動はあっても方法を確立できなかった。これは今後の課題だ。
●外国語学習という終わりなき趣味の世界
キムヨナはこの本のなかでこう言っていた。フィギュアスケートは誰かとの戦いではなく、国どうし、選手どうしの戦いでもないと。だからと言って孤独に(ストイックに)自分自身との戦いだけでもないともいう。
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피겨 스케이팅은 누군가와의 싸움이 아니다.나라끼리의 싸움도,선수끼리의 싸움도 아니다.그렇다고 한없이 외로운 자기 자신과의 싸움만도 아니다.
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この話の「フィギュアスケート」を「外国語の学習」に置き換えてみたい。
この問いに対して、フィギュアスケートは音楽と観客と自分自身とが一体となって喜びや感動を分かち合うものだとキムヨナは結論付けた。では外国語の場合はどうだろう。
コミュニケーションツールとしてある言葉だが、母語だけでは通じ合えない世界がある。とくに日本では母語の世界よりも広い非母語の世界が外にある。ネット社会になれば地理的な距離が薄れて、非母語の世界にいつでもアクセスできる。
そんな非母語の大きな世界への興味を持つ機会はいくらでもある。そして私はたまたまキムヨナに出会い、ハングルに出会った。ハングルとの旅はこれまでのどんな趣味よりも困難で面白い。
難しさの克服こそが趣味の充実感であり、語学とは小さな充実感の終わりなき学習だ。それは大げさに言えば「生きる」ということに近い。続けていれば実力は上がり続ける。やめなければ死ぬまで向上していく。
まさに一生モノの趣味見っけ。そんな気分だ。キムヨナありがとう。ハングルありがとう。明日から少し寂しくなる。しかしまた別のハングル書籍を読み始めたい。キムヨナ自伝(大人用)も待っている!
2012.02.19
いきなり第一章 孤独の章って!?河本準一式韓国語の教科書は本気モード
「河本準一式韓国語の教科書」(学研)が届きました!このひとくちメモでも定番となった感すらあるテレビ東京の「イラっとくる韓国語講座」から派生したまさかのハングルの教科書です!
驚いたのは表4(裏表紙)の広告。イラ韓といえば大韓航空さまですけれど、まさかのJAL広告
本書の内容でもさりげなく(?)JALさまを褒めちぎってます。JAL機内で出来るイラッとフレーズまで...。それもCDに音声収録!アメーバ経営で蘇ったJALさま、これからもイラ韓を応援してください!
さて教科書の本文です。イラッとくる例文ばっかりかと思っていましたが、ちゃんとした教科書でした。大場Dが最後にコメント寄せられてるんですけど、要約すると『マジメかっ!』でした(笑)。もっともハングルの初歩の初歩からなので、そこはしっかり覚えないと笑える例文も笑えないっすからね。
本当にハングルが初めてでまったく読めないところから始める人のための教科書です。トイレに貼れる反切表もついてるし。第1章(全体の前半を占めてます)は完全にハングルという文字になじむための章です。この時期はとにかく楽しくハングル文字に慣れるってのが最重要なので、その点ではまさにうってつけの教科書です。目からウロコのハングル練習帳の強力なライバル登場って感じでした。まだまだ会話以前というわけで「孤独の章」なんですね。
後半は超初級文法でした。そこにはちゃんとイラっとくるオモロイ例文が載ってて楽しいです。ボクがもっとも感銘を受けたのは、P.90のリンゴを使った会話ですね。
ボクが学校英語に違和感を覚えたのはまさに、Is this an apple?でしたから。リンゴを知らない中学生がいるものだろうかと悩みました...。せめてリンゴなんて差別化しやすい果物じゃなくて珍しい果物にして欲しかったですね(Guavaとか)。あるいは「これは栗ですか?」「いいえウニです」とかさぁ。ひねりのある教科書作って欲しいなぁとずっと思ってました。そのひとつの答え、というか不条理性がハングルの教科書によって今回指摘された快挙に拍手を送ります(笑)。
くそっ。無意味に熱くなっちゃった。学校英語は本当に苦手だったし好きになれなかったんですよねぇ。それでつい...。でもそれはこの教科書を作った河本氏も同様だったようです。「まえがき」に中学に入ってすぐ挫折したと書かれてて。
このまえがき、とってもいいですね。そもそもモチベーションを持って始める学習は楽しいものなんですよね。イラ韓が始まる直前に入院してしまったのも、なんだかハングル学習させる時間をあえて神様がくれたんじゃないかとすら思いましたね。
教科書のレベルとしては、独学とはいえすでに2年ハングルやってるボクには簡単すぎる内容なんですけど、例文の面白さや今井P(本書では今P)との掛け合い漫談(?)風の解説、コウモト 씨のちょっとしたコメントやコラムなどなど読みどころはたくさんありました。この後、公式ガイドブックも発売されますし、両方合わせて楽しみたいと思います。
●思い出のハングルノート
次長課長の河本準一氏が本気でハングルをやっていることがよくわかったのは、学習ノートを見たときでした。いろいろ学習方法を考えながら手書きしてあるノートの写真も掲載されていて、ものすごく親しみが沸きましたね。
ハングルってものすごく書きたくなるんですよね。外国語って最初はどれもそうだとは思うけど、ハングルって独特じゃないですか。人工的な文字だし非常にシステマチックなので、最初はカクカクしてて目がチカチカするような感じに見える文字ですけど、読めるようになると(誰でも数日で読めます)これがものすごく楽しくなってきます。
文字を覚えるために手書きでノートをつけ始めるのはボクもやりました。英語のアルファベットの書き取りとも漢字の書き取りとも違うこの感覚。なかなか上手く表現できないんですが、すべてが新鮮なこの感じ。それも複雑すぎなくて、書き連ねる労力がカタカナと漢字の中間くらいの按配で。
書けば書くだけ読めるようになるのもうれしいし。まったくゼロから初める言語なのに日本語との親和性が強いから、最初に読めるようになるまでのハードルがとにかく低い。そのロケットスタートの出来加減がうれしいってのもありますね。ちょっとでも興味あればすぐやってみてほしいです。
河本氏のノートを見て、ボクも自分の最初のノートをあらためて見直してみました。それがこれです。単純ミスが生々しいっすね...。
ボクが最初にノートをつけ始めたのは2年前の3月でした。語彙書き取り用とテキスト学習用の2種類を購入しました。これは書き取り用の方眼罫ノートです。小学生が使うノートだというのが、左の教科名シールでわかりますね(笑)。スーパーに売ってる方眼罫ノートで書き取りから始めました。
左上に노트(ノート)って書いてますね。この頃は、スピルバーグ監督の「カラーパープル」って映画で昔見た身近な単語から書いて覚える学習法を取り入れていたんで、トイレや洗面台、パソコンなどにその名称をハングルで書いた付箋貼りまくってました。だからノートにもそう書いていたんだと思います。
画像の下段はそのノートの初級Ⅰ終了時点のページです。ハングルを一通り書いた後は、テキストに出てくる重要単語や語句を書いてました。日本語を頭に書いて、ハングルを横に何度か反復するというスタイルで。長い句は2~3行使って反復してました。初級Ⅱの途中までは続けてましたね。
最近は書き取りやらなくなってたけど、こうして振り返ってるとなんだか書き取りノートをまた書きたくなってきました。一区切りついたらまた始めようかな。
「河本準一式韓国語の教科書」では学習開始から4ヶ月目の終わりには一人でも韓国に行くセヨ!ってことになってますが、いまだ行ったことのないワタクシ...。そこが韓流OLの皆さんと違う弱いとこなんだよな。またパスポート更新するのがめんどくさい!そんなんじゃダメってわかっちゃいるけど...。どうしても行かなきゃイラっときそうな番組を今後も期待するセヨ。
2012.02.11
K-POP漬けのボクをしばし日本に引き戻した新生チャットモンチー!
1+1が2ではなく3にも4にもなるように...。よくシナジー効果を表すときに使われる常套句だ。しかし新生チャットモンチーは3-1を2ではなく、4にも5にもしなければならない。
もともとが3ピースバンドという、常識的にはバンドの最小単位と思われたところからスタートしたチャットモンチーにとってそれがいかに困難な道なのかは、抜けたメンバーにも残ったメンバーにも充分すぎるほどわかっていたと思う。
さらに常識的にはメンバー補充をして第二期の活動に入るという音楽ビジネスの常套手段がある。しかし新生チャットモンチーはその予定調和を嫌った。嫌ったという言い方はそぐわないかもしれない。チャットの最適解を2ピースバンド、それもベーシストがドラムを一から習得という道を選んだ。
あらゆる面でビジネスの常識から大きく逸脱する選択をした二人もすごいが、それを許したスタッフや会社もすごい。確かにこれ以上のインパクトあるリ・スタートは考えられない。いま現実のものになったからこんなコメントを書けているが、普通は選択肢にすらならないほど突飛なアイデアだ。
スタッフも聞いた瞬間は卒倒しそうになったに違いない。しかしその破天荒さこそがチャットモンチーの持ち味であり、チャット魂だったことにあらためて気付く機会だったのではないだろうか。そこに賭けてみることが出来た関係性に拍手を送りたいとも思うのだ。
●リズムと言葉の要だったクミコン
チャットモンチーというバンドをテレビで初めて見たときの失敬な思い出(笑)から、気がつけばチャットモンチーの音楽に惹き込まれて来た。なんの前触れもなく純粋に音楽から好きになったバンドだったし、ロックの神様が一番好きなチャットモンチーというフレーズはボクのなかではいまも生きている。
今回チャットを抜けた高橋(クミコン)についてボクは「チャットモンチーと同世代に生まれてみたかった!」のなかでこう書いていた。
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この語りがなければチャットモンチーがメジャーなライブバンドとして成功できたかどうかとすら思う。音楽の実力だけじゃない何かが必要だから。ちょうど藤子不二雄が天才肌の藤本弘だけじゃなく社交的な安孫子素雄と二人でひとりだったように(<この例え必要?)、この社交的な明るい語りがチャットモンチーの個性に重要な要素だと思う。
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リズム隊の要であるだけでなく、ライブバンドとしてのサービス精神の要でもあったと思う。そしてその言葉の引き出しの多さはチャットの詞の要でもあったと思う。
後の二人がロッカー特有のシャイなしゃべり方なので、よどみないしゃべりが出来るクミコンなしでライブ進行が出来るんだろうかとか、文才のあるクミコンの作る詞の世界はチャット先生の柱となる世界観であって、後の二人だけでチャットモンチーの世界感を継続できるものだろうかとか、いろんな心配をした。
クミコンは年齢も一番上で、チャットモンチーがプロを目指すにあたり決まっていた学校教員の道を捨ててチャット先生に合流したという。そしてそれは正解だった。リスナーにとっても。チャットモンチーの要の役割をしていたクミコンが脱退してしまったということは、チャットモンチーも解散するしかないのではと思っていたのだ。
●チャットモンチーの世界観が言葉を超える日
しかし2月3日のMステを見て驚いた。福岡(アッコ)がドラムを叩いてる。そして橋本(えっちゃん)と二人だけのステージ。ドラム兼ボーカルとギター兼ボーカルの二人だけの2ピースバンドとなったチャットモンチーがそこにいた。
2ピースってそもそもバンドっていうのかな。デュオだよね。だけどチャットモンチーはあくまで2ピースバンドといいたくなる。チャットモンチーをこよなく愛する二人だけの世界。それは画的にも見たことのない世界だった。そして2ピースとなってもそこにはバッチリ、チャットモンチーがいた。そのことに素直に驚いた。
アッコはどんな楽器を演奏していてもザ・ミュージシャンというノリだ。ベースでもピアノでもドラムでも演奏が楽しくて仕方がないというオーラをバンバン発散している。全身からあふれ出るその演奏者としての美しさは楽器が変わっても健在だった。こんな風に演奏してくれるメンバーがいたらバンドは楽しいだろうな。
そして福岡のリスペクトがあって橋本の才能が存分に開花する。今回のプロモーションで出演していたTVKの朝の人気番組「sakusaku」で聞いたエピソードだけど、打ち上げなんかでは常に福岡の隣にいてしゃべれない橋本に「あ、その話、えっちゃん得意です」と福岡がお膳立てをするんだという。たぶんライブのMCも最初はそんな感じになってしまうだろう。
言葉の要であったクミコンのようにはしゃべれない。音楽面で最初のハードルを見事にクリアした曲「満月に吠えろ」を聴くと、目新しさを差し引いても期待感は膨らむ。これまで体験したことのない音楽が生み出されそうな気配がある。チャットモンチーという存在そのものの面白さが言葉を超えて生み出す新しいパフォーマンスへの期待もある。
もちろん二人とも作詞の面ではフィールドを広めていく必要があるし、橋本中心の作曲の面でも2ピースバンドという制約をいかに活用するか逆転の発想が必要になるかもしれない。苦手なライブMCに変わる仕掛けをスタッフも一緒になって考える必要もあるだろう。3-1が4にも5にもなるプロジェクトを始動させたのだ。常識に捉われないかつてのソニースピリットが必須だと思う。
この先ライブ活動や創作活動がどのような方向性で成されるのかまだわからない。おそらくチャットモンチー自身にも手探り状態が続くだろう。「チャットモンチーになりたい!」と叫んだアマチュア時代、ロックの神様が一番好きなバンド=チャットモンチーの初心を忘れないで続けて欲しいと思う。チャレンジこそがチャットモンチーなんだから。
満月に吠えろ
テルマエ・ロマエ
いまK-POP中心のボクと日本のミュージックシーンをつなぐ絆はチャットモンチーだ。久しぶりに音楽雑誌も買った。新生チャットの特集だったから。
今週は3人いた頃のチャットモンチーのライブやPVを毎日見直していた。懐かしむためじゃなくて、乗り越えるためのボクなりの儀式のようなつもりで。
2人になったチャットモンチーに悲壮感はない。この新たな状況に挑戦することを楽しんでいるようにすら見える。
常にチャレンジを楽しむ姿勢。そこがチャットモンチーがチャットモンチーたる所以だったのかもしれない。
バンドにありがちな予定調和に陥らない解を見つけた新生チャットモンチー。
セルフプロデュースを成功させ続けることが息の長い活動の基盤だ。
中島みゆきもそうだった。オフコースもそうだった。
まずはひとつ乗り越えたと思う。
これから生まれるチャットの新しい音楽もずっと聴いていきたい。
2012.02.04
イラ韓快進撃は続く!済州島のCDショップに行きたいセヨ!
ひとくちメモの韓流ネタのなかでも群を抜いて鉄板なのがこの「イラ韓」ですわ(笑)。最初のイラ韓記事を書いたのは去年の3月。放送から二ヶ月も経ってからだったけど結構早かった。そこが自慢(笑)。
ゴガクルのハングル仲間からのタレコミ(?)で見始めたら超面白かったわけです。5話目くらいから見たのかな。で、11話目でいろんな裏話が聞けたから書いてみたらこれがアクセス数でスマッシュヒットでした。気をよくして第二弾を考えていたところに番組存続の危機を救ってくれたというテイで大韓航空様が出現!これは書くしかないと書いたところその記事の楽天リンクで旅行に行ってくださった方もいたようで感謝感激です。ボクも行きたい...。
イラ韓の快進撃は続き、年末特番がありーの、DVD発売決定しーの、関連書籍も次々企画されーの、視聴率ゼロ%から始まったコウモト 씨の旅も順風満帆となってきているわけですねぇ。やっぱ伊藤Pってなんかオーラがあるよなぁ。
いまタレントをブラブラさせたら世界一の伊藤P(もやサマDVDも買っちゃいました)と、最近声の出演に遠慮がなくなってきた同行ディレクターのおおば 씨(でもその演出は正解セヨ!)、そして安定と実績のコウモト 씨(みんなのお店セレクション大賞 축하합니다!)が作り出すイラ韓ワールド。コウモト 씨の旅がいま韓流ブームを牽引しているといっても過言ではないかもしれないしちょっと過言かもしれません。
●韓国のCDショップの店員はみんなかわいいのか!?
それにしても済州島のCDショップの店員さん、かわいかったですね。5分立ち寄りのはずのCDショップでまさかの2回分収録とは(笑)。コウモト嫁との国際電話トークもマジ買いCD選びもお約束になってますけど、前回も今回もショップ店員さんがかわいいから画が持つよねぇ...。
「奥さんが一番好きなのは僕です」って既にイラ韓カードなしで応用編になってるやん(日本語だったけど)。奥さんが一番好きなのどれか当ててみてといわれた店員さん。選んだCDをコウモト 씨に「違う」と言われてからのこのフレーズ。顔を真っ赤にして爆笑する店員さんがめっちゃよかったです。この店員さん番組的にもさりげなく、しかしかなりマジ押しでしたよね。2回分収録って尋常じゃない...。
K-POPアイドルの完璧さもなかなかないけど、この普通さこそいま日本で探してもなかなか見あたらないんだよなぁ(ボクに偏見があるのかなぁ)。こういうのも韓国ブラブラトークの醍醐味だよ。でも「뽀뽀 주세요(チューしてください)」はさすがにコウモト 씨じゃなきゃ言えないよ!
ブラマヨの「アツアツトーク」に次長課長が出演したとき、相方の井上 씨が河本 씨の人懐っこさ(誰の懐にもすぐに入っていける性格)を評価してたけど、それがこのイラ韓でもよくわかります。これって言葉を越えた人間力だと思いますわ。語学も突き詰めればそこやとおもいますねん!コウモト 씨はきっと上達できると思いますわ~。
生活感のある韓国が見られるのもイラ韓のよさだね。ソウルもいいけど地方都市がやっぱ面白い。コウモト 씨にはカジノがなくて寂しいかもしれませんが...。今後もっとディープコリアに入っていって遊んで欲しい。小さい島とか...。韓国の人気番組「1泊2日」でカン・ホドン 씨、イ・スンギ 씨達が行った船酔い必至の島々...。船内だけで4週分くらい撮れるんじゃないか!?
2012.01.24
IU ジャパン・プレミアム・スペシャル・ライブ
昨年暮れの「IUは高音だけじゃない。少女時代が脚だけじゃないように」でちょこっと書いたIUライブの抽選に当たったので、なんとか時間をやりくりして駆けつけた。IUの日本初の単独プレミアムライブだ。オーチャードホールに来たのは坂本龍一ライブ以来だと思う。何年ぶりだろう...。でもさすがにオーチャードホール。音響は良かったと思う。IUのボイスも管弦楽に負けてなかった。
しかし実質45分くらいで終了...。あっという間だった!オーチャードホールに37人の管弦楽+ギター+ピアノを入れての日本初ショーケース。このスケールならもう少し聴きたかったが無料のお披露目ライブだからこんなものか...。
サプライズで「良い日(Good Day,좋은 날)」の日本語詞版を初披露してくれた。三段ロケット高音歌唱も生声で披露してくれた。テレビ番組では裏メロを歌うことも多くなっていたから良かった。日本語版は3月21日にシングルとして発売されるようだ。K-POPはハングルで聴きたいほうなんだけど、この詞はうまくメロディに乗っていて違和感があまりなかった。今日のライブの模様もDVDで付くらしい。今回はそのための公開収録と考えたほうが良さそうな気がした。
MCはすべて日本語だった。カンペを見ながらだったけど、なかなか素直なトークで感情表現が豊富。IUは根が早口だしおしゃべり好きなのか、あるいは美空ひばりや松田聖子ばりに耳と音感がいいからか、覚えが早いようだ。「マジで」とか「お水タイム」とか、かわいらしさ全開の日本語。教えてる先生がいいんじゃないかと思った。IUらしさを引き出す日本語表現がわかってる。
後半は古家さんとのトーク。古家さんはほんと韓流イベントには引っ張りだこだな。このときはIUもハングルだったからさらに早口に。IUが話している内容もほとんど聞き取れなかったけど、形容詞はなんとなくわかった(笑)。昔IRISイベントでイ・ビョンホンの「21日」だけ聞き取れた頃とくらべれば多少はボクの耳もハングル慣れしてきたかな。
アニメの「夏目友人帳」のファンだというIU。IUは温泉好きということだが、アニメや音楽の趣味も結構渋いな。なんだか妙に納得してしまう。IUという世界観にマッチしてる。コリーヌ・ベイリー・レイが好きだったりもするそうなので、「プット・ユア・レコーズ・オン」のカヴァとかして欲しいなぁ。そういう品のある楽曲もIUの魅力が出せると思う。
アンコールではギターの弾き語りでラビング・ユー。IUはウィスパーボイスもなかなかいい。もう少し年齢を重ねるともっとよくなっていくように思う。ボクはなにげにウィスパーボイスが好きなのだ。ヴァージニア・アストレイやツイン・ピークスのジュリー・クルーズ、日本人ではbiceなどなどが大好きなウィスパーボイス症候群なのだ(笑)。
帰ってきてさっそくIUジャパンオフィシャルファンサイトにも登録した。次回はぜひフルスケールのコンサートを聴きに行ってみたいものだ。























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